諦めない君へ
2023/12/6〜2023/12/8
予報通りの雨続き。
初日こそ街を歩いて回ったものの、その後3日間は宿に籠もりっきりだ。
自炊する食材を買いに近所のスーパーへ行っただけで、あとは写真整理やnote執筆、読書などに時間を費やした。
しかし、だからといって無駄ではない。
むしろ、この“止めている間”こそ深慮や観照を促し、経験の価値を高められる。
今までの出来事をしっかりと受け止め、消化する時間は大事だと思っている。
つまり何というか…丁寧に旅をしたいのだ。
それはそうと、今回の宿にはよく見かけるロシア人男性がいた。
イゴールと名乗る彼は、年の頃ならそう…30手前だろうか。頬全体を覆う髭に190cm程はあろうかという長身、オールバックの髪の毛を一本に束ね、頭にバンダナを巻き、さながらヒッピーのような出で立ち。
それでいながら物腰は非常に柔らかく、どこか遠慮がちで大人しい、バックパッカー宿ではあまり見ないタイプだった。
私とイゴールは初日に出会い、軽く挨拶すると、日本人だと知った彼は控えめに笑いつつも、その大きな目を輝かせて応えてくれた。
聞くと日本好きで、とりわけ「NARUTO」や「もののけ姫」のファンだという。
ちなみにジブリも然ることながら、アニメや漫画、特に「NARUTO」の人気は凄まじい。
各国の現地人と話をすると、往々にして「Japan!」そして2言目にはその名前が出てくる。
イゴールも同様で、更に彼はアプリで平仮名も勉強し、五十音も覚える熱の入れようだ。
その後も私達は共用スペースで何度か顔を合わせるが、お互い興味を持ちつつも遠慮し合い、会話も挨拶程度に終わる。
私も話をしたいのは山々なのだが、漫画やアニメに明るくないので二の足を踏んでいた。
彼も彼でやはり控え目な性格らしく、話したい様子は伝わるのだが会話はすぐに途切れ、寒いのか、暖炉の前で背中を丸め座り込む。
偏見かも知れず申し訳ないが、私が抱くロシア人は豪快で寒さにも強いイメージだったので、それとは真逆の彼が気になっていた。
そして滞在4日目の今朝。
私達はやはり共用のキッチンで再び顔を合わせる。
「コンニチハ」
彼が話しかけてくれたので私も返事をする。
今までならそこで終わっていたのだが、この日は様子が少し違って見えた。
「もしかして、今日チェックアウトなの?」
彼が頷く。
そして私達はイスに腰掛け、ようやく会話らしい会話を始めた。
ベジタリアンのイゴールは冷蔵庫からキャベツを取り出し、それを丸々一つ両手で掴み、生でバリバリと食べる。
そこは豪快なんだな…
私は旅人定番の話題を切り出した。
「この後はどこに行くの?」
彼はインドに行くという。
具体的にどの街かは決めていないそうだが、少し心配だ。
イスタンブールでさえ「忙しないので行っていない」と言う彼が、その大人しい性格でインドに…。
私は南インド地方を勧めた。その辺りは街も人も比較的穏やかだと。
彼もそれは理解しているようだった。
「しかし旅をするなら、やはりインドの喧騒は一度経験すべきだと思う」とも。
『やっぱり皆、考える事は同じなんだな…』
人、文化、宗教、食、景色…インドは何かと話題に上がる。
それだけ全てにおいて強烈な国なのだ。
その後も日本語やロシア語の話でひとしきり弾んだ後、少し途切れた間を埋めるように再び私が切り出す。
「君もバックパッカーなの?」
特に意味の無い質問。単純に会話を続ける為に聞いただけのつもりだった。
しかしイゴールは突然暗い表情になり、うつむき、少し時間をおいて答えた。
「これは悲しい話なんだけど…」
「ここに来る前、アンタルヤのバスターミナルで少し寝ていたら、その間にバックパックを盗まれたんだ…」
「それで…今は買い直した安いバックパックと、最低限の荷物で旅をしている」
なんと…
旅にトラブルは付きものとはいえ、“このテの話”は本当に気の毒で、言葉に詰まる…。
それでも、旅を続けているという事は心が折れていない証拠。
私も決して他人事ではないのだが、何か応援したくなる。
イゴールは私にとって、そんな雰囲気の持ち主だった。
「チェックアウト20分前だ、そろそろ行かないと…」
イゴールは立ち上がり、受付に挨拶した後、鏡に向かいバンダナを巻き始めた。
その間、私は筆と紙を取り出し、メッセージを書いて渡した。
「良強流、有り難う」
彼は名前の意味を理解し
「アリガトウゴザイマス」
と言って、その紙が折れないよう大事に仕舞ってくれた。
そして、宿の玄関先で見送り。
「ありがとう、良い旅を」
イゴールは南米のペルーで買ったというポンチョを被り、聞いていた通り、旅をするには心許ないバックパックを背負いながら
「こちらこそありがとう、良い旅を」
と、優しい笑顔で返してくれた。
開いたドアから覗く空。
いつの間にか3日間降り続いた雨は止み、相変わらずの曇天だが、その隙間から射し込む僅かな光が濡れたアスファルトを柔らかく照らしていた。