同調圧力と個人主義
コロナ禍での同調圧力?
コロナ禍において様々な行動制約が行われました。マスク着用やソーシャルディスタンス、コンサートやスポーツ観戦等の入場者数に制限等がありました。
国外そして国内からもコロナ感染の重要な防備策としてのマスクは当初は無効であり、意味が無いと喧伝されましたがその後、世界的に必要性が認知されました。しかし、他国ではマスクへの抵抗が大きく、政府による強制・義務化にもかかわらず装着が不十分です。
一方、我が国では従来から一般の風邪等においてもマスクは普通なので大きな抵抗も無くほとんどすべてが付けています。これは非常に良いことだと思われますがメディアや一部のリベラリストなどからは非難されている始末です。理由は「皆、本当は付けたくないが周りの眼を気にしている、すなわち、同調圧力によりつけているのであり自らの意思に反している」としています。ワクチン接種についても同様です。
海外は個人主義の国であり個人の権利が確立し、自立している優れた国民であり、政府よりも、周辺動向よりも個人の権利を重要視しているのでマスクは付けない、政府の必要な規制・義務化にもデモや暴動により抵抗していて、立派であるとの見解のようです。メディアでも最近まではそのような報道が多く、暴動的なデモも非難せず、むしろ個人主義を称賛しているかのようです。コロナ感染者数が他より少ない原因はマスクではなく、人種的なものとかワクチン接種が遅れた結果等としています。
しかし、さすがにマスク装着は必要で有効であると変化しつつありますし、多くが拒絶していると報道したワクチン接種は大半の国民が希望し、実際に接種しています。
メディア達はこの機会にも何故か、執拗に何とか欧米の個人主義を称賛して日本人の意識の低さをアピールしたいようです。
しかし、マスクをつけることは他の眼を気にしているからでしょうか?少なくとも私や周辺の人たちは必要・有効だからと自ら判断して付けていますし、今後とも政府が装着を推奨したり、しなくても良いとしても自らの判断で決めることと思います。各人が自らの適切な判断の結果での大半の言動は良い意味での同調圧力です。政府や専制者による強制は必要ありません。個人主義の集団では強制・義務化が必要となりますがどちらが良いのかは言うまでも無いと思います。
個人主義とは
個人主義、個人の権利をアピールすること自体は良いでしょうが、マスク装着が個人の権利を重大に侵しているとの考えはあまりに稚拙ですが国内のメディアはそう思っていまいようです。メディア達はマスクとつけることの是非の判断が出来ないようです。
これは一例ですがすべからく、メディアや意識高い系と自認する人達は日本人を卑しめる際に欧米の個人主義との対比をします。
これまでもそうですが今回のマスク装着に対するデモなどを見ても如何に民度が低いのかが露呈されていると思います。これは単にわがままにすぎないと思われます。
日本人は全体として基礎的な教育を受け、常識がありますので政府に言われなくても一定の事象については理解できますし、他人を思いつつ全体としての最大効果を考えることが出来ます。一部の識者達は自分たちだけが有能と思っているのでしょうね。部分的な専門分野ではそうかもしれませんが常識がありません。
個人主義と同調圧力
昨今、メディアが使う同調圧力は本来の意味と異なっているようです。本来は「少数意見を持つ人が多数意見に合わせるよう暗黙のうちに強制・誘導される状況」を指すものでありネガティブな意味合いがあります。しかし、そもそもこれが本当に悪いことでしょうか?民主主義の基本は多数決です。多数の意見が全体の意見として採用され、それを前提に物事が動きます。その際に重要なのは少数意見にも十分配慮することです。しかし、個人主義は個人個人の少数意見に多数意見を誘導するようなことになります。例外はありますがそもそも日本人の多くが同意する内容が明らかに常識や合理性に反することがあるはずがありません。メディアは日本社会は同調圧力の社会と非難しますがむしろ、メディアが多数意見を少数意見に誘導するような動きが見られます。少数意見による同調圧力の方が問題です。ワクチン接種意向についても同様ですし、選挙で多数で当選してもメディアが応援していない候補者であると選挙民を非難します。多くの多様な意見がある中で物事を決めていく民主主義をっ自ら否定していることになります。
最近ではメディアの意向通りに国民が動かないため、民主主義は終わった等のおかしな意見も出されるようになっています。また、言うに事欠いて戦争を始めたのも同調圧力だという始末です。
どうも中国やロシア等の専制主義の方が良いと思っているようですが民主主義の番人、社会の木鐸でもあるメディアがこれでは本当に問題です。
「国体の本義」からの示唆
さて、この同調圧力の問題を契機に改めて日本社会の姿としてどう考えるかを整理することは「日本のカタチ」を再編する際にも必要かもしれません。
これに大変参考になるのが「国体の本義」(1937年)です。実はこれまでその存在自体を知りませんでしたが、佐藤優氏の論評により改めて認識し、良い文献になると思いました。
簡単に要点をまとめると下記のとおりです。
「国体の本義」は戦前にだされ、その後、進駐軍が禁書にしたようですが発刊当時、政府が軍部の右傾化危機感を持ち、これを払拭し、国体明徴運動を軌道修正しつつ、西洋的なものを受容する下地をつくるために「日本の日本とはどんな背景で生まれた国で、その国体、すなわち国の根本的なあり方とはなにかといったことを改めて整理した」ものです。
戦後、国体の議論が歪められ、真っ当な議論が出来ない中で本書も埋めれてしまったようですが現時点でこそ改めて若い世代に読んで欲しいものです。妙な先入観無しに読むことで各人が判断すれば良いと思います。ただ、メディアは内容に関係無く、マッカーサー元帥が禁止した本ということでネガティブな同調圧力キャンペーンに走ることが危惧されますが。
憲法改正の議論もここをスタートラインにしないと最初から歪んでは話になりません。
「国体の本義」には多くの示唆がありますが特に下記は重要です。
西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義であるとし、それを評価する一方で、個人主義は、結局個人と個人、あるいは階級間の対立を生じさせるものであることと看破して、国家生活・社会生活の中に多くの問題と動揺を起こすものであるとしています。また、当時、西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れていることを紹介論じています例えば、所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主義・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。」すなわち、個人がバラバラの状態のものを束ねようとする手段が必要でありそれがこれらであるということです。
メディアでは日本には良いリーダーが居ないこと非難します。メルケル氏、ジョンソン氏、マクロン氏等々を称賛していますが言い方を変えればバラバラの人の集合体を安全で信頼できる社会としてまとめには協力なリーダーが不可欠であるということです。
一方、日本はそのようなリーダーは不要です。居なくても世界が目指す安全・安心・効率的社会が出来ています。もちろん、さらなる向上のためのトップは必要ですが彼らとは次元が違います。
この西洋の個人主義を超えるものとして「日本人の和」を謳っています。「役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従うことが重要である。上に立つもの、下に働くもの各々が分を守ることによって集団の和は得られる。国家に於ても同様である。要するに夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じくすることにより葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。」と表記されておりまさにその通りです。
そして、聖徳太子の17条の憲法における第一条「和を以て貴しと為し、忤(さがふ)ふることなきを宗と為す」を引き合いに出している。これは我々も昔から聞きなれたフレーズですが、改めて、その重要さ、的確さを感じ入ります。これこそ日本人の最も基本的な姿勢であり、世界に誇れるものでは無いかと思います。
以上の「国体の本義」を詳しく解説したのが下記の佐藤優氏の論評です。大変参考になるので是非ご覧ください。
https://president.jp/articles/-/52074?page=2
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