#天職だと感じた瞬間
大手電機メーカーの子会社で20年近く広報業務に従事しました。
その会社は企業の業務を受託する会社。
初めての広報に戸惑っていた私に上司から言われたのはカタカナ言葉が飛び交う業界の中で、中学生が読んでもわかる文章を書くことが一点。
そしてもう一点は、事実よりほんのちょっと良く書くことでした。
今はその会社を卒業して大手生保会社の地方一支社で広報とは無縁の仕事をしています。
が、広報業務で培った相手を理解し、自分(たち)をわかりやすく説明する視点は今でも役に立っています。
貴重な情報やデータは社内外のあちこちに。
机や書棚を整理整頓とは言われますが、業務の整理整頓は意外と少ない。
お客さまの視座を持ってそれらを収集し整理し場合によっては付加価値をつけて。
すると、あら不思議。次にする事が見えてきます。私流間接部門の流儀です。
広報業務でおせっかい
今から20年近くも前のことです。
パソコンのコールセンターのアウトソーシング業務を親会社から受注し、良好な人間関係のもと、顧客満足度向上を目指して日々の業務に取り組んでいた当方の現場スタッフ。
どちらともなく、発注者と受注者の対談記事を作成してはどうかと声が上がりました。
そこの大所帯の最先端センター運営は当時業界でも品質がピカイチだったので、露出することは双方にとってwin-winだと社内は色めきだちました。
私も張り切って雑誌社と双方の調整に乗り出し、無事取材当日を迎えることに。
自信満々にセンターの目指す姿を語るクライアント企業の統括部長。
それに呼応する形でセンターの現場風景を紹介しながら使用しているシステムと人の知恵で第三者から評価されたセンター運営の品質について語る当方センター長。
滞りなく、何より統括部長のご機嫌麗しく終わったことで胸を撫で下ろしました。
しかし、デスクに戻った私は胸の内にムクムクとこみあけるものを感じていました。
統括部長とセンター長の話を側で聞いていてセンターが抱える3つの課題とそれぞれのお客さまニーズの変遷、そのためにとったそれぞれの対応索を一枚のスライドに収められそうだぞと私の心が囁くのです。
早速パワーポイントに打ち込み始めました。
自分で言うのもなんですが、かなりきれいに仕上がり、最後にPマークのロゴを添えて完成。
早速雑誌社に送りました。
雑誌社はそのスライドを入れ込んで原稿をあげて来られたので確認のもと、クライアント企業とセンター長へ。
細かいチェックが入り無事校了。
結局スライドは誰からも何も言われることなく世の中に送り出されました。雑誌社はクライアント企業が、クライアント企業とセンター長は雑誌社が描いたと思っていたようです。
私の最大の失敗は、雑誌社に送る前にクライアント企業に了解を取り付けなかったこと。
悔やんでも時既に遅し。
二十年以上前の若気の至り、関係者の皆様、申し訳ありませんでした。あれは私が描いたものです。
でもよくまとまっていませんでした?
広報業務の見える化で生産性向上
私が働いていた会社は最初こそ米国企業と日本の大手電機メーカーの合弁企業で、営業、マーケティング、広報などは比較的自由にやれていました。
ところが年数を経て時代の潮流の中、親会社である米国企業は経営陣が変わっていくなかで日本からは手を引くことになり、完全子会社化されました。
古参の従業員の中にはやりにくくなったと頭を抱える人もいましたが、新しく入社する人たちは、日本の大手のブランドに惹かれていることも確かでした。
特に優秀な人材を百人単位で確保するためには、地方都市×大手ブランドの戦略が必須。
そしてそれは見事に成功して、その成功体験を次々に展開させて会社は駆け出しの頃の数十人規模から一気に数千人規模へ。
そんな中私は本社で広報業務に従事していましたが、地方の拠点で取材依頼をいただくこともしばしば。
その度に拠点センター長から連絡を受け、内容を確認し、親会社の広報と会社の役員に承認をもらい、現地で対応してもらいアウトプットの確認、社内・親会社への通知などの作業を行なっていました。
こう書くとなんのこともないようですが、実際は取材のレベル感がバラバラ、取材方法もバラバラで相当私は疲弊していました。
そこでこれらをまた一枚のスライドにまとめて、ここからここまではセンター長判断で、ここから先は広報判断が必要なので連絡をくださいと全国のセンター長にお願いをしました。
この広報業務の可視化スライドを作るのは大変で、分かったようなちょっと騙されたような出来栄えでしたが以降、業務はやりやすくなったのでまあまあの成功だったと思います。
ちなみに広報では人が聞きたいことに答えてあげることが必要とその時話したのですが、人が聞きたい代表例に、温かい話としたのは私流。
親会社の広報は口が裂けてもそんな事は言わないでしょう。
今もその説明が正しかったかはわかりません。
がアウトソーシング企業としての厳しい立ち位置でセンター長に話すにはそれで良かったかもしれません。当時の私の判断を信じます。
あの知識創造企業の一橋名誉教授野中先生との対談記事企画
忘れられない仕事の一つ、それは知識創造企業を提唱する、野中郁次郎先生と社長との対談記事企画です。
成功企業を見ると暗黙知と形式知を行き来させ共通善に向かって生き生きとした知識創造を行なっていることがわかるという、世界的権威の野中先生にはつてがありました。
当時の会社の中で行われていることを俯瞰すると、野中先生の仰るSECIモデルができていることに気づき、それをパワーポイントに起こして上司へ提出。
上司はそれを携えて多忙な野中先生のもとを訪れて、先生を口説いてくださりました。
すぐに承諾をいただくことが出来、社にお呼びし、雑誌社のライター、カメラマンとともに対談が行われました。
対談終了後は、野中先生が卒業された慶應義塾大学内にあるレストランでお食事を。
その場に居合わせられるだけでも光栄なことなのに、お店のチョイスもお褒めいただき、天にも昇る気分でした。
出来上がった原稿を社長に届けると、「直すなよ」と一喝。
いつも自由にやらせていただいていましたがこの時ばかりは注意が入りました。
拝読すると手直しどころか、いつの時代に読んでも色褪せない、大変格調高いけれども、読みやすい、私が言うのも失礼ですが素晴らしい内容でした。
これだけの仕事ができたのも上司が先生を説得してくださったから。
さらに、現場部門を上手くまとめ上げていた間接部門の存在があったから。ですがもっと言うと、日ごろから研鑽を積んでいる現場の努力があったから。
私の仕事は社内全体の上昇志向の活動のもとに成り立っていたのだと、今思い出しても感謝、感謝です。
この取材と前後して、会社のこれらの活動をホームページに品質活動として執筆した私。
この会社を卒業して10年近くも経ちますが、今もその記事は掲載されたまま。
私はもういないのに。不思議な気分です。
別の方がこの続きを執筆、掲載してくださることを願って止みません。
二十年以上の間接部門の一員として
きついようですが、親会社や本社が言うことをそのまま関係者に伝えるのなら、その人やその組織の存在価値は無い。
私はそう考えています。
日本の企業の生産性の低さが取り沙汰されて久しい今、メールやTEAMS、ZOOMでのやり取りが当たり前になり、コミュニケーションは広く緊密化している。
なので、言われたことを流すだけの人を養うのはもったいないと思うのです。
現代の日本の企業はそうした人や階層、組織を囲い過ぎているのではと懸念します。
お金を稼ぎ出す現場でもない、企業の存続を担う本社機能でもない、いわゆる間接部門で働くには、常に自分がしている業務に習熟して、本社と現場を繋ぐパイプラインとして、双方に多様なメッセージを出し続ける必要があると考えます。
その際のキーポイントは3Cでカスタマー、カンパニー、コンペチターなのは言うまでもありませんが、その中でも特に私が意識するのはお客さま視点と会社の基本的な考え方。
そしてそれを超えたところに共通善があると感じています。
この共通善の考え方が難しいですが、今で言うところの人、モノのサステナブルに繋がるのでしょうか。
サステナブルもカタカナ言葉ですが、これだけ世の中に普及していれば良しとさせてください。
こう言う提言をする事で、間接部門として従事する自分の首を絞めることになることもわかっています。
ですが、二十年以上間接部門で働かせていただいた身、あえて苦言を呈します。
自分がやっていることを客観的に見て不要なことはないか、足りないことはないか。
動いていただく組織は何に困っているか、どうしたらwin-winの関係になり得るか、上がって来る声に耳をすます。
これは深掘りして周知する必要があると思ったことは、絵で、数字で、文を書き起こす。
本社や上位組織に必要な情報をもらって。
自分の存在価値を疑いながら、やっていることに付加価値を。
私はそうして今日も間接部門の一員として働かせていただく。日々業務を積み重ねていきながら、現場にありがとうと言って貰えたそのときに天職と感じます。
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