小さな幸せなんてクソ食らえ
小さな幸せを見つけて味わいましょうとよく言われるが私はこの言葉が嫌いである。
私は何故強い嫌悪感を抱くのか考えてみた。
はじめに辿り着いた答えは「お前は小さな幸せしか手に入れられないその程度の人間だと言われているように感じるから」だった。
これは私という一受け取り手の嫌悪感の理由である。これを考えついた当時は肩肘張って目標を達成しようとしていたため尚更このように感じていたのだろう。
だが近頃これは言葉自体の嫌悪感の理由ではないことに気づきまた考えてみた。
引き寄せや潜在意識系では価値観は人それぞれ、自分の価値観でいいと言われるが私は大事なことを見落としていたのだ。
それは、ネガティブな観念に関しては自分は自分のままでといった上記を適用する発想がしっかりとあるが、ポジティブな観念はなぜか価値観の足並みが揃ってしまっていることだ。
小さな幸せだけは全員が同じ価値基準を設定しようとしている。ここに嫌悪感のミソがあったのだ。
このことに気づいたとき、私は小さな幸せといった言葉が破綻していることに気づいた。
小さな幸せに対する価値基準が一律になってしまった背景には心当たりがあった。
それは幸せのハードルを下げましょうという文言である。
現代の資本主義における上昇志向及びコスパタイパの理念により、私たち現代人が幸せを感じにくくなっている問題。これを阻止していくために提案されたのが幸せのハードルを下げること。
だがしかしどうしても痩せ我慢になってしまいがちではなかろうか。清貧を重んじた戦時中のような観念を無意識下の奥深くに置いてしまっている人間にとっては、せっかく望んでいいと知ったのにそれを禁じられた感覚になるのである。もはや禁煙と同じものなのかもしれない。
小さな幸せの一言から発し手の意図を正確に読み取るのは容易ではない。受け取り手の観念が幾重にも覆い被さってしまうからだ。
今までつぶやきや記事に同話題をチラつかせてきたが今回はメインとして執筆してみた。
嫌いとはコンプレックスやアイデンティティにより手軽にアクセスできる便利な感情だと思う。小さな幸せに対して強く生じた「嫌い」は私のコンプレックスをズルズルと引っ提げてきたようだ。
でも一応私の挙げられる中で小さな幸せに当てはまるものは何かと考えた。考えつくものはあったが私の中では全然小さいだなんて思わない。勝手にこれを小さななどと言わないでくれ。そう、これが私の嫌悪感の本質だったのだ。
なぜ小さな幸せに嫌悪感を抱くのか?
それは一般的にポジティブと言える物事を自分の価値基準で決めて良いという発想がなかったから。
ネガティブを自分自身の価値基準で決めて良いように、ポジティブも自分自身の価値基準で決めて良いのである。これが私の結論だ。