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四十八文字の話『チ』鎮魂(ちんこん)「踊り念仏」と「出雲族」との意外な関係

○「神社」とは、どういうところでしょうか?

皆さん、今回は皆さんもよく参拝するであろう「神社」を、少し目線が違う方向から記させて頂きます。

皆さんは「神社」へは何を目的に参拝されますか?
年の瀬や元旦、入学や卒業祝い、就職、結婚、我が子の七五三等々、長い人生の中で数々有るであろう「節目」において、神々に感謝するために参拝したり、また偶然に何気なく神社の前を通りかかった時、ふっと「折角だから、家族の健康でも祈ろうかな」と思い参拝するなど、色々な場面が有る事でしょうね。

ところで皆さんがよく参拝に行く「神社」、偶然通りかかって参拝したその「神社」のご由緒や主祭神、配祀神が「一体どちらの、何という御名前の神様」か、気にした事有りますか?

例えば

◎日本全国に多く鎮座する「天満宮」だったら、平安時代に活躍した「菅原道真」(すがわらのみちざね)公

京都 北野天満宮

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◎東京都千代田区外神田に鎮座する「神田神社」ならば、「主祭神」は出雲の『大国主神』(オオクニヌシノカミ)、「配祀神」の御一人は「平将門」(たいらのまさかど)公。

東京 神田神社(神田明神)

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よく参拝しているその「神社」について、もし何もご存知ないようなら今度参拝に行く時は、一度改めて、ご確認した方が宜しいかと?

で、実際確認してみると「意外な事」に、気付く場合が有るんですよ。

例えば、同じ神社の「主祭神」と「配祀神」が、「日本書紀」「古事記」などの神話の世界では「互いに競い合った勢力の神様同士」だったり、「配祀神」が何故か、学校の教科書にも載っているような歴史上の人物だったり。

また「神社」を人々の願い事を叶える神聖な場所とするのは当たり前だと思うのに、何故か「怨霊」や「祟り」にまつわる人物が「神様」として祀られていたり、等々。

○『神様にも神様御自身の願いがある』

人々の夢や願い事を叶える神社。だから皆さんは神社に「願掛け」に行きますよね。それは至極もっともな事です。

ですがそんな願い事を任せられる当の「神様」御自身のお気持ちはどうなのでしょうか?考えた事有りますかね。ましてや「呪い」や「祟り」などの伝説が伝わっている人物が「何故自分が神として祀られているのか?」などと思っているかもしれません。

実際当のご本人は、この事象をどう思っておられるのか?「御本意」なのでしょうか?

○「出雲族」と「神田神社」

「日本の三大怨霊」と一人と伝わっている「平将門」(たいらのまさかど)公。

誰が好き好んで後世の人々から「怨霊」などと伝えられる事を望むでしょうか?そして、単なる私利私欲だけで戦う人物だったらどうして神社に祀られているのか?

ほんの一時期ですが、坂東(関東)地方一円を制圧した「将門」公。こんな事「一般の衆生からの支持」がないと到底出来る事ではないと思います。

「平将門」公が祀られている事で有名な「神田神社」(神田明神)。ですが創建時は「将門」公は祀られていなかった事はご存知でしょうか?

創建は奈良時代の天平三年(730)。主祭神は『大国主神』(オオクニヌシノカミ)。ご存知の通り「出雲大社」に祀られている神様と同じです。まだこの時代、「将門」公は生まれていません。

『大国主神』

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創建した方の名は「真神田臣」(まかんだのおみ)。この方は所謂「出雲族」であり、ご自分らの一族の神である『大国主神』をお祀りしました。場所は現在の「将門の首塚」のある東京都千代田区大手町です。

住み慣れた土地(出雲)を離れ、遠く東国までやって来た出雲族。一族が自身の神様を祀るのは当然ですよね。ですが場所が東の果て!、おそらく当時の東京湾海岸線辺りかと思われます。

どうして遥か東国の、海の境目までやって来たのか?

これは行く先々で発生する諸々の出来事を回避するための結果だと思います。

神話で語られている「国譲り」は、とても平和的な出来事として伝わっていますが、本当にそうだったのでしょうか?それまで出雲の方々がとても平和に暮らしていたその土地に、突然、「この辺りの土地はとても良い。だから今日から我が主人の土地とする。すぐに譲れ!」と言われた状況を想像してみて下さい。出雲の方々、すんなりと土地を譲りますかね?

想定されるのは、やはりかなり激しい「戦争」が起きたのだろうと思います。

ですが結局負けた出雲の一部の方々は、住み慣れた土地を捨て、他の地域へ移住せざる負えなかったのではないでしょうか?

そのお一人がこの「真神田臣」だったと思われます。この方ご自身が出雲から逃れて来たのではなく、おそらくこの方の「遥か昔の遠いご先祖様」が出雲を捨て、しかしながら、行く先々の土地でも住みにくい事情が有った事は想像に難くなく、何世代も経て、出雲から遥か東の果てに行き着いたのだろうと思われます。

○「踊り念仏」

では「将門」公が「神田神社」に祀られるようになったのは、一体いつの頃でしょうか?

それは「真神田臣」が建てたその時代から実に約五百七十年後、鎌倉時代の延慶二年(1309)の事です。

祀ったのは、時宗(じしゅう)の僧侶「真教上人」(しんきょうしょうにん)です。

「真教上人」

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この僧侶は何者かと言うと、仏教の一派であする「時宗」(じしゅう)の開祖「一遍上人」(いっぺんしょうにん)に直接帥事し、師匠が行った所謂「遊行」(ゆうぎょう)を見習い、自らも日本のあちこちを旅しながら、行く先々の土地の人々に仏教の教えを伝えた方です。

その上人が武蔵國豊島郡芝崎村(現在の東京大手町)付近に遊行に来ると、その土地の人々が「将門公の怨念」のために生活に苦しんでいる事を耳にしました。それを不憫に思った上人は「将門公の怨念の鎮魂」のために、正にそこに鎮座していた「神田神社」に合祀奉まつりました。この時から「平将門」公は「神」として遇されます。

「平将門」公

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たまたま遊行して訪れた場所が現在の東京都大手町、そして所謂「悪人」「怨霊」と恐れられていた「将門」公を鎮魂し、祀った「真教上人」。それが約七百年後の現在、東京都千代田区外神田の「神田神社」に引き繋がるのですが、これは偶然の出来事なんでしょうか?

仮にも今現在まで鎮座されている「神田神社」。先程から記している通りその創建は古いですが、今現在でも実に多くの参拝者が訪れ、大変人気のある神社です。当の「真教上人」もそんな事になるとは思っていなかったでしょうね。

この上人は師匠の行いを模範とし各地を遊行し、たまたま通りかかった所で「将門」公を鎮魂した、と記しました。この偶然の思われる出来事、どうやらこの「引き寄せ」を演出したのは、師匠である「一遍上人」だと思われるます。

一遍上人とは鎌倉時代の僧侶で、鉦などを叩きながら、俗に言われる「踊り念仏」をして諸国を回り、一般の衆生には、難しい仏典を読まずとも、厳しい修行をしなくとも、ましてや男女の別、遊女などの職業や身分などに関係なく「ただただ仏様に祈っておれば必ず救われるよ、あっはは~」と唱えて「時宗」の開祖となりました。

「踊り念仏」

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今でこそ、普通に全国に寺が存在し、多くの僧侶の方がおられますが、この鎌倉時代以前では、仏教自体の存在目的は飽くまでも「国家鎮護」が主な役目であり、厳密に言えば「一般の衆生」は対象外、国家と高貴な人達(天皇をはじめとする皇族、そして貴族)を守護、弔う事でした。更に「僧侶」は国家の教育機関で正式な資格を取った人でないと公には認められません。

現在の教科書にも載る様な「一遍上人」ですが、その生涯において、「寺」や「道場」を一つも持ちませんでした。ただひたすらに、日本全国を歩き回って、仏の教えを、「踊り念仏」を弘めていたようです。

おそらく上人は、当時「僧侶」の扱いなど受けず、逆に得たいの知れない「河原者」(かわらもの)、現代風で言えば「住所不定、職業不詳の者」であり、そんな人物に率いられた集団が踊りながら何やらわけの解らない呪文の様な独り言(念仏)を唱えていればどうなりますかね?おそらく時の「取り締まり機関」はすぐに警戒します。当然「一遍上人」に対し数々の妨害をしたと思われます。ですが、「どんな人でも、どんな身分の方でも祈れば救われる」という教えに、それまで「仏教なんて身分の高い人のためのものだし、それにひきかえ自分は身分など高くないし、まともな教育も受けてないからな」、と最初から「救われる」事など諦めていた一般の人々に、この「踊り念仏」が次第に浸透して行きます。

「一遍上人」

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そんな師匠に師事した「真教上人」が「神田神社」に「将門」公を祀ったのです。

その「引き寄せ」「演出」したのが「一遍上人」だと記しましたが、その理由はこの上人の生い立ちから話さなければなりません。一体どんな方なのでしょうか?

この上人も、ご自分のこの様な「踊り念仏」を行う当たり、自分より遥か昔、平安時代に実在した「ある僧侶」を模範としていた方です。それについては後ほど述べさせて頂きますが、それ程までして人々を救おうとした「一遍上人」について述べさせて頂きます。

○「一遍上人」

「一遍上人」は伊予國(現在の愛媛県)出身の方です。瀬戸内海の海運業(時には海賊にもなりますが)を営んでいた「河野一族」の系統の方です。この「河野一族」、出自を遡ればある皇族の後裔であり、鎌倉時代には「元寇」蒙古襲来の時、自分達一族の船団を率いて、九州武士らと共に戦った名族です。

そしてその瀬戸内海の大三島に御鎮座するのが「大山祇神社」。「河野一族」もこの神様を崇敬していました。この神社、全国に鎮座する「三島神社」の総本社と言われています。そしてもう一つ、同等の総本社として伊豆國には「三嶋大社」が御鎮座してます。

愛媛 大山祇神社

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その伊豆の「三嶋大社」に祀られている神様の一柱に『事代主神』(コトシロヌシノカミ)がおられます。皆さんご存知でしょうか?この神様、出雲『大国主神』の息子です。

「出雲の神々の系図」(「出雲神話とゆかりの地」より)

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静岡 三嶋大社

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古代「国譲りの神話」で、父親の『大国主神』が高天原のお使いからの要請により、「国譲りを依頼されたがお前はどう思う?」と相談された『事代主神』。

「父の言に従います」

その様に仰り、そして「青柴垣にお隠れ」(入水)になった『事代主神』。世間ではあまり伝わっていませんが、おそらくこの神も「怨念の神」となられたかもしれません。

遠い過去から今まで、自らが築いてきた平和な国(出雲)を、突然他者に明け渡す事になったその「無念さ」を持ちながら入水されたのではないでしょうか?

と言う事は、その怨念を「鎮魂」し、祀り上げるために建立されたのが全国に御鎮座する「三島神社」だと思われます。そしてその「三島神社」の総本社が御鎮座している瀬戸内海で生まれ育った「一遍上人」。些細な事ですが、この時点ですでに「出雲とのご縁」を感じます。

更にもう一つ。先程述べましたが「一遍上人」は伊予の河野一族の出です。では、母方、母親の方はどうなのでしょうか?

上人の母親の出自、それは「大江氏」。鎌倉時代の「大江広元」(おおえのひろもと)公の孫娘と伝わっています。

「大江広元」公は鎌倉幕府創設時に活躍した文官で、政所別当(まんどころべっとう : 長官)になり、源頼朝公亡き後に頻発した、幕府内の有力御家人同士の闘争に巻き込まれないようにして、その間に幕府の体制を整えた人物です。

実はこの「大江」氏。後ほど述べさせて頂きますが、平安時代から全国の天満宮に祀られている天神様「菅原道真」(すがわらのみちざね)公の「菅原氏」と同様、「出雲族の末裔」です。

🌕因みにですが、この「大江広元」公の四男「季光」(すえみつ)は、父から相模國毛利荘(現在の神奈川県厚木市)を相続し、のち安芸國(広島県)に移り住み、そこで土着します。そしてその子孫が、戦国時代に中国地方の覇者となった「毛利元就」(もうりもとなり)公です。

安芸國と伊予國、瀬戸内海を挟んだ対岸どうしですね。

その後も江戸時代、後の「明治維新」の中心勢力となった「長州藩毛利家」の家祖に当たる人物です。「明治維新」が「出雲族の末裔」により行なわれていた、と言う事なのでしょうかね?


話を戻します。

これまでの話、「三島神社」に関する話と「母方の出自」を聞けば、「一遍上人」はやはり、「出雲」とは無縁であったとは思えません。

これらの話を勝手に想像すると、直弟子である「真教上人」が、遥か西から廻ってきたその「出雲族」である「真神田臣」が祀った「神田神社」。そこにたどり着いたのは、やはり引き寄せ、「ご縁」があったからでしょうね。

○「平将門」公

「平将門」公は延喜三年(903)、下総國岩井郡(現在の茨城県坂東市)の生まれです。当時の岩井郡辺りは周囲が野原だらけ、とても農業などの耕作地には合わない環境です。そのため、「馬」を飼育し育てる生業が盛んでした。

「平将門」公

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そんな環境で育った「将門」公。小さい頃から馬と親しみ、草原を駆けまくっていた事でしょう。俗に「坂東武者」(ばんどうむしゃ)との言葉が伝わっていますが、その典型的な方であったのでしょうね。武骨な方ですがその反面、他人の面倒見が良い人物だった様です。

ですがその後、同じ一族内の「土地問題」を切っ掛けにして争いが起こります。最初は「同族」内の問題に過ぎなかったこの争いが後に「平将門の乱」(931年頃~940年)に発展します。

この戦いで「平将門」公は勢いに乗り、一時は関東一円を制圧します。そして京都の朝廷を滅ぼし、天皇に替わる「新皇」として政権を握る、と語ったとの話が伝わっています。

ですが単なる「一族」内の問題で、何故そんな話が伝わっているのか?

確かに力を付ければ付ける程、それなりに諸々の悩み事が有る人々が「将門」公を頼りに集まって来ます。これは現在の、特に「政治の世界」を見ていれば理解出来る現象です。

先程も記した通り、「将門」公は面倒見の良い方でしたので、そういった方々の頼みを断れなかったのでないのでしょうか?

当時(平安時代)各地方に赴任する貴族達(今で言う国家公務員)。この人達は、各々の赴任先の事情に関心がなく、ただただ赴任先からの税金を徴収する事に躍起になり、時には賄賂を貰って有力者などに便宜を謀るなど、一般衆生の事など省みない「行政」を行った方々が多いのが事実です。

当然「将門」公の元にもこの種の問題を訴えてくる人達がやってきたのではと想像出来ます。それもかなり多くの人が。

これらの訴えを無碍に出来ない「将門」公。結局この面倒見の良さが、関東各國の朝廷から派遣された国司達を追い出す行為まで発展してしまったのでないでしょうか?

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「一般の衆生からの支持」がないと、一時期にせよ、それまでの日本の歴史には前列のなど無かった「関東一円の制圧」など無理かと思われます。ですがこの行為は、京都の朝廷から見れば、明らかな「反乱」と見て取れます。

「将門」公は「新皇」を名乗り、京都の貴族社会に取って替わる気だったと言われていますが、果たして本当にそうでしょうか?

まだ争いが「一族内の土地問題」に過ぎなかった頃、「将門」公は京都朝廷からの「その土地争いの件について事情を聞かせてくれ」との要請に対し、すぐに素直に従い、暫くの間、実に七ヶ月もの間、京都に滞在して事の成り行き、そして「自らの弁明」に努めました。

そんな恭順な態度を見せていた方が、どうして「天皇に取って替わり新皇を名乗る野望」などを持つのでしょうか?

またその後「関東一円を制圧」した「将門」公。ですが、「京都に攻め上ろう」とする姿勢を一切見せていません。

「一般衆生の支持」が凄いものだとすると、先の「一遍上人」の時と同じ様に、それに対し警戒するのは「時の支配者」、「藤原氏」をトップとする「貴族」の人々。「将門」公の死後、数々の出来事が起ったため「怨念」の存在に仕立て上げたのはこういった方々です。

○「菅原道真」公

他にもう一人、ごの方も、自身では「怨霊」と仕立て上げられたのが「本望」だったのかどうか?

全国の天満宮で祀られている天神様「菅原道真」(すがわらのみちざね)公。

「平将門」公が生まれる約六十年前、平安時代の承和十二年(845)に生まれ、早くからその聡明さで「神童」と呼ばれた方です。第五十九代「宇多天皇」(うだてんのう)により大抜擢され、異例の地位まで登り、当時の政治を司った人物。

「菅原道真」公

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この「宇多天皇」には「寛平御遺誡」(かんぴょうのごゆいかい)と言う、御自身の後を継いでいく、後代の天皇のために、数々の「訓示」を記した御宸筆が有ります。

第五十九代 「宇多天皇」

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そして、そこに記述されている内容を、実に平易に解説している書籍が嘗て存在してました。

戦前、東京帝国大学教授、「史料編纂所」の初代所長を勤めた「辻善之助」(つじぜんのすけ)氏。

その方の著書である「皇室と日本精神」と言う書籍には、如何にこの天皇が「菅原道真」公を信頼していたのかが、大変「実感」して見て取れます。


「宇多天皇」に対し数々の助言を奉っていた「菅原道真」公。その信頼性によってか?、そろそろ天皇の御位を御自身の皇子に譲位しようと考えていた「宇多天皇」が、その件について唯一相談された方が正に「道真」公です。

そしてその御相談を承った「道真」公は、こう諫言したそうです。

「お気持ちは解りますが、こういう重大な事には【天の時】というものが御座います。急いてはなりません。」

そこで「宇多天皇」はこの諫言をお受けになり、譲位を一時取り止める事にしました。

ですが暫くして「やはり皇子に譲位する」と決めた「宇多天皇」。それでまたこの件について「道真」公に相談します。ですがこの時、「道真」公は何も言わず、万事譲位のための手続き、決め事を執行していきました。

ところがその後に、色々と諸問題が起こり、とても「譲位の儀式」など出来る余裕などなくなり、「宇多天皇」が譲位は先伸ばしにしようかと考えていました。それを察した「道真」公、この時、こう言ったそうです。

「こんな重要事を先伸ばしにしたら、次の機会がいつ来るかとも限りません。是非とも今ここで、ご決断下さい。」

そしてこの時の助言により天皇の御位を受け継いだのが、第六十代「醍醐天皇」(だいごてんのう)です。

この天皇の治世は「摂政」(せっしょう)を置かず、直接天皇御自身が政治を行う「天皇親政」の形を取り、数々の業績を挙げたため、その当時の元号名から名付けられた「延喜の治」(えんぎのち)と称され、後の時代に高く賞賛されました。

🌕因みにですが、この「醍醐天皇」にあやかり、御自身も「天皇親政」を行い、良き治世を築こうとなさった天皇がいらしました。鎌倉幕府を撃ち破り、政権を再び朝廷に戻そうした室町南北朝時代の「後(ご)醍醐天皇」です。


「醍醐天皇」への譲位に尽力を尽くし平和な時代を築いた「道真」公。ですが皮肉な事に、正にこの治世中において、「道真」公は「無実の罪」で九州の福岡「大宰府」(だざいふ)に左遷されてしまいます。

「左遷」と聞くと皆さんは、「勤め先の会社の本社から、どこか地方の支店に転属されるだけだろう。大したことじゃないよね?」と思われる方が多いかと思われます。ですが、この時の「左遷」は、所謂「島流し」と同義です。

それまで何不自由なく平和に暮らしていた「道真」公のご一家。これにより一家は離散となってしまいます。

子供達も親元から引き離されて、各々が京都から遠い地方に「左遷(島流し)」されてしまいます。

「道真」公の赴任先である大宰府で与えられた住まいは、殆ど廃屋に近い「あばら家」。そして「島流しされる人」は「罪人」扱いですから、当然近所の人々も寄り付きません。

毎年受験の季節になるとよくマスコミに取り上げられる福岡に御鎮座する「大宰府天満宮」。このお宮自体が、「道真」公の墓所の上に建立されたと聞きますと、何やら複雑な想いに駆られます。

福岡 大宰府天満宮

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そして、左遷されて暫くの後、失意のうちにお亡くなります。

「道真」公の死去の後、京都では数多の不可解な怪事件が起こり、「これは【道真】の怨念ではないか」と噂が立ち、これを「鎮魂」するため天神様として祀り上げられたのが「天満宮」です。

○「生まれ変わり」伝説

ところで皆さん、その当時から今現代まで、下記の様な伝説が伝わっている事、ご存知でしょうか?

「【平将門】公は【菅原道真】公の生まれ変わり」

勿論これは飽くまで「伝説」ですので、真実かどうかは解りません。ですがそんな昔から伝わる伝説。単なる「作り話」とあっさり無視も出来ないと思います。おそらくその当時(平安時代中期頃)の人々の「思い、願い」の一端かと思われます。

でもやはり「伝説」と言うのは、それなりの「某らの根拠」がないと成り立たないと思います。ですので、この伝説が成り立つであろう幾つかのその根拠について、以下に述べさせて頂きます。

①まず最初に。「菅原道真」公が失意の中、大宰府で亡くなられた年と、「平将門」公が下総國でお生まれになられた年が同じ「天慶三年」(903)である事。

②ご存知の通り、お二人共力を尽くし奮闘しますが、結局「当時の権力者」に敗れ、その無念さが死後「怨念」となったとされています。その「怨念」を「鎮魂」するため「神様」として祀り上られた事。

③「道真」公がお亡くなりになった後、公の三男である「菅原景行」(すがわらのかげゆき)は役人として常陸國に赴任します。そしてその土地の人々や「将門」公の叔父「平良兼」(たいらのよしかね)らと交流を重ね、赴任先の地近く(茨城県常総市)に父「道真」公を祀る日本三天神の一つ、「大生郷天満宮」(おおのごうてんまんぐう)を創建します。

茨城 大生郷天満宮

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「道真」公の子と、「将門」公周辺の人々との交流が偲ばれます。

またこの伝説からでしょうか?東京都千代田区九段北に御鎮座している「築土神社」(つくどじんじゃ)では、このお二人を共に祀っておられます。

ですが、もう一つ重要な理由が有ると思われます。

○お二人共「出雲族」

「菅原道真」公の出自である「菅原一族」。「一遍上人」の章でも述べさせて頂きましたがこの上人の母方の出自である「大江一族」と同様、「菅原一族」は「出雲族の末裔」です。

「日本書紀」の「垂仁天皇」(すいにんてんのう)の条に、「出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)と言う勇者がいる、(以下、云々~)」と記されています。

皆さん「野見宿禰」と言えば、「相撲の神様」。天皇の御前で「力比べ」をし、それが今の「相撲」となったと伝わる「相撲の元祖」であられます。

ですがこの「野見宿禰」という方、実はまた別の一面を持っていた方なんです。

高貴な人物の墳墓に「生ける人」を一緒に埋めてしまうのはどうしたことか、と天皇が悩んでいた時、「野見宿禰」が、「【土物」】(はに)で捏ねた人形や動物をその代わりとして一緒に埋葬しては如何でしょうか?」と提案し、その案が採用されました。

それが、古墳の発掘時に出土する、あの「埴輪」(はにわ)です。垂仁天皇はこれを高く評価し、この功績により「野見宿禰」は「土帥」(はじ)氏の姓を賜ります。この方を祖先とするのが「大江一族」、そして「菅原一族」です。

出雲族系図 (②土帥氏の項目参照)

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(「おとくに」より)

つまり「菅原道真」公は「出雲族」の血が流れていた、と言う事です。

ではその生まれ変わりとも伝えられている「平将門」公はどうなのか。

皆さんもご存知の通り、「平将門」公は平安時代の「桓武天皇」から「平」の姓(かばね)を下賜された皇子の末裔です。所謂「桓武平氏」の一族です。

ですが、ここでもう一つ、意識するべき事が有ります。これも「一遍上人」の章と同じなのですが、母親、母方の出自です。

「将門」公の母親は一体どなたなのか、ご存知でしょうか?

母親は「県犬養氏」(あがたいぬかいし)と言う、古代氏族の出です。この「県犬養氏」が出雲との関わりが有る様です。

○「県犬養氏」

「県犬養氏」は大和朝廷に仕え、朝廷の直轄地にある倉庫や土地を守衛した一族です。名前に「犬」が入ってますが、これは守衛するための「犬」を育て飼育し、警備用に使用していた事から付けられた様です。

先程述べさせて頂いた通り、「将門」公の地元は「馬」の産地であります。「犬」と「馬」、人々の生活に必要な動物を育て生業とする、その共通性が見えてきます。

この「県犬養氏」は、自分達を『神魂神』(カミムスビノカミ)の末裔と称しています。

この『神魂神』、遥か大昔、まだ「この世界」という存在自体がそれこそハッキリしていない「神代の時代」、やっと「天」と「地」が分かれて、「高天原」に現れた三柱の神(造化三神)の内の一柱です。

この神様、他の二柱の神と比べると「神話」ではあまり語られていませんが、「古事記」や「出雲国風土記」には下記の様に記されています。

◎出雲の『大国主神』が襲われて瀕死の状態にあった時、この神を蘇生させるために使者を遣わしたのがこの『神魂神』

◎『大国主神』が出雲の地において、平和で豊かな「出雲の国」を築こうと御尽力されていた時、その国造りのために『神魂神』は、御自分の息子である『少名毘古那神』(スクナビコノカミ)を派遣し協力させた事、など。

造化三神(「DiscoverJapan」より) 

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こう言った記述を見れば、この『神魂神』は「出雲」との関わりが深く、そして決してはっきりはしてませんが、その末裔と称する「県犬養氏」もやはり「出雲族」の系統かと察せられます。

概して「一族」と言うのは「父親」の側が重要視されがちですが、歴史を紐解いていけばやはりその一方である「母親」側も重要となるのではないでしょうか?

一般的に長男が父親の後を継ぎますが、特に高貴な位の一族(皇族、貴族など)では、いくら長男でもその生母の身分により、後を継げない場合が多々あります。

ましてやこの平安時代の坂東(関東)地方では、子供は「母方の実家」で養育されるのが常でした。「平将門」公も当時「馬の飼育」をしていた「母親」の実家で育ちました。ですので、母親側の「家柄」もかなりの重きを成してくるのではないか、と思われます。

奈良時代、「県犬養浄人」(あがたいぬかいのきよひと)という方が「将門」公の本拠地辺り、「下総國」に赴任した、という記録が残っています。この方がこの地方を地盤として土着し、そしてその子孫が「将門」公の母親である、と伝わっています。

これを察すれば、やはり「平将門」公にも「出雲族」の血が流れている、と思われます。

つまり、天神「菅原道真」公と「平将門」公は「同族」だ、と言うことになります。

「【将門】公は【道真】公の生まれ変わり」

どちらも「国譲り」で辛酸を嘗めた一族の末裔であり、ご自身達も時の権力者に亡ぼされた者同士。

この伝説は、こう言った要因により成り立っているのでないかと推察されます。

○京都にも御鎮座する「神田明神」

皆さん、実は京都にも「神田明神」が御鎮座している事、ご存知でしょうか?

坂東での闘いで撃ち取られた「将門」公。その首級が運ばれて来て、京都の四条河原に晒されます。罪人の首が晒されるのは、この時が日本史上初めての出来事です。

伝説では「将門」公の首は、京都から遠い遥か東の坂東へ飛んで行ったとされています。その場所が現在の東京大手町の「将門の首塚」。平安時代、先ほど記されて頂いた出雲族「真神田臣」が730年に建てた当初の「神田神社」が御鎮座していたところです。

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ですがいつの頃か、「罪人」として四条河原に首が晒された京都の正にその場所に、小さい祠が建てられ「将門」公の弔いが行われるようになりました。それが現在の「京都神田明神」です。


「京都神田明神」

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でも「将門」公は、朝廷から「大罪人」とされていた人物。その時の京都の一般の人の中にも、日頃から権力を振りかざす貴族達に反感を持っている人々には、ある種の「共感」「同情」など持つ方もいた事でしょうね。ですがそれでも「黙して語らず」です。「罪人」「犯罪者」であった人物を弔うなど、常識では考えられません。皆さんも想像出来るでしょうが、そんな事をすれば、ご自分は勿論の事、家族や親族などにも害が及ぶからです。

ですがそんな事は百も承知、そんな危険な事をしてまで「将門」公の弔いをした人物、その心情は如何なものだったのでしょうか?

何故そんな事をしたのか?

大罪人「将門」公の弔いをしたその人物、お名前を「空也上人」(くうやしょうにん)と仰います。

○「踊り念仏」の開祖

「空也上人」は「踊り念仏の開祖」と言われ、ただひたすら「南無阿弥陀仏」(ナムアミダブツ)を称ていれば救われる、との教えを弘めた方であり、あの「一遍上人」が先達(せんだつ: 師)として崇めた僧侶です。鎌倉時代に生きた「一遍上人」は、自分の時代から見れば約三百年もの前、平安時代の「空也上人」を模範としていた様です。


「空也上人」。下の像が有名ですよね。皆さんもどこかで見た事が有ると思います。

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「空也上人」の口から何やら奇妙な物が出てきていますが、これは仏像、六体の仏像です。この六体は「空也上人」が称する「南無阿弥陀仏」(ナムアミダブツ)の六文字を、所謂「言霊」(コトダマ)として体現した仏像、と思われます。自分が発した言葉は必ず実現する、言葉一つ、一つに「魂が宿る」との考えは、現在の我々よりもかなり敏感であった事でしょうね。


「一遍上人」の章でも述べましたが、当時の仏教界は「国家」の統制、管理の下で運営されており、お救いする対象は「国家」と「特権階級(貴族)」のみ。僧侶は国家機関の教育を受けた現代で言うところの「国家公務員」だけが認められていた時代。鎌倉時代の遥か昔、「空也上人」が生きた平安時代の状況は、もっと厳しかったことでしょう。

一般の衆生は蚊帳の外、「国家管理の仏教」からは全く救いの対象ではないそんな時代に、「ナムアミダブツ、って言ってごらん。そうすれば、必ず救われるよ。」と説いて回った「空也上人」。

それだけではなく、そこいら辺の道端に放置されているご遺体を火葬したり、行き倒れや病人のための「医療施設」や、往き来が難しい場所に「道」や「橋」を架けたりなど、数々の社会貢献をしています。

敢えて失礼な事を言わせて頂きますが、当時の上人には収入などなかった筈。なのに数々のインフラ施設を築けたのは、おそらく多くの庶民からの「お布施」と、共鳴したその当時の「建設技術者達」のボランティア奉仕が有ったからだと思われます。いかに庶民から慕われていたのか、偲ばれてきますよね。

ですが国家公認ではない僧侶がこう言った目立つ活動をしていると、また「一遍上人」の話の時と同じ様ですが、当然当局から「要注意人物」として目を付けられ、時にはかなりの弾圧を受けた事かもしれません。

それまで危険を冒して、庶民のために教えを説き、更に「大罪人」とされた「将門」公を弔っていた「空也上人」とは一体何者でしょうか?

○「空也上人」

「空也上人」は延喜三年(903)にお生まれになりました。

ん、903年?、そうなんです。

「菅原道真」公のお亡くなりなった年、そして「平将門」公が生まれた年です。つまり「将門」公とは同い年です。

「将門」公が「菅原道真」公の生まれ変わりなら、「空也上人」も同様に「生まれ変わり」と言っても何ら不思議はないように思います。「将門」公にとっても同じ「御霊(みたま)の御兄弟」、かと思われてくる位です。

ご自身は、自分の出自を述べた記録がほとんど残ってない様です。ですが現在に伝わっている話によると、その出自は何と!、「道真」公が「左遷」させられた時代、その時代自ら政治を行っていた第六十代天皇「醍醐天皇」(だいごてんのう)の「ご落胤」と言う事です。

「菅原道真」公を抜擢しその助言を重視していた第五十九代「宇多天皇」。そして正にその「道真」公のご尽力により、譲位され即位された「醍醐天皇」。

第六十代「醍醐天皇」

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そんな天皇を父親として持つ「空也上人」は、天皇の血筋を受け継ぐ「皇族」のお一人です。

こんな逸話が伝わっています。

「将門」公が討ち取られ戦乱が終わった後、坂東地方では朝廷軍による「将門軍の残党兵狩り」が行われます。この残党兵狩り、かなり熾烈を極めた様です。捕まった人数は「三万七千人」と言われています。この数字はちょっと大袈裟かもしれませんが、でもかなりの人数だった事は確かだと思います。

この残党兵達、おそらく殆どが極刑にされる筈だったでしょうね。

それを憐れんだ「空也上人」、ある行動に出ます。

「朝廷」に願い出て、その残党兵全員を「念仏の弟子」という名目で預かり更生させる事によって、全員の命を救った、との事です。(滝沢解著「空也と将門」より)


「空也上人」の数々の逸話を伝える京都「空也堂」

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(「TripAdvisor」より)

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(「TripAdvisor」より)


もう自分達の命を諦めていた残党兵たち。これにより救われてどんなに喜んだ事か、皆さんも想像出来ますよね。

その喜びを、鉦や瓢箪の代わりに自分らの兜を打ちたたきながら、みんな念仏を唱えて踊り上がった様です。これが後に「踊り念仏」の由来となりました。

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この話を聞いた時、私も胸踊るような、大変喜ばしい話だと感じました。

ですがこの一件「空也上人が将門残党兵を救った」という伝説。よくよく考えると、何やら不可解な出来事のように思いませんか?

何故なら朝廷にとっての「反乱軍の残党兵」を、京都の名もない僧侶姿をした人物が「私が預かります」と言ったところで、「じゃ、よろしく頼む」と朝廷が許可しますかね?

ですが朝廷は許可したのです。それはどうしてか?

この話から推察出来るのはやはり「空也上人が天皇のご落胤」と言う「暗黙の事実」を背景にして、時の朝廷が上人の願いを受けて入れた、という図式が成り立つかと思われます。


では何でそんな高貴な方が、皇室に残る事もなく、一般の僧侶(勿論国家未公認ですが)になったのか?

先ほどから述べた通り、一族の血筋と言うものは「父親」の筋が重要ですが、時には「母親」の血筋も大切になります。長男と謂えども、母親の出自によってはその一族の長にはなれません。おそらく「空也上人」の母親も、身分の低い方、家柄だったのではないでしょうか?

わずか七歳の時、比叡山延暦寺、天台宗の座主となり仏門に入った「空也上人」。「天台宗の座主」、要するに「日本仏教界のトップ」です。そのまま大人しく過ごしていれば、何不自由なく、仏教界のトップとして君臨していた筈です。

ですが、上人にとってはそれは我慢出来なかったのでしょうかね。早い時期に比叡山を抜け出したようです。

そして幾年が経ち、京の都に風変わりな僧侶風の姿をした人物が現れるようになります。この奇妙な風貌の人物、何か常に、ぶつぶつと「独り言」の様な言葉を発っしながら、都中を歩き回ります。気味が悪い、と当初は無視していたであろう京都の方々ですが、この時代、庶民などを相手にせず、寺になど埋葬されない無名の幾多の亡骸が京都の郊外に多く放置されていました。その時この人物が、道端に野ざらしされている亡骸を、自ら背負い集めて、焼骨供養しているその行為など見ているにつれ、その「独り言」をも聴くようになり次第に引かれて行き、かなりの支持を受けるようになります。


🌕またまた因みに、です。

この「空也上人」と同じく天皇の皇子でありながら母親の身分のためか、「僧侶」としてその生涯を過ごした方がいます。

この時代「平将門」公が亡くなってから約四百六十年後の室町時代。

数々の面白い頓知(トンチ)の話が伝わり、テレビアニメでも放映された「一休さん」こと、「一休宗純」(いっきゅうそうじゅん)和尚です。

「一休宗純」和尚

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この方の父親は第百代「後小松天皇」(ごこまつてんのう)と伝わっています。

天皇の皇子ですから皇位を継承する立場のお一人であったでしょうが、やはり母親の出自、そして当時の微妙な宮中内での争い結果、宮中から追い出されたため僧侶となりました。

母親は一体誰かと申しますと、伝わっている話では、南朝の忠臣として有名な「楠木正成」(くすのきまさしげ)公、その方の曾孫にあたる方と言われています。


東京皇居前広場にある「楠木正成」公の像

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「一休和尚」がお生まれになった当時は、室町時代。足利三代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)の時代です。この時において、長く続いていた所謂「南北朝時代」が終わり事実上「北朝の時代」、「北朝側の天皇」「足利将軍家」の世になります。

南北朝時代が終わりましたが、母親の先祖がそれまで敵側であった「南朝側の英雄の子孫」となると何かと不具合な事があったのでないか、と思われます。そのため皇族から抜け出し「僧侶」になった様です。

ですが皆さん、ここでまた一つ。

「一休僧侶」の母方である「楠木一族」の話ですが。

この一族の系統の歴史を遡りますと、奈良時代に天皇の皇子の后になった女性に辿り着くようです。その方、名を「県犬養三千代」(あがたいぬかいのみちよ)と仰います。

「平将門」公の章、そして「県犬養氏」の章でも述べさせて頂きましたが、「将門」公の母方との同じ「姓」です。何の確証もなく単純な事は言えませんが、何かしらの関係性が有るかもしれません。「楠木一族」そして「一休僧侶」も、同じ系統(出雲族)なのかもしれませんね。

○「御霊(みたま)の御兄弟」

母親の身分により、皇族から追い出された「空也上人」。では上人の「母親」とは、どなたなのでしょうか?

「空也上人」には、こういう逸話が伝わっています。

嘗て【某かの尊い存在から「御神託」を受けた】、と言う逸話です。

その【某かの尊い存在】とは一体どなたかというと、それは『松尾明神』(まつおみょうじん)、別名『大山咋神』(オオヤマクイノカミ)、と伝わります。京都有数の歴史を誇る「松尾大社」(まつのおたいしゃ)がお祀りしている主祭神です。「一遍上人」の章でも記させて頂いた「三島神社」の主祭神と同一神です。

京都 松尾大社

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この神社を建立したのが「秦」(はた)氏ですが、この『松尾明神』に関しては、こういう話が有ります。

【上賀茂神社の主祭神『賀茂別雷神』(カモノワケイカヅチノカミ)の父親である】と。 (Wikipediaより)


皆さんもご存知でしょうが、この「上賀茂神社」も京都有数の神社です。

京都 賀茂別雷神社(通称 上賀茂神社)

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遥か古代に大和國(現在の奈良県)から京都に移り、多くの神社を建立した氏族「賀茂」(かも)氏。この一族が建立した代表的な神社が「上賀茂神社」です。現在でも京の都に御鎮座している下上の「賀茂神社」の社家であります。

この「賀茂氏」、この一族の氏神が、またまた注目されます。

「賀茂氏」の氏神は、「古事記」にも出てくる『迦毛大御神』(カモノオオミカミ)です。そしてこの神様、別の御名前が有ります。その御名前を『阿遅鋤高日子根神』(アジスキタカヒコネノカミ)と仰います。この神様も、出雲の『大国主神』の息子であられます。

「出雲の神々の系図」(「出雲神話とゆかりの地」より)

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奈良 高鴨(たかがも)神社 (主祭神 アジスキタカヒコネノカミ)

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「賀茂氏」自体が一族の神を祀るのは当然ですが、それが「出雲の大神」の息子ならば、所謂「賀茂氏」も「出雲族」の血筋を引き継いでいる事になるのではないでしょうか?

先程「賀茂氏」が「大和」から「京都」に移住した、と記しましたが、これも「出雲族」であるがゆえに、時の「大和朝廷」からの圧迫、或いは命令で移住したのではないかと思われます。

今でこそ「京都」は日本国内有数の大都市、世界的に有名な観光地であり賑やかな所ですが、この当時は「平安京」が遷都される延暦十三年(794)の遥か以前の話です。当時の先進地域の「大和國」と比べたら、当時の「京の都」の状況はどんなものだったでしょうかね?

そんな「賀茂の神」に連なる【某らの尊い存在】から御神託を受けたとされる「空也上人」。

先程述べさせて頂いた通り、父親が天皇であるのに「皇室」を出た、「皇位」を継げなかったとすれば、母方、母親が他の皇子達とは違い、身分が低い家柄と考えられます。

「賀茂の神から御神託を受けた」とするなら、この上人の母親は、「出雲族」の血筋を引き継ぎ、数々の京都有数の神社を建立した「賀茂氏」にご縁が有る方かと思われます。

それが真実だとすればこの上人にも、やはり「出雲族」の血が流れている事になります。

○「和魂」(にぎみたま)と「荒魂」(あらみたま)

これまで「神田神社」を創始した「真神田臣」から、「真教上人」や「一遍上人」、「平将門」公や「空也上人」、そして「菅原道真」公について色々と記させて頂きましたが、これらの人物が貫いている、引き継がれているものは「出雲族の想い」、だと思います。

それと同時に、今まで「歴史」と言う空間においては、あまり注目されずにいた「母方の出自」が実は大変重要であり、「日本の歴史を動かしてきた一つの要素」だと言う事実です。

誰が好き好んで「怨霊」などになりたい、と思うでしょうか?

昔から伝わる多くの話には、「出雲族」に対し、かなり厳しい扱い、処遇が語られています。

ですがこう言った「不遇な人々」の気持ち、自分達が味わった「辛い出来事」、それらを知って頂いた上で、いつ迄も自分達の「怨霊の念」を残すのではなく、今までの一連の対立を徐々に軽くして、世の中が「ふんわりとした賑やかな世の中になって欲しい」と願っているのでは、と思います。

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冒頭でも記させて頂きました。

『神様にも神様御自身の願いがある』。

御自身の子孫達には自分が味わった辛い思いをさせたくはない。だから、嘗ての自分達を冷遇した者の子孫達とも、平穏に、平和に暮らして欲しい。

それが『怨念の神様とされてきた方々の願い』なのではないでしょうか?

そしてその『神様達の願い』は、また当時から同じ様に辛い思いをしている「一般の衆生」に、「恨むのではなく、祈っていれば必ず救われるよ」と日本のあちこちで説いて回った「踊り念仏」に繋がっているのではないか、と思われます。


「踊り念仏の開祖」である「空也上人」は、悠久の昔から「国譲りの想い」を引き継ぐ同じ「出雲族」の血筋の者達、そして、その家族を祀る、弔うための役目をただただ務めた方だったのはないのかな、と思われます。

「現世の父」である「醍醐天皇」の行為(大宰府への左遷)を「御霊の父」である「菅原道真」公に詫び、そして「御霊の兄弟」である「平将門」公の怨念と共に、これを「鎮魂する」役目を持つ方だったのではないでしょうか? 


皆さんは、神道において、「和魂」(にぎみたま)、「荒魂」(あらみたま)という言葉が有るのをご存知でしょうか?

神様の御自身の「御魂」は大きく二つに別れます。

文字通り和やかな魂、人々を暖かく見守り、想いを導く優しい魂。それが「和魂」。

一方、神様がお怒りになり、それこそ天罰を下す、戒めを降り注ぎ、人々に反省を促す魂。それが「荒魂」。

「御霊の御兄弟」。

その兄弟の「御霊の父である道真」公を「天神様」という神様とするなら、この神様の「荒魂」の役目を体現したのが「将門」公であり、「和魂」の役目を体現したのが「空也上人」だったのではないでしょうか?



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