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四十八文字の話『ア(続3)』 足利氏  (一族のその後)

世が明治になり、喜連川氏は姓を「足利氏」に戻し   ました。

足利惇氏(あつうじ)氏は、明治末期生まれの方ですが、  学習院初等科の時、あの『昭和天皇』と同級生でした。

ご存知の方も多いでしょうが、江戸時代中~後期、そして幕末の頃、特に「徳川光圀」公以来の「水戸学」の影響で、『天皇』の存在が改めて重要視される様になりました。そのため、歴史の上でも『天皇』に忠誠を誓った人物(楠木正成公など)は「善玉」、反逆した者は「悪玉」として扱われる事が顕著となりました。

☀️「水戸学」 ⇒                  室町時代の南北朝、「南朝」と「北朝」のどちらの側が「正統」か?、との問題で「南朝が正統」と主張。   その南朝の『後醍醐天皇』に反抗し「北朝」を興した 「足利尊氏」公は「悪玉」扱い。           

なお、次回大河ドラマ「青天を衝け」では、      その「水戸学」を創始した「徳川光圀」公の後継   「徳川斉昭」公を竹中直人さんが、また、この「水戸学」における大家、「藤田東湖」を渡辺いっけいさんが演じます。                        また、個人事で恐縮ですが、ほとんどの方がご存知ないであろう、あの井伊大老が殺害された「桜田門外の変」の 二年後に起きた事件で、時の老中「安藤信正」を負傷  させた「坂下門ノ変」の首謀者である、儒家の    「大橋訥庵(とつあん)」を山崎銀之丞さんに演じて頂けるのは、個人的に大変嬉しい事です。           「大橋訥庵」をドラマで取り上げさせて頂ける事自体が 初めてではないでしょか?              幕末の人であり、私の故郷、宇都宮藩主に招かれ、   宇都宮藩士に「尊皇」を伝え、教育をした方です。



話は戻ります。              

この「水戸学」というものは、何と言っても     「御三家の水戸家❗」が興した学問、思想ですから、  当時の大名達にとって、軽んじる事など出来ず、    無視など出来ません。                また、この学問が所謂「倒幕派」の思想的根拠となりましたので、その影響力は凄まじく(長州の「吉田松陰」は、 その教えを学ぶために、実際「藤田東湖」に会いに、  萩から水戸へ遊学しました)              その「倒幕派」が主体となった「明治時代」においても その影響は大きい、のです。

そのため、明治から戦前にかけての   「学校教育」において『後醍醐天皇』に反逆した惇氏氏のご先祖「足利尊氏」公は、  日本の歴史の中での「三悪人の一人❗」、 

として教育される事となりました。    

(因みに、他の二人は、女性天皇を誑かし自分が天皇になろうとしたと言われる    「弓削道鏡」と、「新皇」を名乗り、関東で反乱を起こした「平将門」公)


『昭和天皇』の同級生である自分が足利一族であるため、ご自分のご先祖様が歴史の教科書に出てくる頃は、   他の生徒の鋭い❗視線を感じ、大変な思いをした    そうです。  

でもその当時、学習院院長を兼任していた「乃木希典」 将軍から「君が悪いわけではない」と言われたそうです。

かの『明治天皇』も「足利尊氏」公を高く評価して   いらしていたようであり、              また、惇氏氏と同じ学者仲間で「日本オリエント学会」 会長であった『三笠宮崇仁』殿下は、       

「君のご先祖様(尊氏公)のお蔭で、    我が家(北朝)は成り立ったのだよ」と   仰っていたそうです。  

      

その後惇氏氏は、つらい思いをしたであろう「歴史学」の道を進み、後に、日本における「インド ペルシャ『歴史学』の泰斗」となり、東海大学の学長をも勤めました。

そして、1983年(昭和58年)に他界されました。

現在、喜連川のご当主は、惇氏氏の甥っ子様です。


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●里帰り

ここで少し私の見解を述べさせて頂きたいのですが。

私は以前から『河内源氏』(同じ清和源氏でも頼朝公、義経公を輩出した系統。足利氏、新田氏もこの系統に属する)は、 古代にこの日本に大陸から渡ってきた「渡来系騎馬民族の末裔」ではないかな?、と思っています。    

源義経公が指揮した「一ノ谷」での戦い方は、この日本で初めての本格的「騎馬戦」ではないでしょうか?    それ以前の戦でも馬は使われたでしょうが、ただの  「運搬運び」や「乗り物」として扱われたように思います。                        義経公の様に「確かな戦術を基に駆り出された❗」戦い方はなかったと思います。          

後に義経公は大陸に渡り、チンギスカンになったなどの 話はよく聞きますが、チンギスカンではないにしろ、  ある種のモンゴル軍の指導者になった可能性は十分に有ると思われます。                   何故なら、死んだ事になっている「衣川の戦い」で、切り落とされた義経公の首は、検分の段階では相当腐っており誰の首だか、分からなかったのが実情だそうです。   つまり死んだ確認は出来ていません。         (明智光秀公と同じパターンですかね?) 

源義経公 終焉の地「義経堂」

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モンゴル軍はご存知の通り、騎馬に乗った戦いは得意中の得意です。が、皆さんご存知でしょうか?       それまで馬に乗りながら「弓矢を射る」戦い方は    してませんでした。

日本では、神社の神事などで「流鏑馬」が行われており   馬上から弓矢を射る事は、通常の事だと思いますが   モンゴルでは、そういった習慣がなかった様です。


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大陸系民族と海洋系民族が各々得意とする戦い方は、当然かなり違います。                  戦い方も一つの文化であるとするなら、その民族の戦い方は当該民族の昔からの伝統が色濃く出るものです。   

伝統とは「内部」からは容易く打ち破る事は出来ません。モンゴル軍が先祖以来の伝統の戦い方を変え、馬上から「弓矢を射る」やり方を採用し、あの大国を築いたのは おそらく外部からの影響、別の国からやってきた「誰か」からの優秀な指導があったのでは?と思われます。   かつてこの日本でもそれまでの刀、槍、弓矢での戦い方が、「鉄砲」伝来により様相が一変した出来事と同じ現象です。

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私なりに推測するに、

義経公は、古代大陸から日本にやってきた 騎馬民族の末裔として再び大陸へ    「里帰り」をしたのではないでしょうか? そして、その大陸騎馬民族(河内源氏)の末裔である惇氏氏も「大陸」の歴史学を究める事により、学問の上で、同じく「里帰り」をしたのはないでしょうか?





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