見出し画像

四十八文字の話『ア(続2)』 足利氏  (一族のその後)

江戸時代になると、かなり別格の「厚遇❗」で     徳川氏に遇されました。               

「喜連川」に藩を置き、諸々事情により、当時は   「喜連川氏」と名乗り、石高は五千石ほどでした。   

皆さん、「五千石」って、どういう扱いになる、と思い ますかね?                     

一般に「大名」と言われる目安としては、石高が一万石 以上の家が「大名」と呼ばれます。ですから、五千石  だったら「大名」ではなく「旗本」扱いになります。 

なのですが、                   「喜連川氏」は「大名」扱い、それも「十万石❗の   大名並み❗」です。

その上、当時の多くの大名達の懐具合を苦しめた、あの 「参勤交代」も「お構い無し❗」です。      

この待遇は、何故なんでしょうかね?         

勿論色々な諸説がありますが、            私はおそらく二つの理由かあると思います。      

一つは「徳川氏」は足利氏の祖先と同じ「清和源氏」の 出自だと名乗っている事と              (私は何やら怪しい感じもしますが)、          名門「足利氏」の血筋を高く遇する事により、     江戸からも近く、五街道の一つ、「奥州街道」沿いの  要衝の地でもある「喜連川」を統治していた事から、  江戸北方の治安の安定を考慮した政策かと思われます。

二つ目は、何と言ってもかつての武家の頭領、室町将軍家の一族であり、その影響力は当時も侮れません。    その血筋を受け持つ「喜連川氏」を、例えば「江戸幕府 転覆」など良からぬ事を画策する輩が、「神輿」として 祭り上げるとも限らず、そういったお誘いに容易に   飛び付かない様に!と厚く遇したのではないか、とか  思われます。      

現に豊臣時代の時、朝鮮出兵のため、兵二千~三千人を 引き連れ、肥前名護屋に向かっていた時の当主     「喜連川国朝」公の元に、先々の地からその名を慕い、 馳せ参じる侍で溢れかえり、万単位の兵にもなった、  という逸話も有ります。 

また、七代目「喜連川恵氏(やすうじ)」公は、その聡明さを期待され、時の江戸幕府老中であったあの「松平定信」公から、老中就任を要請され、更に十万石の加増を打診されました。

皆さん、ここでちょっと想像して頂きたいのですが、  仮に自分の会社の上司から             「君は才能が感じられるし、会社のためにも、是非とも 活躍してくるないか?そうすれば昇進もさせるし、当然給料も上げるよ!」と言われたら、断る理由など無いです よね?                       でも恵氏公はこの要請に対し、こう返答したそうです。

「我々足利家はあくまで(征夷大将軍を任命 される)天皇陛下の臣下であります。    徳川家の家臣ではありません。」


やはり「足利氏」は

時の政権の「家臣」てはなく、「客分❗」 なんですね


この想いがあればこそ、現代まで存続できたのだと   思います。

更に、十一代目「縄氏(ただうじ)」公は、        水戸家「徳川斉昭」公の十一男です。         第十五代将軍「徳川慶喜」公の弟となります。     つまり、「喜連川足利氏」は徳川家の親戚になった事と なります。                     

「喜連川足利氏」に対する徳川幕府の扱いが如何に   重要だったか、が偲ばれます。



いいなと思ったら応援しよう!