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四十八文字の話『ス』      「スワ」(諏訪)神族と会津藩松平容保公との「不思議なご縁」について  ⚪信州と会津

今回は、遥か悠久の昔から諏訪湖を中心にして     信州を地盤にし、                  神話に登場する神様『建御名方神』(たけみなかたのかみ) の末裔を称する「諏訪神族」と            会津藩主「松平容保」公との意外な「ご縁」について  述べさせて頂きたく。 

いったいどういう「ご縁」でしょうか?

⚪会津藩                      江戸時代前期、寛永二十年(1643)に         「保科正之」(ほしな まさゆき)公が会津藩主に就いて  以来、明治まで「会津藩」は続きます。

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この方は第三代徳川将軍「徳川家光」公の異母弟であり、本来なら姓は「徳川」か「松平」になるはずですが、  若くして信州高遠藩「保科家」へ養子に入ったため、  姓は「保科」と名乗ります。             そして、異母兄「徳川家光」公、第四代将軍「徳川家綱」公をよく補佐し、善政を執り行った名君です。     今も存在している「玉川上水」を作ったのはこの頃で、 それによる江戸庶民の渇水状況を改善したり     「明暦の大火」で焼けてしまった「江戸城天守閣」を再建せず、同じく大半が焼けてしまった「江戸市中」の   救済を優先させました。

会津藩主は三代藩主から本来の「松平」の姓に戻します。


⚪会津藩に代々伝わる藩祖の家訓           

会津松平家祖「保科正之」公が残した物に       「会津家訓十五箇条」が有ります。          その第一箇条はこう記されています。

「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在で あり、藩主が裏切るようなことがあれば  家臣と云えども従ってはならない」。


代々の会津藩主はこの教えを忠実に守りました。    会津に在っては東北地方の「要所」として、      そして江戸の緊急時には幕府の「支え」として     忠誠心を示しています。


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そして会津藩、会津松平家祖から二百年後に、その   会津藩主を継いだのが、美濃高須松平家からやって来た 「松平容保」(まつだいら かたもり)公です。      

「松平容保」公も勿論、その「家訓」を忠実に守り、  幕末期に攘夷が盛んになり京都の治安が乱れてくると  自ら多くの会津藩士を率いて、            新しく設うけられた「京都守護職」に就任し      京都の街、そして「御所」を守り通します。      また同じく江戸からやって来た            志願兵集団「新撰組」を預かったりするなど      「佐幕派の大藩」としての地位を磐石なものに     します。   

そういった働きも有ってか、             後に十五代将軍となる「徳川慶喜」公からは、     絶大な信頼を得てます。               因みに「松平容保」公は               同じ徳川一門でも                  「徳川慶喜公」と同じく「水戸徳川家」の家系です。  それもこれも会津松平家祖「保科正之」公が残した  「家訓」の賜物です。                

また付き従った会津藩士達も、代々の藩主が実に    教育熱心であったため、簡単には言えませんが、    当時の他の藩士達と比べても、文武両面において    かなりの高レベルだったと思われます。        

余談ですが                     もし仮に江戸時代に武士を対象とした        「全国統一テスト」なるものがあったとすれば     「会津藩」は間違いなく毎回高得点を上げ       「全国上位レベルの藩」に入っていたと思います。   (戯れ言デスヨ、すいません。)


⚪諏訪神族の「聖なる面」と「俗なる面」       

では「諏訪神族」とは一体何者か?


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「聖なる面」から見れば              「諏訪大社」の「大祝」(おおほうり)を代々引き継いできた「諏訪氏」を中心とした氏子の集団、         「俗なる面」から見れば              「諏訪氏」一族の信濃各地における領主集団です。


「大祝」とは             「諏訪大社」の祭祀を取り仕切り    「諏訪の神様」、           『建御名方神』(たけみなかたのかみ)の  御霊を自らの身体で体現する       神秘的な役目の方であり、       代々「諏訪氏」に受け継がれてきました。


大祝家屋敷

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この「諏訪神族」、「諏訪大社」の御祭神であられます『建御名方神』の末裔を称している一族です。

また歴史上でも「武家集団」として何回も登場します。


⚪騎馬戦の主力                   信州は昔から名馬の産地です。            当然、信州の方々は馬の扱いは手慣れたものでしょう。


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後に「戦国最強騎馬隊」を率いる事になる      「武田信玄」が、何故根拠地「甲斐」から「信州」へ  進出したのかの理由の一つは             やはり「馬」を手に入れる事だと思われます。     また実際「武田騎馬隊」の主力は           信州武士の方々が担ったはずです。


古くは、所謂「源平合戦」においても        「平家討伐」の令示に対し              いち早く応えるため                 北陸において平家の大軍を破り京都に上洛した     「源義仲」(みなもとよしなか  通称 木曽義仲)の軍は  文字通り「信州軍」です。


次回大河ドラマ「鎌倉殿と十三人」では、       青木崇高さんが演じる様ですね。           また義仲の愛妾で女傑「巴御前」(ともえごぜん)は    秋元才加さんが演じます。

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ですが京の治安維持を軽んじたため次第に       天皇からの信頼がなくなり              この後上洛して来た同じ「源氏」の一族であり     従兄弟にあたる                  「源義経」(みなもとよしつね  同 菅田将暉さん)に   敗れてしまいます。 


鎌倉時代になると、北条執権二代目となる      「北条義時」(同ドラマ主役 小栗旬さん)が       信濃国守護となった「ご縁」も有り、         北条執権家を支える有力な勢力となります。      

現在でも、長野県上田市塩田平の周辺は        歴史有る神社や古寺が多く             「信州の鎌倉」と呼ばれているのは          その賜物です。


生島足島神社

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その後も「中先代の乱」、「南北朝」時代と      あまり歴史上においては「この人だ!」と       言われる突出した名の方は聞きませんが        日本の歴史のウネリの中               一大勢力としての影響力を持ちます。


⚪「保科家」                    

先程も言った通り、全国的に有名な歴史上の      人物はおられん、と思いますが            

「諏訪大社」を背景とする        「聖なる面」での神秘性と        「俗なる面」での強力な「軍団」を    併せ持つ「諏訪神族」は         正に歴史の「裏方」的な役割を      演じてきたのは事実です。


この「諏訪神族」中の一家に             会津松平家祖「保科正之」公が養子に入った      「保科家」が有ります。

「諏訪神族」の一派、                そして、仮にも将軍のご子息が入る「お家」ですから、 「並みの家柄」ではないはずです。

その会津藩松平家に           それも藩祖から二百年後に入った    「松平容保」公は            もうそれだけで不思議な「ご縁」あるかと 思われます。


ですが話はこれだけでは終わりません。


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