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四十八文字の話『ア(続1)』 足利氏  (一族のその後)

「麒麟が来る!」も最終回を迎えました。私も昔からこのNHK「大河ドラマ」を見続けている一人です。     偉そうな事は言えませんが、やはり民放テレビのドラマと違い、「1年」と言う長い期間で放映されるだけに、世の中に与えてる反響はそれなりのものとなるでしょう。  作品は、良くも悪くもその時代の雰囲気を反映し、その 時代の人達に「一時」の、飽く迄まで「一時」の事ですが、世に影響を与えていているんでしょうね。

今回のドラマで足利義昭の役の滝藤さんの演技が素晴らしかったと思います。今までとは違う、大変弱々しいイメージの義昭公は、より現実的で、良かったと思います。  それで今回は義昭公は勿論、その後「足利一族」がどうなっていったのか、について述べさせて頂いきます。

●足利将軍家

まず「足利将軍家」ですが、皆さんご存知の通り、義昭公は織田信長公により京都から追い出されました。    その時、ご自分の「息子」を人質として差し出しました。世が世ならば、室町将軍16代になるはずだった子で  あり、名を「義尋(ぎじん)」と言います。        

この御仁、勿論表舞台では活躍する場がなく、後に仏門に入り、それなりの高貴な血筋でありますから、大寺  「奈良興福寺」の大僧正になります。その後還俗し、二人の子をもうけます。                 ですが、この二人の子は共に僧になったため、子孫を  残さず、「室町将軍家」直系の血筋が途絶えました。

でも義昭公には他にも子がいたと言われ、その一人が 「矢島秀行」と言う人物です。            この人物の娘は、のちに猛将「立花宗茂」公の後妻なり また孫娘は、「今川義元」公の孫「直房」に嫁ぎました。因みに、この「直房」の妹が忠臣蔵で有名な「吉良上野介」の母です。                   (今川家、吉良家は共に足利氏の親戚筋です)    

時の有力者とこのようなご縁が結ばれるということは  この「矢島秀行」と言う方は、中々の「血筋」の様   ですが、本当に足利義昭公の子であったかどうかは   はっきりしません。

では他に子孫はいなかったのかと言うと        そうではなく、将軍家とは別の系統がありました。   二つの系統が有りますが、今回はその内の一つ     『喜連川足利氏』の話を進めます。

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●喜連川足利氏

「喜連川」というのは地名であり、「きつれがわ」と読みます。場所は私の出身地、栃木県宇都宮市の北方にあり、現「栃木県さくら市」となります。 

この場所を足利氏の一系統が根拠地としたのは「安土桃山時代」からです。                  この系統、鎌倉時代から室町時代、戦国時代、江戸時代を経て、明治時代、そして何と❗、今現在まで続いており、ご当主はご健在でおられます。 

この系統の始まりは、足利尊氏の四男であり、     室町二代将軍義詮(よしあきら)公の弟、基氏(もとうじ)公が鎌倉府を任せられてからです。            

名門であるが故に、長い年月の中で、時の勢いに何回も その「立ち位置」を翻弄されきたでしょうね。     でも、何とか生き延び、そして、小田原征伐にやってきた豊臣秀吉公に見出だされ、安堵を許されました。    

でも皆さん、後々ここが重要となりますが、      やはり「足利氏」と言うのは名門でありますから、   秀吉公は『家臣』としてではなく『客分』として遇した のです。 ご自分の部下として土地を与えたのではなく、あくまでも『お客様』、上下関係などない扱いです。

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