ぺぺ古本

読まずに死ねるか

2019年ヴァージョン

今年も恒例の春のぺぺ古本まつりが開催された。期間は、四月四日から四月十五日まで。場所は、いつもの駅前のスペース。今回も散歩のついでに立ち寄るという形式で、合計して四回ほど会場を見て回った。今年は三月中にとても暖かい日などがあり、春らしい良い気候の時期にちょうどぶつかるのではないかと思って勝手に気を揉んだりしていたのだが、やはり蓋を開けてみると風が強く肌寒さを感じる日や冷たい雨がぱらつく日などがあり、まだまだ過ごしやすい季節には程遠いという感じであった(四月の頭に異常に暖かくなると着るものに悩むので困りものである)。そして、何よりも強風に巻き上げられた花粉や埃がそこら中を舞い飛びまくっていて、個人的にはコンディション面でかなりよろしくない日が多かった。このこと自体は、まあほぼ毎年のことではある。だが、やはり今年の花粉は量質ともにかなり強烈であった。吹きすさぶ風をやり過ごすように身を屈め、それでも降りかかる花粉に顔やら頭皮やらあちこちに痒みを感じて掻いたり擦ったりしつつ、できるだけ集中力を高めて本を見て回ったという感じであった。花粉のせいもあるのだろうが、ちょっとぼんやりしてしまい、どうしてもこの時期のまつりでは良い本を見落としてしまいがちになる。見ていたはずなのに実はまったく見えていないのだ。四日のまつりの初日に本を見に行った時には、ぐるっと回ってみて今回はあまり目ぼしい本が多くはないように思われた。これまでのまつりと比べると、ちょっとパワーに欠けるような感じがしたのである。どうも出店している店の数が減っているような気がして、自分が触手を動かされるタイプの本がごっそり抜け落ちてしまっているように思われた。そして、ざっと本を見て回っているうちにちょっと気が抜けてしまったのである。それでも、じっくりと本の背表紙を凝視してチェックしてゆくと、思わぬところに思わぬ本が紛れ込んでいたりして、見るたびに発見があったりする。とりあえず、まつり会場に行って見れば、何かしら買っても良いかなと思えるような本は見つかるのである。それでもやっぱり買わずにやめておいた本はいくつかあった。ドゥルーズの「シネマ」の1と2はどちらも大幅に半額以下の価格であったと思うが、それでも高いと思って手は出せなかった。「パイディア」のフーコー特集号も確か七百円だったと思うが、手が出なかった。強烈な表紙の「澁澤龍彦の世界」も見かけたが、勢いよく手が出て食い付いてみたものの結局は買わなかった。数日後に再びまつりを訪れた際に、もう一度あのムックの内容をチェックしようと思って探してみたがどこを探してももうなかった。きっと売れてしまったのであろう。ちょっと後悔した。買わずに本棚に戻したことを後々まで覚えている本というのは、大抵は買わなかったことを後悔している本である。古本というものは出会い頭的に発見してピンときたら、すぐさま脊髄反射的に買っておかないとダメなところがある。買わずに後悔することはあっても、ピンときた本であればまず買って後悔するというようなことはない。後はもうその本の値段との兼ね合い次第である。今回のまつりで買ったものは、以下の十六点である。平均すると一冊につき三百円ほど。後から考えると、買ったものの中に日本史関係の本が全くないのは、やはりその系統のものにあまり良いものがなかったということなのだろうか。ちょっと今回はまつり全体の品揃えに多少の変化があったような気がする。いやいや、ただの見落としであったのだろうか。

ジョルジュ・バタイユ「文学と悪」
ジョルジュ・バタイユ「青空」
ジャン・ボードリヤール 「透きとおった悪」
エドムント・フッサール「純粋現象学及現象学的哲学考案」(上)(下)
滝浦静雄「言語と身体」
丸山圭三郎「ソシュールを読む」
吉本隆明「ハイ・イメージ論」(I)(II)
中上健次、荒木経惟「物語ソウル」
山口昌男編著「二十世紀の知的冒険」
市川浩、山口昌男編「別冊國文学・知の最前線 身体論とパフォーマンス」
渡辺二郎編「ニーチェ」
「現代思想」1978年10月臨時増刊号 総特集=フッサール
「現代思想」1980年4月臨時増刊号 総特集=バシュラール
「ユリイカ」1986年2月号 特集=ジョルジュ・バタイユ

アンソロジー的な形式の「身体論とパフォーマンス」は、ヴァラエティに富んだ内容でなかなかの良本であった。ヴァレリーやメルロ=ポンティあたりからぐんぐんと思考の領域を広げてゆくような構成となっており、ちらちらと読み進んでゆくにはもってこいの一冊だといえる。パフォーマンスという言葉が、かつてのように軽々にかつ華々しく使われることがほとんどなくなった今こそ、パフォーマンスについて冷静に考える本当によいタイミングであるのかもしれない(あの「パフォーマンス・オブ・ウォー」が出たのは85年。今から34年も前のことである)。時代の流れやテクノロジーの進歩の勢いが早すぎて「ハイ・イメージ論」あたりはもう読むことはないのではないかと漠然と考えていたりしたのだが、ソシュールについて考える際に何かしらの思考のヒントを与えてくれるのではないかと考えて(最後の最後に)思わず手にとって購入してしまった。でも、やはり共同幻想/国家についての諸々のことに関しては吉本隆明が必死に考えぬいてくれたものを抜きにしては語れえないところがあるのも確かなのである。とりあえず、ある程度のものを読んでいないと始まらないのだ(かつては別に通らなくてもよい道だと考えていたりもしたのだけれど)。そして、まことに不思議なことだが、吉本という人は、読めば読むほどに親近感がふつふつと湧いてくる人であったりもする。まるで自分の代わりに前もって考えて書きつけておいてくれたのではないかと思えてきたりするほどに、ものすごく刺激になる部分がある。「ハイ・イメージ論」をパラパラと読んでいるだけで、あれこれ別の本が次々と読みたくなってくる。それもまた吉本の思う壺であるのかもしれない。「物語ソウル」は、最初に手にとってパラパラと頁をめくっているうちにすぐさまピンとくるものがあった。少し頁を戻って、そのピンときた頁を開いてあらためて見返してみた。それが六十四頁に掲載されている少女の写真である。不可解なことだらけの世界への消しがたい疑念や怒りを少しばかり含んだような何とも言えない表情でこちらをまっすぐに見つめているこの少女の写真を見たら、もうこの本を元の場所には戻せなくなってしまっていた。この眼差しのインパクトには完全に負けた(過日、散歩中に何気なくスカラ座の告知の看板を見て少しドキリとした。そこには「万引き家族」のポスターが貼ってあったのだが、子役の佐々木ゆみがあの少女とダブって見えてしまったのである。あのぐらいの年齢の子供というのは、何か言葉にして会話をするという以前に身体や佇まいそのもので何かをありのままに言葉にならない部分まで伝え表現する能力をもっているのではなかろうか。それを写真や映像に記録して残すことは、非常に貴重な仕事であるように思える)。山口昌男の対談集「二十世紀の知的冒険」と滝浦静雄の「言語と身体」については、丸山圭三郎「ソシュールを読む」の巻末の参考文献を参照して購入を決断した。いずれの本も何度かまつりに行くたびに手にとって中をパラパラ見ていたりはしていた。しかし、どちらも(状態そのものは良いが)ちょっと古い本であり、即決という結果にはいたっていなかったのである。そこで「ソシュールを読む」の参考文献のリストを見てみたところ、いくつかの心当たりのある書名がそこに見つかり、買おうか買うまいか迷っていた本の記憶と瞬時に結びついた。そして、ソシュールと何かしらの結びつきがあるものであれば決して読んで損をすることはないだろうと踏んで、やっと踏ん切りがついたというわけである。滝浦静雄についてはメルロ=ポンティの翻訳者であるという点も大きかった。近頃は、かなり「やっぱりソシュールとメルロ=ポンティだよな」という感じになってきているので、そちら関係の本にはちょっと弱いのである。興味のある本の参考文献になっているということぐらいで簡単に購入の決め手になってしまうのだからかなりのものだといえよう。などと言いつつ、まつりの少し前にブックオフで買った船木亨やアガンベンあたりも並行してちまちまと読み進めていたりもする。そこに定番のドゥルーズやベルクソンあたりも加わってくるし、フッサールやハイデガーもやっぱりおもしろい。さらに西田幾多郎や梅原猛あたりもしっかり勉強し直しておかなくてはならないと思っている最中である。それにどうしたってバタイユや澁澤龍彦も外せない。となると、じゃあニーチェはどうなるんだということにもなってくる。ベンヤミンのことだって忘れちゃ困るよ。そういえば、かなり前に「ボードリヤールという生きかた」もブックオフで買ったはずなのだがまだ読んでいないことを思い出した(それに、去年のまつりで購入したものの中にもまだ手をつけていないものがいくつかある)。まったくもってきりがない。本が本を呼んで、ちっとも終わりが見えてこない。あらかた読み終わるまでは決してくたばれないぞと思ってはいる。だから、今日も明日も明後日も、もうひたすらに読むしかない。まだまだ全然足りていないから。

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