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【特別無料公開】タイランドの森の寺住職パイサーン・ウィサーロ師の説法~ティク・ナット・ハン師の貢献


★100円設定ですが特別記事ですので無料で最後まで読めます。


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このnote記事は
2022年1月26日から2月1日の7回に分けてお届けした

定期継続購読用の記事の一部を抜き出して
特別に無料公開します。

ベトナムの禅僧であり
仏教を基盤とした平和活動家でも
あられたティク・ナット・ハン師が
2022年1月22日に
ご逝去されました。

95年のご生涯の中で
世界中の多くの方に深い影響をあたえてこられた
ティク・ナット・ハン師。

追悼のお気持ちもこめて語られた
スカトー寺現住職
パイサーン・ウィサーロ師の説法です。

歴史に刻むにふさわしい
貴重なお話が満載ですので

定期継続購読の方以外にも
お読みいただければと

パイサーン師の説法部分のみを編集して
1つの記事にまとめました。

ティク・ナット・ハン師の人生の歩みや
教えがどのように多くの方の心に
響いていかれたかを知るのに
とても大切なお話であるかと思います。

ぜひお読みただけると
嬉しいです。



<2022年1月23日朝の読経後の説法@スカトー寺>


現代人に必須なマインドフルネス


昨今、気づきを高めること、
あるいは、マインドフルネスについて
多くの人が関心を持つようになっています。

これはタイ(ランド)だけでは
ありません。

そして仏教徒だけにも
限りません。

世界中の様々な個人やグループに
興味を抱かれています。

とりわけ西洋諸国に住む人たちは
関心を持っておられます。

そして気づきを高めることは
お寺や瞑想修行場の中にとどまらず

学校など教育の現場において
実践されてきています。

とりわけ海外では
小学校の児童たちに
気づきを高めること、マインドフルネス
大切さを教えているところもあります。

ビジネス界でも
さまざまな企業や組織が
マインドフルネスの研修などが
行なわれるようになっています。

マインドフルネスの研修コースがあると
多くの方が参加されています。

大きな企業、特にITに関する企業が
毎日毎日マインドフルネスの訓練をするような
機会を設けているのだそうです。

また、病院や
社会福祉施設などもそうです。

気づきを高めること、あるいは
マインドフルネスは、もうすでに

人々の生活から離れたところにある、とか
贅沢なことであるとはみなされてはおらず

生活や仕事という
もっとも身近な場面において
大切なこととして
受け止められてきていると思います。

こうした状況は
30年~40年前とは
大きく変わってきています。

海外においてもそうですし
タイにおいてもそうですね。

この大きな変化をもたらすのに
大きな貢献をされた方のおひとりが
ティク・ナット・ハン師であると
いえるでしょう。

ティク・ナット・ハン師は
マインドフルネス、つまり
気づきを高めること
(人間の生存に必要な)5番目の要素
として重要視なさっておられたと
いってもいいでしょう。

(訳注★通常、衣・食・住・薬の4つを生存に必要な要素とみなす)

とりわけ現代社会を生きる者にとって
必須のことであると認識されておられました。

昨日、ハン師が
お亡くなりになったというニュースは
世界的に大きく取り上げられました。

偉大な方が亡くなられたということを
伝えておりました。

ハン師の人生は
私たち人類に本当に多くの貢献を
なされた人生でありました。

それは、師の命が失われるという
損失をはるかに超える
人類への貢献の数々でありました。

それらは計り知れないものです。

私は、ほんとうに幸運でした。

ティク・ナット・ハン師の教えを
17,18歳の若い頃から知ることができ

また、師ご自身にも
何度も直接お会いすることができました。

ハン師の教えと
実践なさってきた活動。

ハン師がまだ青年の頃からの活躍は
私自身の人生にも
大きな影響を与えました。

とりわけ私自身が
瞑想修行を真剣に取り組み、かつ
社会的な活動に対しての取り組みも
ハン師のお姿が与えた影響が
大きくありました。

私がまだ高校生の頃です。

もうその時には
仏教に関心を持っていました。

プッタタート師をはじめとした
多くの先生方の本を読んでいました。

ですから
人々の善き心を開発するのに
仏教の果たす役割については
懐疑的な思いはありませんでした。

しかし
社会情勢の変化に対して

ちょうどそのころは
タイ国内の社会情勢は不安定で

シップシー・トゥラー(10月14日事件。
1973年10月14日に起きた学生クーデター)
の前後でありました。


ラブ・イン・アクション Love in Action


当時
政治的な不安定さの中にあるなかで
状況を変えたいと思う人たちの多くが

その手法として武力を使うことも辞さないと
いう立場でありました。

多くの市民の結集を示すために
武力での改革が必要だとする
立場でした。

これらは当時、理想とされていた
社会主義の政治のあり方でした。

特に若い人たちに
その理想が支持されていました。

しかしその後
その理想に懐疑的な人たちも
多く現れました。

たとえどんなに社会が良くなったとしても
政治的な平和が訪れたとしても

武力を使い、暴力的な方法によって
それを成し遂げるということが
本当にありえるのだろうか?と。

そして社会変革の方法として
平和的なやり方に
関心がもたれるようになっていきました。

たとえばマハトマ・ガンディーの
実践などを学ぶにつれて
非暴力・平和的の大切さを
認識する人も増えてきたのです。

しかし当時としてはもう
ガンディーの実践は
過去の歴史的なことという印象でありました。

今、起こっている政治的困難を
乗り切るのに
それを参考にするには
あまりに昔のことでした。

しかし、ティク・ナット・ハン師をはじめ
ベトナムの仏教僧の活動を知るに及び

非暴力・平和的な手法による
社会運動を具体的に知るようになりました。

私にとっては
非常に身近だと感じられるものでしたし
現在進行形で取り組んでおられる
活動でしたのでとても興味を持ちました。

当時はベトナム戦争の最中でありましたから。

そんな中で
ティク・ナット・ハン師の行動や活動を
知るたびに、感動を覚えていました。

私が17歳の時に最初に読んだ
ティク・ナット・ハン師の記事。

それはある雑誌に
「ラブ・イン・アクション」という
タイトルで書かれた小さな記事でした。

行ないの中にある愛。

愛を語る、いわゆる一般的なものでは
ありませんでした。

ベトナム戦争の真っただ中にあって
どのように非暴力的に、平和的に
行動として現わしていけるのか。

時に、政府と直面しなければならない。

そんな時にティク・ナット・ハン師を
リーダーとした仏教徒たちが

仏教的な方法、非暴力の方法で
暴力に立ち向かっていく姿を
現わされたものでした。

その時に立ち現れてきたパワー。

当時の政府は
暴力的な手法でコミュニストを
制圧しようとするのを支持していました。

そうした混乱の状況にあって
ある時期には仏教徒に対して
圧力をかけるという事態にもなりました。

ある時期、首相になった人が
キリスト教を信仰しているが故のことでした。

ベトナムの仏教徒は、それに対して
怒りでもって暴力でやり返す
ということはありませんでしたが

圧力をかけられたまま何もしない
ということもしませんでした。

仏教的な慈しみの心、非暴力の方法
そのような政府の姿勢に
立ち向かいました。

何かを痛めつけたり
暴力でやりこめることは
しませんでした。

信じられないようなことですが
それらが力を持ちました。

そうした力が
政治の方向性を変えさせる
パワーとなったのでした。

このような話を伺う度に
私はこう考えるようになりました。

「仏教、あるいは仏法は
 ただ人の心の中を変えるだけではない。
 社会を変える力を持っているものなのだ」

と。


私たちの敵は人ではない。

   怒りや嫌悪こそが敵である。


仏教は人々に対して
心の善き変化を促すだけではなく

善き社会を実現するのにも
確かに役に立つものなのだ。

そのことを
ティク・ナット・ハン師の実践によって
学ばせていただくことで

私自身より一層
仏教の学びを深めていこうという気持ちに
なりました。

ハン師からの
大いなる励ましを頂いたような

あるいはまた、社会に対する活動を
続けていく上での秘訣を教えていただいた
ような気持ちになりました。

その後も、ハン師の活動を
見聞きしたり、本を読んだりする中で
何度も心が動かされるものがありました。

とりわけハン師のお弟子さんたち、
若い方たちが多かったですけれども

ただ政府に対抗するという姿勢ではなくて
戦争で傷ついた人たちに対する
支援活動も同じように
やっておられました。

それまでベトナム国内での内戦は
もうすでに30年近く続いていましたから
人々の疲弊は相当なものでありました。

ハン師は、貧困にあえぐ人々に対しての
支援活動を、若者たちに呼びかけ
実践されていきました。

当時、ハン師は
ヴァンハイン仏教大学を設立されており
多くの若者たちが学んでおりましたので

彼らに、厳しい状況にある人々を
手助けするように呼びかけました。

社会福祉的な活動ですね。

そうして社会福祉の学校も設立され
多くの若者が活動するようになりました。

そこでは仏教についての座学だけではなく
実際に現場に出ていって
厳しい生活を強いられた人々を
支援するものでした。

実際のところ、そうした活動には
危険が伴うものでもありました。

なぜなら、活動地域の中には
通称<赤い領地>つまり
2つの勢力が争って紛争状態になっている
地域もあったからです。

しかしそうした危険な場所であっても
若者たちはひるむことなく
厳しい生活を強いられた人々に
支援の手を差し伸べ続けました。

活動当初は、そのような活動は
歓迎されておりましたが

しだいに、政府からは
彼らもコミュニストではないかとの見方をされ

ハン師の弟子たちも逮捕されてしまい
時に殺害されてしまうことさえありました。

政府の側からも
コミュニストの側からも敵視される
ようになってしまったのです。

しかしハン師は
政府に対しても、コミュニストに対しても
嫌悪や怒りの心をもって
反撃するようなことはありませんでした。

残された弟子たちには
仲間を殺した人に対しても
許しの心を忘れないように、と
説かれたのです。

ハン師は常にこうおっしゃっていました。

「私たちの敵は、人ではない。 
 怒りや嫌悪、はまり込みや無知こそが
 私たちの敵である」

と。

 怒りや嫌悪によって
 武力や暴力に対抗することはできない。

 ますます武力や暴力が
 増していくに過ぎない、と説かれたのでした。

 怒りや嫌悪は 
 火に油を注ぐようなものである、と。

 武力や暴力に本当に対抗できるもの 
 それは慈しみである、と。
 
これは本当に難しいことです。

愛する弟子たちを殺めた人に対して
慈しみを向けるということは
本当に難しいことでありましょう。

しかしハン師は、
ご自身がそのモデルとなって
慈悲の心を示されました。

たとえ悲しみが生じていたとしても
それを怒りに転じて相手を圧迫することなく
許しの心をももって対応されました。

そして弟子たちに対しても
ブッダの教えを思い起こし、
自分自身の心のケアをするようにと
説かれました。

ハン師は、ある一冊の詩集を
出版されました。

 The Way out is in
(旅から帰るとは、旅を続けること)

その詩集には
弟子が殺されてしまったときの
ハン師の心情が描かれていました。

その弟子はたとえ殺されることが
わかっていても、怒りや嫌悪を抱くことなく
愛や慈悲を持っていた。

そして死をも恐れることはなかった。

その詩はほんとうに
素晴らしい詩です。

当時、それを読んだ私の友人たちも
とても感動していました。


私がはじめてティク・ナット・ハン師にお会いしたときのこと


そして私たちタイの国もまた
当時の政治状況は不安定でした。

タイの若者たちもまた
道を求めていました。

ティク・ナット・ハン師がひとつの光を
指し示してくださったのです。 
 
本当に良い社会を作るためには
愛や慈悲がなければなければならない
ということを示してくださいました。

ティク・ナット・ハン師は当時
私たち若者にとってのアイドルともいえるような存在でありました。

その若者グループは
タイでは本当に小さいグループでしたけれども。

当時の大半の若者は
政府と対立して革命を起こそうという
流れでした。

そんな中での小さなグループでしたが
仏教は良き社会を実現するための
答えとなりうるという思いで
活動していました。

人々の心に対する答えだけではなく
善き社会を実現するうえでの答えにも
なりうるものだ、と。

仏教が修行や瞑想といった
個人的平和のためというイメージを打破した
最初の人というのが
ティク・ナット・ハン師であると思います。

社会や政治に対しても
影響を与えることができると
その身をもって示してくださいました。

仏教を基盤とした心の変化と
(当時多くの人が信じていた)
マルクス主義や共産主義を基盤とした
社会の変化

当時の私も
内側の変化(心)と外側の変化(社会)とを
融合させるように働きかけられることを
ティク・ナット・ハン師その人の姿から
学ばせてもらいました。

ですから
私たちのアイドルでしたね。
 
そしてティク・ナット・ハン師に
はじめてお会いできたとき
とても嬉しかったです。

それは、北タイ・チェンマイにある
パーラート寺というところでした。

仏歴2519(西暦1976)年でした。

その時のことは
はっきり覚えています。

ちょうど私は
大学入試の最後の科目が終わり
その足で夜行バスに乗って
チェンマイに向かいました。

当時、パーラート寺がどこにあるのかも
わからないままでした。

あるアジア・パシフィックの会議があって
アジア各国の若者たちが集まっての
会議がその寺であったのです。

ティク・ナット・ハン師がその会議の
基調講演をなさるため
招聘されていました。

その会議には
私がとても尊敬しているお坊様である
パユットー師も招聘されていました。

(社会活動家の)スラック・シワラク師
(作家の)カルナー・クサラーサイ師
おられました。

その会議に参加することができて
ティク・ナット・ハン師に
お会いすることができて
とても嬉しかったです。

また、女性のお弟子さんもおられて
当時はまだ在家者でいらっしゃいましたが
その後比丘尼として出家されました。

ティク・ナット・ハン師にお会いして
その物静かな佇まいに
感動していました。

言葉はとても少ないのですが
とても穏やかで
 
他者のお話をじっと聞かれるときの
辛抱強さが印象に残りました。

自分から話そう、教えよう
教えて聞かせようなどという姿勢は
まったくありませんでした。

その後、またバンコクにて
お会いする機会がありました。

当時は、師の故郷である
ベトナムのことを
大変心配しておられました。

陥落の危機に陥っていました。

その会議が3月にあって
その年の5月にはサイゴンが陥落しました。

ポジティブな見方をすれば
戦争が終結したということです。
  
こうした経緯が
私自身がティク・ナット・ハン師を知った
最初の頃の様子です。

それは先ほども申し上げましたけれども

仏教、あるいは仏法は
単に人々の心の平安を生じさせるだけではなく
社会の平和にとっても貢献できるものだ、と。

仏教に興味を持ち、実践することで
社会にも貢献することができるのです。

社会に貢献しようという志があればあるほど
心にいかにしっかりした拠り所があるかが
重要になってきます。


目覚めることの奇跡 The Miracle of Being Awake


それはティク・ナット・ハン師が
その身で私たちに示してくださった
ことでもあります。

ハン師ご自身が
社会への関わりをより深められていくとき

より社会で厳しい状況に置かれた方のために
何かの活動をされるとき

ベトナムの社会がよりよくなっていくように
働きかけられていくとき

よりハン師ご自身の身にも
深く影響を受けることになるわけです。

しかし
どれだけ外からの影響を受けたとしても
心まで熱くなって
怒りや復讐心に燃えること
後退することはありませんでした。

なぜなら
師の心にはしっかりとした柱が
おありだったからです。

それは修行によって
しっかりと培っておられたものでした。

特に若い人たち
当時の私自身もそうでしたけれど

社会の役に立つようなことを
何かしたいと思う血気盛んな若者は

とりわけそうした心の柱が
本当に必要で大切なことでありました。

それを育むことができるのが
瞑想修行です。

ですから私自身も
瞑想修行や気づきを高めることに
より関心が向いていきました。

その当時、出版されたばかりの
ティク・ナット・ハン師の
新しいご本がありました。

スラック氏がその本をお読みになり

当時お弟子さんで、かつ
お坊さんだった方が
その本を訳されていました。

プラチャー・プラチャーナサンタンモー僧
という方でした。

本のタイトルは

「目覚めることの奇跡
     (The Miracle of Being Awake)」

というものでした。

画像1

私はこの本のタイ語版を
原稿の段階で拝読しました。

なぜなら、タイ語の訳を
タイプするお役目を担うことに
なったからです。

お坊様が訳してくださった手書きの原稿を
私がタイピングをして
その原稿を出版社に渡すことになりました。

ですから私自身は
翻訳者を除いてはじめての
タイ語版読者だったのでした。

タイピングをしなくては
なりませんからね。

タイプは何日もかかりました。

私はタイピングするのが早いので
頼まれたわけなのですが

読んではタイプをし
読んではタイプをするなかで
本当にその内容に感動しました。

マインドフルネス
気づきを高めること。

それは何も
複雑なものではないのだ、と。

日常生活の中で
私でも実践できるものなのだ、という思いが
こみ上げてきました。

食べるときにも
食べることに気づきをもって。

歩くときにも
歩くことに気づきをもって。

お風呂にはいるときにも
お風呂にはいることに気づきをもって。

歯磨きをするときには
歯磨きをすることに気づきをもって。

そして
「目覚める」ということも
気づきがなければ
理解できないものです。

気づきがなければ、それは
本当には目覚めていないのです。

最初、そのことを聞いたときには
ヘンだなと思いました。

(タイ語での先の本のタイトルが)

「いつも
 目覚め続けていられることの奇跡」

でしたので

目覚めるということについて。

私たちが夜眠っているときは
気づきはありませんよね。

目が覚めたから
目覚める、という。

しかし瞑想修行を続けていくなかで
自分自身に目覚めていく
ということの意味が
だんだんと理解できるようになってきました。

そのように
社会に関心を持つ若者たちも

だんだんと心のありようや
修行に関心を持つようになっていきました。

なぜなら
どんな仕事や活動をしていても
「自分自身に戻る」ということが
本当に大切になってくる
からです。

社会の善き変化を促すための
活動を続けていく。

しかしその結果や影響が
いかなるものであろうとも
たゆむことなく、あきらめることなく
歩んでいく。

ベトナム戦争が終結したあと
タイの人々は
自分の国にもその影響があるのではないかと
心配していました。

その不安は
とても大きなものでした。

私を含め若者たちは
国の未来を心配していました。

ティク・ナット・ハン師ご自身も
心配しておられました。

ですから私は
ベトナム戦争終結後
何度もハン師と
連絡を取り合っておりました。

ハン師と手紙でのやりとりを
させていただいたことの他に

(当時亡命先であった)
フランスにてお会いする機会もありました。

仏歴2520(西暦1977)年)の
ことでした。

平和活動の一環で
アメリカでの会議があった折

その会議を終えてタイに戻る帰路
ヨーロッパを経由して戻りました。

その時にフランスにおられた
ティク・ナット・ハン師を訪れることが
できたのでした。

当時はまだ
プラムビレッジは作られておりませんでした。

小さなコミュニティの中で
修行をされておりました。

いや、コミュニティとすらいえないような
小さな家で暮らしておられたのです。


個人の内なる幸せと

  社会という外の幸せは決して切り離せない


その当時のコミュニティの
名前は「フォンワー」でした。

フォンワーというのは
「耳にやさしい説法」
という意味でした。

その時、一緒に旅をしていた友人が
ウィラ・ソンブーンさんでした。

私の記憶が間違っていなければ
今、彼はランシット大学の学部長さんです。

当時のティク・ナット・ハン師はまだ
今日のように世界中に名が知られている
存在ではありませんでした。

ですから、
私自身もありがたいことに
ハン師と身近に直接お話することが
可能でありました。

どうしたらタイの国で
政治的な混乱がなく平和な社会を
実現することができるのだろう?

ベトナム戦争のような
悲惨な状況に陥ることを防ぐためには
どうしたらいいのだろうか?

その時は本当に
長い時間、ティク・ナット・ハン師と
お話を交わすことができました。

なぜなら、まだ当時は
プラムビレッジのサンガを作られる前
でしたから。

ハン師のコミュニティがある家で
4~5日過ごさせていただき
その後タイに帰国しました。

そしてその後に再度お会いしたのは
私がもう出家した後のことでした。

フランスにてお会いしたのですが
もうその頃にはプラムビレッジが創設されて
14年ほど経っておりました。

多くのお弟子さんたちが
修行をしておられました。

その頃には、ハン師の数々の著作によって
人々が関心を持つようになっていました。

その本たちは

Being Peace

Peace is every step

などですね。

一歩一歩に平和を、という意味です。

このようなハン師の著作は
仏教徒だけに読まれたのではありませんでした。

仏教徒ではない方も
あるいは特定の宗教を信じていない方も

マインドフルネス、気づきを高めることの
価値を感じられるようになったのです。

なぜなら、気づきとは
自分自身から遠く離れたものではなく
この身にすでにあるもの。

すべての動作、すべての姿勢に
いのち働くすべての動きの
瞬間瞬間に働くものだということを
わかりやすく示してくださったからです。

もしこの観方を知ることができれば
いつでもどこでも瞑想修行ができる
ということがわかってきます。

ティク・ナット・ハン師は
そのことをより多くの人たちに
知らしめる存在となりました。

ですから、ハン師のもとで
出家修行をしたいという人が
たくさん出てこられたのです。

ティエプ・ヒエンという
サンガ(僧団)を作られました。

このサンガは
タイにもあります。

プラムビレッジと同じです。

ティク・ナット・ハン師の教え方は
他の人は違った方法でした。

深遠な仏教の教えを
非常にわかりやすい言葉で伝える

そして師がとても大切にされたのが
「静けさ」「幸せ」でした。

仏教ではとりわけ
「苦しみ」ということにフォーカスして
説法がされがちです。

しかしティク・ナット・ハン師は
幸せという用語を多用して
説法をされました。

静かなる幸せ、あるいは
平和なる幸せ。

それを
教えの柱とされました。

すべての人が
内なる幸せに、すべての瞬間に
到達することが可能である、
と。

今ここ、に戻ることができれば
その瞬間に
内なる幸せに出会うことができる。

そして内なる幸せに出会ったならば
外側の幸せにも
貢献していくことが大切である。

個人の内なる幸せと
社会という外の幸せは
決して切り離せないもの
である。

社会の幸せを望むのであれば
個人の内なる幸せが不可欠である。

なぜならば
善き社会の実現に向けての
モチベーションを維持していくために
必要なことなのだと
教えてくださいました。

No Mud, No Lotus 泥のないところにハスはない


個人の内なる平和が訪れたとき
それを個人のものだけにすること。

つまり
私だけが心の平安で
ありさえすればいい。。

もしそのような姿勢であるならば
それは正しい姿勢とは言えません。

外側に向かって
より人を手助けしていく方向へと
向かわなければならないのです。

ですから
個人個人の瞑想修行と
社会への取り組みというのは
別々のものではありません。

そしてティク・ナット・ハン師の教えは
言葉として聞くと
一見矛盾しているように思えるような
お話を良くされていました。

たとえば、ここに
花とゴミがあったとします。

しかし花とゴミは
分けることができない。

なぜなら花が枯れてしまったら
それを捨てますよね。

捨てたらゴミになるわけです。

しかしゴミはいずれ肥料になり

それがいずれは
また美しい花を咲かせていくことに
役立っていきます。

これは簡単に言うと
縁起(えんぎ)のことですね。

それは単に花とゴミだけではなくて
すべてのものに対して
いえることです。

すべてのものは
それ以外のものから
成り立っている。

ということです。

たとえば
椅子を見てみましょう。

椅子は
椅子でないものから成り立っています。

椅子は何からできていますか?

木からできています。
釘からもできています。

椅子が椅子として
組み立てられるためには
職人さんの働きも必要です。

木も、釘も、職人さんも
椅子ではありません。

しかし、椅子が椅子として生じるには
椅子ではないものが必要なのです。

そのものは
そのものではないものによって
生じる。

これが無我(アナッター)です。

そうやってみていくと
椅子という確固とした実体のあるものは
ないとわかってきます。

椅子というもの、そのものが
個として永続し存在しているのでは
ないことがわかってきます。

椅子は椅子ではないものによって
生じている。

これらはすべてにおいて
いえることです。

木だって、木からできているのでは
ありません。

木があるのは、雨があってこそ。

雨があるのは、雲があってこそ。

雲があるのは、太陽があってこそ。

そのような視点で見ていくわけです。

椅子を見ていくと
太陽や雲が見えてきます。

ひとりひとりの存在の中に
宇宙が見えてきます。

ですからつまり
私は、私ではないものから
できています。

こうした見方は
状態としてものを観ていく
という真実の見方です。

仏教における
深いものの観方を示しています。

このように観えてくると
私、私のもの、という、いわゆる
「我」というものはない

永遠に変わることのない
何か確固とした私というものはない。

ということが理解できるでしょう。

何かがあるのは
その何かではないものがあるからだ、と。

これが無我(アナッター)です。

ティク・ナット・ハン師は
このことを、とても美しい言葉によって
表現されていきました。

人々にわかりやすい言葉でもって
仏教の核心となる教えを
伝えてくださいました。

そしてついには
苦しみと、目覚めること、苦しみからの解放
それらが別々のものではないと
伝えてくださいました。

苦しみと
苦しみを超えること。

それらは別々のものではない、と。

このことを
非常にわかりやすく
端的な言葉で伝えてくださいました。

英語ですけれど

No Mud
No Lotus

泥がなければ
ハスはない

ハスがあるところには
泥もそこにある

このようにたとえてくださいました。

泥というのは苦しみの象徴であり
煩悩の象徴といってもいいでしょう。

ハスというのは、目覚めることの
象徴であり、苦しみを超えることの
象徴ともいえましょう。

はっきりと知ることができる、
それには苦しみがあってのこと。

苦しみがなければ
はっきりと知ることはできない。

はっきりと知るということ。
それは苦しみを超える、苦しみから
解放されるということです。

苦しみと苦しみを超えることは
別々のものではない
ということです。

これは本当に深い教えです。

しかし、こうした深い教えを
理解しやすいように説いてくださいました。

これはティク・ナット・ハン師の
特徴であるといえましょう。

ですから
ハン師の生き方や教え、実践によって
多くの人が影響を受けたということは
決して不思議なことではありません。

そして影響を受けた多くの人たちが
仏教における新しい流れを作っていっている。

私はこうした流れは
今後も長く続いていくと
信じています。

今日は
ティク・ナット・ハン師が
どのように私たちに影響を与えてくださったのかを
お伝えいたしました。

とりわけ
私自身をはじめとした
当時の若い青年たちが
今に至るまでどのように影響を
受けているのかをお伝えさせていただきました。


                    (終わり)

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