【短編】海を崇拝
確かに僕は言った。きみを独りになんてしないと。きみはちょっと目を離したら消えちまいそうだったからね。たとえるなら何だろう、風船かシャボン玉か。いや、やっぱりきみはきみでしかない。
「自然の法則なんてものはなくて、すべて神様の気紛れだと思う」
きみが呟いた言葉を知った喉が勝手に答えを紡いだ。
「そうでなければ、こんなに海は綺麗じゃないよ」
ねえ、僕はもっとキザな台詞でも探せばよかった?どれだけ丁寧に扱っても、僕らが愛と呼んだものは酷く脆くて仕方なかった。
きみはどこからを嘘にしたんだろう。愛し合っていたことすら偽りだったのだろうか。誰が引き金を引いて、誰を撃ち抜いた。確かめる術はもうない。
未練なんてないさ。ほんとうにもうきみのことはどうでもいいと思える。きみがどこでどんな言葉を紡ごうと、僕に捧げたものを超えることはきっとないって、ある種自惚れみたいなものがほんのり残っているのだ。
きみと海を見ている時間はいつだって、ふたりの間に無色透明の硝子があったように思う。それはもしかしたら鏡で、お互いがお互いより先に自分自身を見ていた。言い換えればそれは幼さだ。会話と呼ぶには拙い独り言をぽたぽたと砂浜に溢して、時々それを拾ってはまた投げる。世間一般が定義した恋愛とは僕らの見せかけにも及ばない陳腐なものだったろう。
「私を選んじまったんだね。酷く哀れなひとだね」
あるとききみはそう言っていた。
「君を信じていないわけじゃないけれど、私はもしかしたら愛というものに価値を見出せず泣いちまうかもしれない」
目も合わない。僕も何処か遠くに目線を飛ばす。
「そんな独りよがりなポエムなんか、僕にどうしてほしいの。それが愛情だなんて言うならきみを少し見損なうよ」
きみの髪は硬くて少し痛い、色素の薄い黒。肌は青いほどに真っ白。傷んだ髪の毛先がよく絡まっていた。きみはきっと世界から見ても美しいひとで、口紅の赤がよく似合っている。華奢で人形みたいなひと。本の中から出てきたと言われても信じてしまうほどには。
横に座るきみの髪が風で靡いて僕の肌に刺さる。その刹那にまた毒でも注入された気になっちまうのだ。
「あのね、独りよがりなポエムだったって構わないんだよ。私のこれが愛か愛じゃないかは君が決めることだからね」
「そうだね」
息を吸って吐くあいだ、きみの髪はずっと僕の肌に触れていた。ざらざらする。潮や砂でも絡んだのだろうか。それすらすべて自分が取り込んで幸せと呼んでみたいと思った。残念ながら、僕らが存在していること自体が不幸だと思えて仕方なかったが。
きみの話はいつも興味深かった。
僕は幼い頃からずっと学校に居場所がなく、きみは家庭に居場所がなかった。家出と称して度々海に集まっては駄弁って、その時々きみが泣いていたり、どちらかの腕が傷だらけだったりした。慢性的に生きていく中で僕達は個々に自傷行為を覚え、浅い傷跡に砂を塗りこんではすべてを嗤った。あの頃はほんとうにおかしかった。僕がきみと異常になればなるほどきみは笑ってくれて、何処にも行かなかった。
あるとき僕は学校を早退して海に行った。きみはもう来ていて、その後ろ姿を見た瞬間力が抜けて、麻痺していた感情や痛みが一気に流れてきたのを覚えている。切り付けてしまった自身の左腕が生命を叫んでいた。きみはそれに気が付くと、ハンカチで優しく赤を拭ってくれるのだ。
「また派手にやったね。今日は何があったんだい」
「忘れられないんだよ。トラウマみたいなものが、ずっと響く。クラスメイトの声が痛いんだ」
ひとに悩みを話すような人間ではないが、きみを前にすると簡単に溢れてしまう。どうしても僕は人前で泣くようにはなれなかったが、きみは僕と目を合わせて泣いた。
「別にそれは単なる記憶だから。仮に思い出して泣いたって、それは思い出だからね。君を喰ったりはしないよ」
嗚呼、どうしてきみが泣くんだろう。僕はきみの信者だ。
砂浜に相合傘を書いているきみを見たのは、それから暫くのことだった。待ち合わせより一時間も早く着いた日、きみは既に砂浜にいて、僕には気付かずに歌を歌っていた。きみはほんとうに僕を大切にしてくれていて、そのとき歌っていた歌も僕が教えた歌だった。
いつだったか僕があげた古い有線のヘッドホンがきみのポケットに続いている。細い人差し指を砂に突き立て、僕の足音も知らぬまま。その相合傘はきみと僕の名前だった。
「好きなの?」
何のデリカシーもない質問を投げちまって、それが思いの外大きな声になっちまって、きみが振り向く。その頬が一瞬で赤くなり、僕はまんまと自惚れてしまった。学校の何処にも居場所がなく、ただ分かり合える友人ですら貴重だった僕を、きみはしっかり見つめて泣いてくれるから。
「好きなの」
きみは僕をいくらでも愛してくれた。だから僕も同じほどきみを愛していた。きみがどれだけ泣き喚いても止めず、どれだけ元恋人の話をしようと止めず、ただ僕はきみがここにいてくれればよかった。離れていかない確証が欲しかった。そうして愛を分かった気になった頃、僕はとうとう腕を切らなくなった。いつだってきみばかり泣くようになって、いつだってきみばかり腕を切るようになった。僕は本当に自惚れていたと思う。
「君がしないなら私も自傷をやめたい」
僕は、僕に対してなら許せることを、きみに対してでは許せなくなっていた。いつしか鏡なのは僕のほうだけになり、きみはきっと僕を見つめていたのだ。
やめてほしくなかった。きみはいつだって、異常で、狂気で、僕にどっぷり依存した盲目で、僕でしか満たされない女の子でなければ。僕を必要として、それでしか生きられないで、僕に縋って泣いているのが可愛かったんだ。
きみは意図してか意図せずか、その他大勢に成り下がろうとした。自傷をやめ、死にたがらず、僕も自分自身も愛そうとした。それが人間関係において適切なバウンダリーであることは百も承知だったが、僕はそれが心底気に食わなかった。だから脅した。どれだけ酷いことをしたってきみは離れていかないだろうって、僕はどこかで自惚れていたんだろうね。
「きみが僕を愛してくれないなら、僕はもういらないかな。最近そっけないんだもの」
「自分で切れないなら、僕がきみの腕を切ってあげようか」
分かっていたさ、きみのその道が正しいことは。それでも認めたくなかったんだ。僕が愛したきみがよかった。僕が信じたきみがよかった。きみはもっときみのことを見て、僕をきみの思い通りにしようとして、ひたすらに自分勝手なひとであってほしい。それをすべて自分が受け入れられる保証もないくせに、ほんとうに我儘なのは僕のほうだった。
僕はきみの信者だ。強がりばかりで我儘なきみの信者だ。こんなに汚れちまうなら、きみとはずっと友人でいればよかった。
「ねえ、本当にすべてを終わりにするつもりなの」
「終わりだよ、何もかも全部。私はこれ以上君と恋仲でいるつもりはないの」
「きみが僕なしで生きていけるわけがないのに!」
何度も切りつけた左腕が痛いね。きみとお揃いの傷だ。来世でもきみを見つけられるように。そうして僕が永遠にきみを呪う。きみは僕のことを愛していて、そうでなければいけなくて、嗚呼、いつだって鏡だったのはやっぱり僕だけなんだ。僕は愛されたいばっかりで、きみを愛してやれたことはなかったんだ。今なら僕がおかしいとわかるのに、当時の僕はそうもいかなかった。
「わかった、今からきみは僕と一緒に死んでよ」
泣けなかった。泣けないから心臓のあたりがずっとずっと裂かれていくように痛くて、きみを盗み見たとき、きみはまた泣いていた。
綺麗なひとだ。とても意地悪なひとだ。とても優しいひとだ。こんな僕のために流せる涙があるなんて、ずるい以外の言葉を思い付かない。どうしてきみが泣くんだろう。知ってみたかった。
「心中かい、引き受けるよ。これでも私は君が好きなんだ」
真冬だった。凍えるような指先できみの体温を感じた。ただ腕に触れてきみの傷痕をなぞった。唇すら縫えない僕の肌をきみは優しく撫でた。冷たい冷たい手。薄くて消えそうな手。日が沈みはじめた海で、僕はきみの手を掴んで歩き出す。弱った頭では海に溺れる以外考え付かなかった。肩まで冷水に埋まって、初めてきみを振り返る。さっきまで手を繋いでいたはずの少女はいつのまにかここから消え、砂浜の向こうに作られた海沿いの道に辿り着き、その後ろ姿を追いかけようと踠いた途端、数年ぶりに視界が霞んだ。
ただの死に損ないになったよ。ねえ、きみはちゃんと家まで走れたのか、それだけが気がかりで近頃眠れない。きみがこの先誰を愛そうとも、僕にくれたものを超えることはなければいいのにと願ってしまう。だってきみはそういうひとだった。神様の気紛れで欠伸を繰り返す海みたいなひとだった。
僕はきみの信者だ。僕が作り上げた理想の恋人像に、きみを当てはめてしまっていた。それが愛なんてよく呼べたものだ。きみがいないと生きていけないのは僕だった。鏡に映った自分ですら、きみを通さないとよく見えない。やっと泣けるようになったって、それをきみが見てくれなければ、意味がないよね。
さよなら、これを遺書にします。いつもきみと呼んだから、名前もわからなくなっちまったきみへ。僕は本当にきみを、その向こうの僕を、愛してみたかった。僕はきみの信者だ。
お題:鏡
対 : 海の欠伸
宜しければ。