【小説】天使の羽が落ちた日
第二話
“ずっとミナトと親友でいたいのは我儘?”
それはきっと永遠に我儘だ。そう思いながらも私はこう言った。
「我儘じゃないよ。ずっと親友でいよう」
私は本当にずるいのだと思う。こんなに良くしてもらっているのに、私は天使と一緒にいる未来を望めない。
一緒にいたくないわけではない。ただそんな未来を想像できないだけだ。私は、天使が生きていればそれでいい。たとえ地球が滅亡しようと。
だから、「ずっと親友」も、お互いの願いではなく天使の勝手な願い事だ。私は今この瞬間死んでもいい。ただ天使が酸素と仲良くあればいい。
彼女はいつだったか、私に親友だと言った。それは本当に嬉しかったし、なんだか報われた気にもなった。親友だと堂々と言える存在ができたことによって、少し生きるのが楽になったりもした。
でもやっぱり、天使は天使なのだ。
汚してはいけないなにか。私には到底分かれないものがそこにある。
週末、天使と2人でこの部屋の未来について話した。お互い大学を卒業する頃で、一緒に住んでいる部屋をどうするか考えなければならないのだ。彼女に「私は社会人になってもここを使うつもりだ」と告げると、彼女は心底驚いた顔をした。
「そうなの。じゃあ使っていいよ」
「え?」
不自然だ。何が不自然なのか、2秒もしないうちに理解した。
「え、お前は?お前はどうするの」
「出て行くよ?」
「出て行く?それって、お前と私と別々で暮らすってこと?」
「そうだけど。なんか困るかな…?」
なるほど確かに彼女は我儘だ。しかし我儘の方向が違う。一緒に住もうとか散々私に懐いておいてそれは無いんじゃないか。だがそんなこと言えるはずもなく、別にいいけどと強がりを言った。
後にして思えば、あの子は半年前くらいから変わっていった気がする。中学のときから癖だった自傷を断ち、いつの間にか生きるのが楽しいなんて言い出した。自分を変えると決め、どんどん新しいことに飛び込んで笑っていた。もしかすると、この部屋を出て一人暮らしすることは彼女にとって挑戦なのかもしれない。
彼女が一番長い間依存していたもの、それは紛れもなく私だ。私のことも自傷と同じように、ぷつんと断ち切ってしまうのかもしれない。
途端、嫌だと思った。
あんなに彼女が生きてさえいればいいなんて考えておいて、本当に我儘だったのは私じゃないか。これは私のエゴだ。親友なら、絶対に背中を押してやるべきだと思うのに。引き止める権利は私にないはずなのに。
天使が春にはこの部屋を出て行くと決めてから、1週間が経った。その日は朝から天使が洒落たメイクをしていたので、何処へ行くのか尋ねるとこの部屋を出る手続きをしてくると言う。
ここでいってらっしゃいと笑顔を貼るのは簡単だ。だがそうするときっと一生後悔する。私は震える体を起こして玄関へ走った。
ドアが慌ただしく閉まるのを見た。
言えなかった。
これで会えないわけではない。たかが手続きだ。遅くとも夜にはまた会えるはずなのに、涙が溢れて仕方なかった。
もっと大切にすれば良かった。もっと欲張りになれば良かった。彼女の我儘も、全部好きだと言ってやれれば良かったのに。
私は暫く玄関先でしゃがみ込んで泣いていた。やっと気が付いた。あの子を天使にしたのは私なんだと。羽が生えていたからって、天使になるとは限らないのに。蝶かもしれない、蛾かもしれない。はたまた羽が落ちて一人で歩くかもしれない。その行く末まで決める権利は私にないのだと。
ぼんやりと立ち上がり、奥の部屋へ戻ろうとしたとき、玄関の扉が開いた。天使が息を切らしている。そして、少し笑ってこう言った。
「ミナトに行ってきます言うの忘れた!」
その瞬間、私はもう強がれなかった。天使…ではなく、親友に抱きついた。散々泣いた後でもう泣けはしなかったが、脚が震えた。
「…行かないで」
私は親友の華奢な肩を抱いて懇願した。
「エゴなのはわかってる…でも、行かないでほしい」
親友は私のほうを見て、やがて笑い出した。笑いすぎて涙が出た頃に彼女は呟いた。
「“いけない”ね、そんなに頼まれたら」
「なんで、そこを強調したの」
「…わたし、死ぬつもりだったの」
そうか、“逝けない”か。一度は納得したものの、彼女がまさか本気で死のうとしていたなんて、しかもそれを感じさせないほど明るく振る舞っていたなんて知らなかった。そんな自分が情けなくなった。
「…理由、聞いてもいい?」
ここ半年一切見せなかった弱気な顔で大人しく靴を脱いだ彼女に、私は言う。
死のうと決めていたのなら、あんなに明るかったのは何故だ。生きるのが楽しいと笑っていたのは何故だ。理由が知りたい。
「ミナト、わたしね、病気なんだ」
天使…親友…いや、カナデはある病を患っていた。現在では治せないもので、20歳まで生きられるか危ういと言う。
しかし彼女はもう21歳。いつ死んでもおかしくないのだ。そこで彼女は決めた。今日死ぬかもしれないと思えば生きるのが辛くなる、だから今を楽しもうと。そうすると、段々生きるのが楽しくなって。
「…死ぬのが怖くなったんだ」
カナデはぽつりと言った。
「だから、いっそ自分で終止符を打とうと思ったの。少しでも、運命に抗いたかった」
「だから、この部屋のことも」
「うん、今からわたしは死ぬとこだったから、春なんてわたしにはもう来ないの。もうミナトと一緒にいられないのは、悲しいけど」
「じゃあ、なんで一緒に過ごせる時間を自ら削ろうとするんだ」
カナデは俯く。多分、そこまでは考えていなかったんだろう。
「“ずっと”、親友だって言っただろ!?」
私は確かにカナデに生きていて欲しかった。カナデが生きてさえいれば自分はどうなっても良かった。
でも今は違う。カナデと、私と、2人でずっと、親友じゃなきゃ意味がないんだ。
「お願い。生きてよ。私と生きてよ」
私は泣いた。あの日以来、私は泣いた。嬉しいことばかり集めた日記の、水色の付箋を貼った頁。天使が泣いたあの日以来、彼女の前で泣いた。
「馬鹿だよねえ、わたし。ミナトが気付いていたりしないかなんて思って、つまらない言い訳作って戻って来るなんて。結局、わたしもミナトと一緒がいいんだよ…」
あの子が泣いて、私も泣いて、そのとき私は幻を見た。天使の羽が、落ちた。
あの子は天使じゃなくなった。そんなに遠い存在じゃない。お互いに汚したって構わない。少しでも親友でいるために、2人は全力で泣いて、全力で笑い、全力で生きる。でもやっぱりいつも全力は疲れるから、仕事や勉強だけは少し手を抜いて。ずっと親友でいたいと我儘を言い合うのだ。
「ミナト、今日はオムライス作ったよ!」
キッチンで笑うカナデが、たとえ明日本物の天使になったとしても。
宜しければ。