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中心なき宇宙を泡のように漂い続ける〈ブギーポップ〉の物語たち 「ユリイカ2019年4月号 特集=上遠野浩平」寄稿

 漂っていた泡に触れた。そんな出会いだった。
 
 1998年2月にライトノベルレーベルの電撃文庫から刊行された上遠野浩平の『ブギーポップは笑わない』を、すぐに手にとって読んだという記憶がない。1996年2月から書き続けているウエブ日記を見返してみても、『ブギーポップは笑わない』を買って読んだという記述がない。電撃文庫の存在はすでに知っていて、『ブギーポップは笑わない』が大賞となった第4回電撃小説大賞で金賞となり、同時に発売された橋本紡の『猫目狩り』は読んだ記憶がある。『ブギーポップは笑わない』に反応していないのは、積極的に読んでいたSFだと認識できず、学園が舞台のホラーか何か思って後回しにしたからかもしれない。

 それでも、2月のうちに『ブギーポップは笑わない』が評判になっていることには気がついた。誰かのウエブサイトのBBSだったか日記上だったか、泡のようにポツポツと浮かび上がっては漂い始めた称賛と驚嘆の言葉に触れるようになった。その頃には自分でも読んでいて、気がつけばライトノベルという今ほどネットで話題にされるカテゴリーではない小説を、結構な数の人たちが語り始めていた。

 ストーリーが凄いといったもの。別名でゲームのキャラクターデザインを手がけて独自性を見せていた緒方剛志のイラストが尖っているといったもの。鎌部善彦(カマベヨシヒコ)による装丁がクールだといった指摘もあった。刊行されて1ヶ月も経たないうちに、『ブギーポップは笑わない』はライトノベルでありながらも大人たちが話題にする作品になっていた。求められて「週刊SPA!」の書評コーナーで取り上げた。担当していた編集者が目利きだったこともあるが、これだけライトノベルが出ている現在でも、あまりないことだろう。

 いったい『ブギーポップは笑わない』の何が大勢を引きつけたのだろう。読み終えてすぐにネットに上げた書評に自分はこう書いた。

 『タイトルロールのブギーポップが、単なる多重人格のひとつとは思えないところに、完結してなお謎の多い小説の、これからの展開に興味を抱かせる。同じく世界を昔から守って来た、美しくそして強い女子高生・霧間凪の秘密にも、ブギーポップ同様に興味を惹かれる所がある。自分を殺してくれる誰かを求めて、マンティコアの仲間となって同窓の女性たちをその牙にかける少年の、現実に対する醒めた心理状態にも、現代(いま)の虚ろな世界を見るようで、深く考えさせられる。さても奇妙な味わいの、それでいてメッセージはしっかりと伝わってくる小説で、世に出た上遠野浩平が、次に物する小説は何だろう。その乾いた文体と、けれどもウエットな感情もしっかりと込める筆さばきが、21世紀を前に不安で虚ろなこの世界と、どう切り結んでいくのか興味がつきない』

 当時も変わらずファンタジーが人気で、SFもありラブコメも混じっていたライトノベルにあって、空虚さを漂わせる社会に対する不安や不満を拾い上げては、人類が進むべき道を示唆するような内容に興味を惹かれたようだった。これは個人的なものであって、ライトノベルがメインターゲットとしていたティーン層にどういった印象を持って受け止められていたかは、30代半ばで対象を過ぎていた自分には分からない。大人の本好きでSF好きであっても、存分に噛みしめて味わえる作品だったとだけは言える。

 それから20年が経って、今も『ブギーポップは笑わない』から始まった〈ブギーポップ〉シリーズと、作者の上遠野浩平はその存在を薄れさせていない。川原礫の『ソードアート・オンライン』なり鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』なり佐島勤『魔法科高校の劣等生』といった一千万部級のシリーズが居並ぶ電撃文庫にあって〈ブギーポップ〉シリーズは、レーベルを語る上で外せない作品になっている。そして、ライトノベルからミステリー、SFとったジャンルに目を広げても、〈ブギーポップ〉シリーズであり上遠野浩平という作家の存在を、時代は併走者として受け入れている。ハヤカワ文庫JAから〈ブギーポップ〉シリーズと設定が重なる『製造人間は頭が固い』が2017年に刊行された。講談社タイガからは『殺竜事件 a case of dragonslayer』から始まるファンタジー仕立てのミステリ、〈戦地調停士〉シリーズが再刊され始めている。そして2019年、『ブギーポップは笑わない』本編が初めてテレビアニメーション化された。

 今の読者も視聴者も上遠野浩平を求めている。それは、決してノスタルジーからではない。新作テレビアニメとして『ブギーポップは笑わない』の放送が始まった2019年1月から、『ブギーポップは笑わない』や第2作『ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター』の新装版が、文庫版と同じ緒方剛志によるイラストとカマベヨシヒコのデザインで刊行され始めた。それと同時期に、スニーカー大賞を受賞し2003年にスニーカー文庫として刊行された谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』が、元版のいとうのいぢのイラストとは違う写真による装丁で、角川文庫から刊行され始めた。見比べて浮かんだのが、〈ブギーポップ〉シリーズの変わらなさと、〈涼宮ハルヒ〉シリーズに対する懐かしさだった。

 2006年にテレビアニメ化されて爆発的な人気を呼び、小説も大ベストセラーとなった『涼宮ハルヒの憂鬱』は、2011年に刊行された最新刊『涼宮ハルヒの驚愕』が上下巻で51万3000セットという前代未聞の初版部数を記録。日付が変わった午前零時過ぎから販売が始まるという、村上春樹かボージョレ・ヌーボーかという盛り上がりを見せた。そんな〈涼宮ハルヒ〉シリーズに今、懐かしさを覚えてしまうのは、本来の読者としている世代から離れた場所に届けようとした角川文庫入りで、はるか遠くに行ってしまったと感じさせてしまったからなのかもしれない。新刊が長く出ていないことも、年齢を上げるファンの意識に不在感を与えて、ノスタルジーの海に溺れさせてしまったのかもしれない。

 〈ブギーポップ〉シリーズは、毎年のよう新刊が登場しており、2019年にはテレビアニメにもなって露出を増やした。だから今もすぐ側にいるように感じていられる。そして、これがより重要なことだが、ずっと書き続けられていたから〈ブギーポップ〉シリーズはノスタルジーの海に沈まなかった訳ではない。今なお〈ブギーポップ〉シリーズを現代につなぎ止め、併走させ続けている理由がある。それは、シリーズが構造として持っている“中心の欠落”だ。

 物語には芯があり、シリーズには核がある。それは達成される目的であり、その目的に向かって突き進む主人公だ。第24回電撃小説大賞で銀賞を獲得して2018年に刊行された瘤久保慎司の『錆喰いビスコ』には、兵器の暴走によって錆に覆われた日本にあって人類を救うという目的があり、そのためにキノコを操る力を使って突っ走る赤星ビスコという主人公がいる。猫柳ミロという相棒を得て権力と戦いモンスターを倒して進むパワフルな物語は、宝島社の「このライトノベルがすごい!2019」で新作部門と総合部門のダブル1位に輝く快挙を成し遂げた。

 最愛の妹のためなら祖国だって相手にする戦略級魔法師の司波達也を主人公に、渦巻く謀略を乗りこえさせていく〈魔法科高校の劣等生〉シリーズも、キリトとアスナの関係を軸に進む〈ソードアート・オンライン〉シリーズも、共に絶対的な主人公が物語を引っ張っていく。あるいは引っ張られて進んでいく。そんな中心的人物が〈ブギーポップ〉というシリーズにはいない。主人公の活躍と成長に自分を仮託して楽しむ。迫る世界の危機に立ち向かう主人公に感動する。そこから派生する世界がどうなっているのかという状況への驚きも含めて、気持を確実に掴んで離さない物語の中心が〈ブギーポップ〉シリーズには欠けている。

 ブギーポップがいるではないか、といった声が出ることは承知している。何かが行われて世界に危機が迫ると、「ぼくは自動的なんだよ」というシリーズを通じて真っ先に浮かぶ名セリフとともに登場し、異能を振るう敵をあっさりと倒して事態を収拾し、消えていく。これぞ真打ち、待ってましたと叫びたくなるブギーポップの活躍ぶりこそが、〈ブギーポップ〉シリーズの核だと言えないこともない。ただ、シリーズ全体を通してブギーポップが見せる行動は、まさしく「自動的」なものであって主体的、能動的ではない。起こるさまざまな出来事についてさまざまな者たちが、人間も合成人間も含めて動き関わり合いながら進んでいくストーリーにあって、ブギーポップはその時々に、文字通りに不気味な泡として浮かび上がっては事件にピリオドを打ち、消えていくだけだ。

 綴られたストーリーの中でブギーポップ自身に恋情が生まれたり、死別が訪れて喜んだり悲しんだりすることはない。ヒーローなりヒロインの情動に気持を乗せて読み進めていく物語とはタイプが異なる。能動的で主体的な主人公という中心を欠落させて、どうして、〈ソードアート・オンライン〉や〈魔法科高校の劣等生〉のような支持を、20年以上にわたって保ち続けていられるのか。まさしく中心が欠落しているからだ。欠落した中心の周辺に幾つもの物語を泡のように生み出し、漂わせて読者に届ける構造があって、それが〈ブギーポップ〉というシリーズの魅力を不変にして普遍のものにしているからだ。

 ブギーポップは一種のトリックスターであって、さまざまな時間に繰り広げられているさまざまな出来事を、その都度読者に紹介する役回りを果たしているだけに過ぎない。読者はそんなブギーポップに誘われ、あるエピソードで繰り広げられる出来事と関わる者たちを眺める。彼ら、彼女たちに離別が訪れ、恋情が浮かび、主体的に動いて事件を解決へと導く流れを追っていく。そのエピソードが終われば登場人物は退場し、次のエピソードでは別の登場人物が現れる。読者はその物語を味わって、そしてまた次へと移っていく。一九九〇年代の登場から変わらない〈ブギーポップ〉シリーズのスタイルと言える。
 二〇一六年に刊行された『ブギーポップ・アンチテーゼ オルタナティヴ・エゴの乱逆』では、『VSイマジネーター』での出会いと共闘を経て、重要人物になった谷口正樹という少年と、合成人間の織機綺という少女に、人類を監視する統和機構からふたつのグループから誘いがかかる。どちらが引っ張り込むかで内輪もめのような事態が起こるが、結果としてグループがつぶし合っただけで、状況には些細な進捗しかない。

 『ブギーポップは笑わない』から登場しているキャラクターで、ブギーポップを内に宿した宮下藤花を親友として見守り続ける末真和子が、パニックキュートと名乗る存在によって振り回される2018年刊行の『ブギーポップ・ビューティフル パニックキュート帝王学』でも、世界に決定的な変化は訪れない。末真の日常にも大きな変化は起こらない。統和機構の中で末真の存在感が増し、上遠野浩平作品で重要な人物になっていく背景は分かっても、すぐさま〈ブギーポップ〉シリーズ全体が変化する転換点にはなっていない。

 重ねられるエピソードは、どれもその時々にエピソードのひとつとして浮かび上がる泡のような存在だ。登場人物が重なったり、時系列が続いている他のエピソードと重なり合ったりして大きな泡を作ることもあれば、関わりを持たないまま小さくなってどこかに漂っていってしまうこともある。だから、すぐに続きが読みたいという気にはならない。危機に瀕したヒーローやヒロインがどんな逆転劇を見せるのか、世界はどうなってしまうのかといった興味から、新刊を待ち望むような熱い感情も起こらない。新刊が出れば、巨大な空間に漂う泡がひとつ増え、重なり合った部分を増やして空間を少しだけ埋める。それだけだ。

 2019年1月から、オリジナルの『ブギーポップは笑わない』や第2作『ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター』がアニメ化されて放送された。このアニメのプロデューサーを務める田中翔も、月刊ニュータイプ2019年1月号で「タイトルが示すように、本作の主人公はブギーポップです。しかし、主体的には物語を動かすキャラクターではありません」とコメントしている。「ブギーポップが宿る身体の持ち主・宮下藤花やその恋人の竹田啓司ほか、さまざまなキャラクターの行動の結果として“ブギーポップ”という“現象”が巻き起こる―。ある出来事は、一方の登場人物たちにとっては大事件だけれども、もう一方の登場人物たちにとっては些事として描かれる。そんなとらえどころのない物語り構造はまさに“ブギーポップ(不気味な泡)”で、それが本作の魅力のひとつです」。〈ブギーポップ〉シリーズの特質をしっかりと捉え、そこに新しさを感じたからこそのアニメ化だったと分かる。

 ブギーポップは唯一にして絶対の主人公ではない。だから〈ブギーポップ〉シリーズは、主人公がどこまでも強くなっていかざるを得ない多くの物語とは違って、どこかで限界が来て驚きが呆れに変わり、やがて飽きへと進んでいくようなことにはならない。2010年代的とでも言うのだろうが、見渡せば現在、異世界に転移・転生して誰もかなわないチートスキルなりを得て無双する“俺TUEEE!”の小説が、ライトノベルやエンターテインメントノベルの人気の中心になっている。そこを最先端とするなら、決定的なヒーローなりヒロインを置かず、主人公たちが常に変化していくような〈ブギーポップ〉のスタイルはやはり大きくズレている。だから、日付が変わった瞬間に売り出される喧噪に乗って激しく輝くことはないし、「このライトノベルがすごい!2019」に作品でもキャラクターでもランクインしない。

 その一方で、わずか数年を経て色あせ、古びてしまうこともない。チートスキルを限りなく高めていった挙げ句、インフレーションを起こした力によるバトルの応酬になってしまい、読者がついて行けずに離れてしまう場合がある。果てしなく続く戦いに古参が離れ、新参も入れないまま廃れてしまう場合もある。自分という主体を外部に向かって発信し、承認を求める求心的、SNS的なスタイルとも言えそうな物語に起こりがちな事態が、〈ブギーポップ〉のように中心がなく、分散型、あるいはウエブ型のシリーズには起こりにくい。普遍的で、誰もがその時々に考えている不安、あるいは疑問といったものをすくいとり、物語に乗せて上遠野浩平はこの宇宙に放流している。泡のように漂う物語の中から読者は、自分の今の関心に合った物語に触れて楽しみ、そして次の物語が流れてくるのを待つのだ。いつまでも。

 『ブギーポップは笑わない』が発表された一九九〇年代後半は、ちょうどインターネットの空間にウエブサイトのように上に形作られた時代だった。ネットサーフィンなどという言葉が使われ、ネットユーザーは様々なコミュニティを行き来しながら、それぞれの情報に触れ、あるいは自ら情報を発信しながらコミュニケーションをとっていった。それぞれがひとつの泡であり、それらが集まってネットという宇宙が形作られていった。ひとつひとつエピソードが上遠野浩平の生み出した物語世界の上に泡のように配置され、それらが繋がりあい、関係しながら点在している〈ブギーポップ〉シリーズを考えた時、今は懐かしい1990年代のインターネット黎明期のネット状況が姿が重なって見える。

 ネットといえば、2019年版のテレビアニメ『ブギーポップは笑わない』では、スマートフォンが登場する。オリジナルの『ブギーポップは笑わない』では、冒頭で竹田啓司がブギーポップを内在した宮下藤花に待ちぼうけを食らわされる場面で、携帯電話で連絡をとらず、メールも送らず、LINEのようなメッセージアプリも使っていない。それが新作アニメでは、スマホで何度も電話を掛け、メッセージも送っている。

 現代の人間にとって当たり前のコミュニケーション手段。そこですぐに返事を寄越さない藤花に啓司がキレて関係がこじれ、物語が終わってしまわないかと不安になったが、強く触れられないまま回避された。もしもスマホを現代の感覚で導入するなら、雑踏をふらふらと歩く男にブギーポップが駆け寄り、「君たちは、泣いている人を見ても何とも思わないのかね!」と周囲を叱責した場面で、周囲の誰もがカメラで撮影し、ネットにアップして拡散しただろう。都市伝説のはずのブギーポップが衆目にさらされ、痛いコスプレイヤーとして炎上するのがSNS全盛の現代というもの。そうした時代の描写が組み込まれていない小説に不思議を覚えないのは、ツールの進化によるコミュニケーションの変化があろうとなかろうと、〈ブギーポップ〉シリーズに描かれている本質に変わりはないからだ。

 アニメといえば、2000年1月から放送された『ブギーポップは笑わないBoogiepop Phantom』は、当時それほど高い評価を得ていなかった。原作と離れた物語や陰鬱なビジュアルに、これが〈ブギーポップ〉なのかと驚かれたようだった。自分も第1話の放送で反応したのは、主題歌に使われたスガシカオの「夕立ち」の格好良さで、翌日に楽曲が収録されたアルバム『Sweet』を買いに走った記録が日記にある。

 1998年に放送されたテレビアニメ『serial experiments lain』との類似性も感じたようだった。『lain』のオリジナルキャラクターデザインを手がけた安倍吉俊は、〈ブギーポップ〉シリーズのイラストを手がける緒方剛志とともに、肉感があって目の大きなキャラクターが全盛だった時代に、独特のスタイルを持ったキャラクターを描いて関心を呼んだ。そこからビジュアル面での関連性が浮かび、ダークな街並みの表現、断片的に進んでいくストーリー、ノイジーなサウンドも乗って、ブギーポップのアニメに『lain』を重ねて見せた。『lain』は現代、ネットが普及した社会のコミュニケーションの姿を予言したシリーズとして再評価されているが、『Boogiepop Phantom』はどういった評価を受けるのだろう。

 物語としては、刊行から2年が経ってライトノベルのバイブルとなっていた原作への信奉が、本編から一カ月が経って起こった出来事という原作にはない村井さだゆきシリーズ構成・脚本によるオリジナルの後日譚に、違和感を覚えさせた。以後、大きく顧みられることもなかった『Boogiepop Phantom』が、新作アニメの登場でネット配信され始めた。今、見返せばこれは完璧に〈ブギーポップ〉シリーズだったと感じてもらえるのではないだろうか。誰という主人公が存在しない中、さまざまな登場人物たちがそれぞれに抱えた問題に直面し、それぞれに決着をつけていく。そうやって積み重ねられたエピソードが全体で、エコーズとマンティコアの戦いがもたらした余波といういひとつの泡を作り上げ、〈ブギーポップ〉という宇宙の中に漂い始める。中心を持たないシリーズは、村井さだゆきが描いた世界もひとつの泡として取り込んでしまった。

 マンティコアこと百合原美奈子の顔を借りたブギーポップ・ファントムが、凄絶なまでの美貌を見せてくれていたことも再見してみて分かったが、それで2000年版のテレビアニメが爆発的なリバイバルブームを呼ぶとは思えない。2019年版のテレビアニメ化も〈ブギーポップ〉シリーズに初期のような激しい盛り上がりを呼んでいるようには見えない。だから、一気に消費された挙げ句に陳腐化することはなさそう。続編が次々に映像化されていく未来も見えないが、それでも、それゆえに、そうであるからこそ〈ブギーポップ〉シリーズは、これからの20年間も不変で、普遍な存在を保って存在し、紡がれ続けていくはずだ。

 泡のように。(タニグチリウイチ)

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