見出し画像

“茶道と禅” #4 織田信長と茶の湯

★いよいよ織豊 しょくほう時代へ
織豊時代に入りますと、とたんに茶の湯が政治的な意味合いを帯びてくることがうかがえます。
茶席は接待や密談、交渉に使われたり、茶道具はそれひとつでお城が建つと言われるほどの価値あるものに、また茶人も政界へ関係を広げていくこととなります。
また織田信長とともに日本史に登場する、現代茶の湯の祖である千利休が登場するわけです・・!

★力を持っていた堺の商人たち
室町時代では幕府お抱えの同朋衆や、禅僧が茶人となっていますが、室町時代末期には、堺の裕福な商人たちが数多くあらわれ、文化や教養も身に着けるようになっていました。また海外貿易港から多くの武具や武器も扱っていた商人たちは、戦国時代になくてはならない存在だったのです。
♯3にも記載した、武野紹鴎たけのじょうおうも堺の武具商人の生まれ、織田信長に仕えた茶頭、天下三宗匠と呼ばれる千利休せんのりきゅう津田宗及 つだそうぎゅう今井宗久いまいそうきゅうはみな堺商人です。

堺の町は、近畿の覇者となる細川家や三好家などとバランスを保ちながら、ひとつの勢力に肩入れすることなくうまく立ち回り、戦国動乱の時期には自治都市として独立した集団だったようです。(その統括をしていたグループを会合衆えごうしゅうという)

★織田信長と茶の湯
信長もまた、幼少期から、尾張国の外交官兼文化人であった父の重臣、平手政秀ひらてまさひでから茶の湯の文化を、沢彦宗恩たくげんそうおんから禅を学んでいたようです。

信長は、1566年足利義昭あしかがよしあきを15代将軍として奉じ京へ上洛。その後畿内を制圧しました。そして自治都市であった堺へ矢銭二万貫やせんにまんかん(今でいうウン億円)というとてつもない金額を軍用金として要求します。
商才のあった信長はこの独立都市を自身の直轄にすることに成功。

さらに強制買収でもある名物狩りめいぶつがりを行い、由緒正しい価値ある茶道具を次々に手中に収めていきました。またこの名物狩りは、戦士した武将が質入れした名物道具の不良債権買取りの意味合いもあった、という説もあります。
確かに、矢銭で大量に軍資金を支払わせた後に、名物道具を買いとる。戦国時代の経済政策ともとれますね。

名物狩りで手に入れた東山御物ひがしやまごもつのような足利将軍家由縁の名物を披露しつつ、自身の権威付けを目的とした茶会も多く開かれ、茶の湯を政治的に有効に使ったのです。
こうして手に入れた茶道具は、家臣に恩賞として与えられたり、功績を挙げた物に茶会の開催を許可したりといった御茶湯御政道おんちゃのゆごせいどうが政策として行われました。
そこで上記の三大宗匠が信長の茶会を執り行っていたということですね。

★堺の南宗寺なんしゅうじ ※重要文化財
戦国動乱の中で近畿の覇者となった三好長慶みよしながよし (1522-1564)が父の菩提を弔うために、大林宗套だいりんそうとうに開山を依頼し、1557年に建立したのが南宗寺です。
南宗寺には、三好一族の墓、三千家の墓、武野紹鴎の墓、津田家の墓などがあり、茶の湯文化とは切っても切れない禅宗寺院です。

参考資料:
茶の湯がわかる本 茶道文化検定公式テキスト三級
茶の湯をまなぶ本 茶道文化検定公式テキスト一級二級
一般財団法人今日庵茶道資料館
古典で旅する茶の湯800年史 竹本千鶴
利休と信長 茶の湯でつづる戦国期 生形貴重
日本史B 講義の実況中継②  石川晶康