「眠れぬ美女」(原作:川端康成『眠れる美女』)
「田中さ〜ん、目の下。クマ」
休憩室で会社員の女性が同僚に声を掛ける。
「辛気臭いわねぇ。ちゃんと化粧してるの?」
周りもくすくす笑う。田中と呼ばれた女性は
「すみません。メイク直して来ますね」
と立ち上がった。
後ろ姿が見えなくなると同僚の女性陣が一斉に口を開く。
「大変なのは分かるけど、あんな暗い顔されるとね〜」
「確か先月からよね、お姑さんと同居」
「あそこのご主人、ただでさえマザコンらしいわよ。近所に知り合いが居るの」
「同居ってなんで?お姑さんボケたの?」
「足を悪くしたんだって。それまでも家事手伝いで通ってたんだけど、ご主人が勝手に同居を進めて」
「うわー、同居ってよっぽどいい人じゃないと無理よねぇ」
「田中さんもカワイソ」
くすくすくす・・
可哀想の言葉が限りなく薄い。
田中詩織は職場のヒエラルキーの底辺に居た。
職場は通販の会社で、多くの女性社員は結婚後も働き続けている。
つまり兼業主婦が多い訳だが、家族構成や環境は様々で、皆が皆自分よりも大変な相手を見つけて安堵する有様。
そんな修羅場とも知らず半年前に入社して来たのが詩織だった。
詩織が餌食になった理由は幾つかある。
①年代が30代で、職場の中では若いこと。
②飛び抜けては居ないが、ちょっとした美人。
③おとなしく口ごたえをしない性格。
④周りに媚びるのが下手。
オバチャン達も賢いので極端なイジメをする訳では無い。
ただ言葉で、しかも陰で詩織を貶めて鬱憤を晴らす。
それが陰湿なコミュニケーションとなっていた。
「ただいま帰りました」
詩織は仕事から帰るとまず姑に挨拶に行く。姑は一日家にいても家事を何一つせずに部屋でテレビを見ている。
その顔色を窺ってから洗濯物を取り込み夕食を作り、夫が帰る前に姑へ食べさせる。終わって片付ける頃に夫が帰宅する。夫の着替えを手伝い夕食を準備する。姑と夫は食の好みが違うのでおかずを何種類も作る。一品料理では二人とも満足しない。箸一つ自分では運ばない夫の食事の面倒を見た後で姑の体を拭きに行く。本人が嫌がるので風呂は三日に一回。その介助も全て詩織がこなす。
全てのタスクを終えて何とか床に就こうとすると、夫が性の処理をせがんでくる。疲れているからと断ると不機嫌になる。なんとか宥めて寝ようとすると姑が呼び鈴を鳴らす。
こんな夜が続けば、目の下にクマも出来ようというもの。
ある日、休憩室でパンフレットを眺めている詩織にオバチャンが声を掛けた。
「え〜、介護用オムツぅ?お姑さん、もうそんなのが要るの?大変ねー」
「ええ、まぁ・・・」
「だったらさぁ、佐々木さんのご主人のとこで注文してよ。介護用品の会社だから」
「でも・・」
「何よう、そういうのも付き合いよ?佐々木さ〜ん、ホラホラ、ここにお客さんがいるわよぉ」
紹介された商品は詩織が検討していたものよりも割高だったが、そこで買うことを強引に決められた。
こんなことでもオバチャンは詩織を餌食にするのだった。
「ねーねー、そういや佐々木さん。田中さん、ちゃんとお宅に買いに来た?」
「来たみたいヨォ。旦那に聞いたもの」
「ご主人田中さんの顔知ってたの?」
「前に忘年会の帰りに、旦那に迎えに来させた時があったじゃない。その時挨拶して『ちょっと美人だったから覚えてた』だって」
「やだムカつく〜」
「ねぇねぇ、ところで同居ってお姑さんとお舅さんの両方みたいよ」
「ほんとー?」
「介護用オムツを男女両方買いだめしていったってさ」
「ヤァダァ、両方って。私ますます無理〜」
「子どももいないんだし、逃げればいいのに」
「そんな度胸ないんじゃない〜?」
ケラケラケラ・・・
詩織が珍しく有給を取って不在の日、休憩室では遠慮なく噂話が応酬されていた。まるで、それもお弁当のおかずの一部のように。
同じ日の夜。詩織は夕食を出した後で夫と話し合った。
自分一人で姑の世話と家の事をこなすのが無理なこと。
夫も手伝うか、一部は外注で業者に頼みたいこと。
どちらも却下された。
「業者?母さんは他人に触られるの嫌なんだよ。俺だって毎日仕事で疲れてるんだから、無理だって」
詩織は俯く。
ポツリと言った。
「そんな返事だと思ったわ・・・」
「なんだ。文句あるのか」
「ううん」
「だったら・・・あれ。目眩が・・」
「いいの。違う方法にするわ」
「なんだか・・気が遠く・・・」
夫は倒れた。
どれほど時間が経ったのか。
夫が意識を取り戻す。
(う、動けない・・・)
体が異常に重く、強張っていた。
部屋は薄暗い。ドアが開いて詩織が入って来た。声を出そうとしたが、口に猿轡が嵌っている。
「目が覚めたみたいね。いい?今から説明するわ。まずこれを見て」
枕元のライトが点けられた。自分はどうやら身動き出来ない状態で布団に寝ているようだ。目の前に詩織が数枚の写真を出す。
(???)
写っているのは夫自身の全裸。しかも有り得ないほど恥ずかしいポーズを取らされ、局部も丸出しのアラレもない姿。
「まず、私の言う事を聞かないとこの画像がご近所にも会社にもネットにもばら撒かれるわ。あとこっちも見て」
次に見せられた写真は文字通り目を背けたくなるものだったが、動けないので見るしかなかった。写っているのは自分と同じように、否それ以上に恥ずかしい格好をさせられた母親の姿。
「これも同様ね。私のお願いは簡単なことよ。会社から帰ってから翌日の朝に出勤するまで、家に居る間は今のような状態でいて欲しいの。簡単でしょう」
「う、うう」
夫は呻く。
詩織の声は穏やかだ。
「大して変わらないでしょう?あなた家にいる間は何もしないんだもの。ご飯食べてお風呂入って、それだけ」
詩織が夫の首に触れるとヒヤリとした。金属の首輪が嵌っている。重く動かない手を詩織が握り、夫の下腹部にあてる。
「これオムツ。あなたは夜だけね。お母さんは一日中してもらうけど。私はオムツ交換はしないから、お互いに交換して。ほら、横にお母様。やり方はお母様に習って」
隣でガチャリと音がした。
目を凝らすと下着姿にオムツを履かされた母親の姿。口には猿轡、首輪から鎖が延びて重りに繋がっている。その重りも床に接着してあるから動かせないと詩織が言った。
「はぁ。大変だったわ。準備に有給を使っちゃった」
よく見るとここは母親の部屋だ。
「ふぉ、ふぉまへ。あふぁまは、おはひぃ」
「頭がおかしいって言いたいのかしら。あのね、今から一番大事な事を言うわよ。私お金は欲しいから、昼間はちゃんと働いてね。勿論誰にも言っちゃダメ。GPSとボイスレコーダー、盗聴器もつけるわね。ねぇ・・考えてよ。お母さんと比べて、あなたの待遇はそう悪くないのよ・・?」
意味深な仕草で夫のオムツに触れる。
「言う事を聞くなら、私も時々はあなたにご奉仕するわ。ね・・私本当は、自分が優位に立ちたいってずっと思ってたの・・・意味分かる・・?」
優しく夫に囁く。
「ねぇ・・・あなたは、お家に帰れば赤ちゃんでいいのよ・・・私が何でもしてあげる・・体も拭いてあげる・・・ご飯はアーンしてあげる・・ね・・・あら、うふふ・・・分かったみたいね・・・本当はあなた、甘えん坊ちゃんですものね・・・?」
夫は抵抗を止めていた。
隣の母親は半狂乱で体を捩らせているが、二人は気にも留めない。
それから、詩織は姑の猿轡の隙間から強引に導眠剤を注ぎ込んだ。
夫には優しく子守唄を歌って寝かしつけた。
二人の入眠を見届けて部屋を出た。
別の部屋に入って灯りをつける。
綺麗な家具に高級ベッド。詩織の部屋には欲しかったものを全て揃えた。
「お風呂に入っている間に、アロマを焚いておこうかしら」
新しく買ったディフューザーにオイルを垂らす。
鼻歌が溢れる。
「今夜からよく眠れそう」
夢のような微笑が浮かぶ。
その顔は限りなく美しかった。
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