酔いの宵日記

 酔ったときはほとんど必ず、ペンと紙を持って書き物するが、ほとんど必ず後に読んでいいものはない。言葉遣いが簡単ではなく、ただ思うままに書き連ねて、ひたすらに言葉の羅列をしているだけである。読まれればわかるかとは思うがこれも、もちろん例外ではない。違うのはペンではなく、キーボードで打ち込み書いているということだけである。酔いたとき、それが誰かといて酔えば、終いまで誰かといたくなってしまう。それが例えば、嫌いな人間であってもである。むしろ仲の良い人などは余程でないと面倒臭がられる。一人で酔いたときにはそんなものはない。これなら酔いても酔わないでも同じである。一人でいられなくなるのは始末が悪い。ただ、ただ寂しいのである。何もかもが羨ましく見える。輝いて見える。自分のみが黒ずんで、どこかで錆びついて、何かの肥やしになるのではと感じてしまう。その逃し場所として僕は、書き物を選ぶのだと考える。どこにもそれが向かわず、ただ書き物をするだけでも幾分か楽にはなるものである。だが問題は書いた後であるからこれも始末が悪いのだ。生き先がないのだから、廃れるしかないが、その先もまた在らず。自分が見えているものは、これは、果たして本当なのか。自分を見せているものは、もしかしたらこれは嘘なのではないだろうか。生きていて嘘をつかないものは、それこそ信用を持てない。生きている中でどうしても人は汚れるもの。無垢であることなど、選べない。それだのに、どうしてこうも無垢なろうと思うのだろうか。とても烏滸がましいものである。
 僕の今日の穢れの仲の、落ちたその欠片のどれかは、いつか自身で選び身につけた記憶の隅のどれかの結果なのである。恥を知って生き、橋に寄って生きる。空(うろ)が眩しい。どうも眩しい。
 目の前に泳ぐふぐの、顔の近づけるの、食事だろうか。食事であろうな。オキアミ1匹差し上げるとそれはそうだ、食事であった。彼は目玉が好きで勢いを強めてそこに目掛けて発進する。おおよそ、一口分のその目玉は彼には丁度がいいのか、パクパクとおそれはもちろん一所懸命に美味しそうには食べるのだ。僕は彼に、生物として信じて疑わない1つの可能性と、そのために必死に生きようとするその努力が好きだ。尊敬もしている。自分が、種として存続するための可能性のひとつであることを一切疑わない。そうしてそれを死のその瞬間が来るまで、いや来ても、信じきっているだろう。食べて箱の中で寝て、それだけの生活なのに、どうもそれが楽しそうである。嬉しそうである。食べるものは日々同じもので、味だって変わらず、見た目だってほとんど変わらず。それでも一目散に水槽に入れればやってきて噛み付く。どうにも喜んでいるようにしか見えないその顔で。生きてもいれば、辛いことや、楽しくないこと、疲れたや、悩むこともあるだろうに、それがなさそうなのも悩みものである。お前は寂しくないか。悲しくないか。それ持ってないか。何はともあれ、生きるのは楽しいか。
 僕は生きるのは楽しいとは到底思えない。だから娯楽があるのだ。だから楽しく生きようと踠くのだ。それを見ぬふりのみして、「生きるのは楽しい」と言いふらしたり、「楽しく生きなくちゃ」というのは嫌いである。楽しむなら勝手にそうするがいい。だが、僕が嫌うのは、全ての瞬間にこそそれを求めることなのだ。そんなものは相対的にも絶対的にも楽しいわけがないのだ。人は残念ながら飽くる生き物だ。欲張りな生き物だ。欲しい欲しいと願っても色々と条件をつける。見た目の美しさ、性能の良さ、その他の見返り。欲しい欲しいと言うならば、得るものの形はどうなるかまで決めねばならん。あれこれ言うのは、他力本願。得る資格などないものである。そうなるのは面白くない。どうにも、面白い生き方をしたいものだ。孤独でもいい。自分のひとつ決めたことをやり遂げられる努力を持って、生きられるようにしていきたい。真の孤独を知るならば、それが襲い来ようとも、素直に受けよう。そう生きよう。わかった。僕は、ここに誓おう。欲しいと願わず。求めず。されど狙い、定めて高めるのを辞めず、それが死への近道だとしても。誰かが笑おうとしても。自らが苦しんだとしても。そうして、生きよう。

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