エッセイ|「ブルトンという場所」
ブルトン。そこは、あらゆる矛盾やルールが存在しない場所。
それがどこにあるか、そこに何があるか、そこがどういう見た目をしているか、どんな音が聞こえるか、地面はどんな踏み心地か、それらはすべて、そこに行ったものの意思に従う。
ルールがないので、あらゆる当たり前が通用しない。必ずしもものが重力に従うとは限らない。人以外の生物もいれば、生きていない物もある。あるものもあれば、ないという特徴を持って存在するものもある。もちろん、ないといってないものもある。それは必ずしも目に見えるとは限らない。音だけで存在するかもしれない。
さて、このような場所は果たして、「存在する」ということができるのだろうか?どうやって行けるかが明らかになっていないし、地図にはない。こんなのが、場所として存在すると言ってよいのだろうか?
ここで、逆を考えてみる。つまり、存在しないとはどういうことか?ということである。
何かが存在しないことは、証明され得るだろうか?
僕の結論では、何かが存在しないことを証明することはできない。存在しないものは、考えられることがそもそもないからである。「何か」として想像された時点で、それは存在している。
さて、話を戻そう。問題になっているのは、ブルトンが「場所として」存在するかという話である。存在するか否かは、以上の議論から答えが出たと思うが、場所として存在するかはまだ怪しい。
「場所」について考えるために、辞書の定義を確認する。
こんどは「ところ」という厄介な言葉がでてきた。今確認したいのは、「場所」というのが、見て触って認識することのできるものでないといけないのか、ということである。この答えが否なら、ブルトンが場所として存在している、という主張は反論され得ないということになる。上の辞書の定義を見る限り、そこに何かが存在していれば、ひとまずそこを場所と言っていいようである。つまり、何かを「含んで」さえいれば、目に見えようが見えまいが、どちらでもよいわけである。
ブルトンについて考えよう。ブルトンは、それが存在する時必ず何かを含んでいる。観察者はもちろん、彼が知覚する様々なものは、ブルトンに含まれている。よし、ブルトンは場所だ。
それがどこにあるかは、観察者によって決められる。
いつものドアのノブを引いたとき、そこに突然立ち現れるかもしれない。朝目覚めた時、すでにそこにいるかもしれない。じっくりと頭の中でブルトンをイメージすることによってたどり着けるかも知れない。
目の前に、あるいは遠いどこかに、そんな世界が内側からか外側からか立ち現れるのである。
AかBかというとどちらでもない、全ての想像が許容される、時間や空間にも左右されず、相反する二つの現象が同じ時に同じ所で起こる、そんな世界である。
そんな世界は、観察者が意識すれば、いつでもどこでも、すぐに現れてくれる。
それを開く鍵は、いつも心の中にある。
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