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【ショパン】並外れた才能がありながら虚弱な身体に悩まされた「悲劇の英雄」|#034

ショパンほど、ピアノという楽器と密接に結びついた作曲家はいない――。

もちろん、ショパンの親友でもあり、ロマン主義時代のもう一人の「ピアノの詩人」であるフランツ・リストや、ロマン派後期における「ピアノの詩人」ラフマニノフなど、ショパンのように「ピアノそのもの」と結びついている作曲家・演奏家は他にもいるのでしょう。

ただし、彼ほど「ピアノと一体化した存在」と形容される作曲家は他にいない、これは断言しても良いと思います。

彼はただ素晴らしいピアノ作品を作曲しただけでなく、彼の紡ぎ出したその音楽の数々は、彼の内面と切り離せないほど深く結びついている。その「病的」なまでの一体感は、どの書籍を読んでいても一様に書かれています。

すべての作品にピアノが用いられ、そしてショパン自身も最高のピアニストでした。彼の作品は大部分がピアノ独奏曲ですが、オーケストラ作品、なかでも特に、2つのピアノ競奏曲は秀逸と言われているようです。

室内楽、歌曲も書いており、ショパンの作品は通して、極めて詩的で、心からの感情にあふれており、しかしロマン主義にありがちな自己顕示とは無縁という。むしろそれどころか、洗練された感性や職人芸が感じられ、多くの作品の中に、ショパンの「潔癖な性格」が現れているとされています。


音楽の神童

――フレデリック・ショパン(1810-1849)

フレデリック・フランソワ・ショパンは、ワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラにその生を受けます。フランス出身の父ニコラは、地元の貴族の子供たちの家庭教師をしていました。フレデリックの誕生から6ヶ月後、父ニコラは、ワルシャワに新しく設立された中等教育学校でフランス語教師の職を得ます。このことがきっかけとなり、一家はワルシャワへ移住します。

当時、ポーランドの貴族階級ではフランス語が第一外国語として広く使われており、文化的にもフランスの影響が非常に強かったのです。こうした背景から、フランス語を教えるニコラの仕事は、貴族社会の中で重要な役割を果たしていました。

しかし、この時代のポーランドは独立国家ではありませんでした。前世紀に起こった数々の戦争、特にナポレオン戦争(1815年に終結)の影響を受け、ポーランドは事実上ロシア帝国の支配下に置かれていました。その結果、ポーランドの人々の間では、「失われた国家の自由を取り戻したい」という強い願いが高まっていたのです。このような歴史的背景は、後のショパンの音楽や精神にも大きな影響を与えることになります。

幼い頃のフレデリックは虚弱体質で、身長は並であるものの、身体つきはとても華奢で、その後一生、健康不安に悩まされることになります。その反面、この体質は彼の音楽における内省的で抒情的な表現に影響を与えたと考えられているようです。

フレデリックは幼い頃から音楽に関心を示し、愛情深い、強要のある家族によって才能を育まれたといいます。6歳で本格的なピアノのレッスンを開始し、7歳で最初期の作品を出版、8歳で演奏家としてデビューを果たす。すると、たちまち天才少年と評判になったのでした。


初期の成功

1826年から1829年にかけて、ショパンはワルシャワ音楽院でユゼフ・エルスナーのもと学びました。その卒業時の成績表には「音楽の天才」と記されるほど、その非凡な才能が認められていました。ショパンはすでに作曲家としてもピアニストとしても才能を発揮しており、若き日に書いた最も重要な作品のひとつが、彼の2つのピアノ協奏曲です。これらの協奏曲はどちらも20歳までに完成され、1830年の3月と10月にワルシャワ国立劇場でショパン自身の独奏によって初演されました。

この2つの協奏曲は大絶賛を受けましたが、当時のワルシャワは音楽文化においてヨーロッパの主要都市に比べて遅れた司法都市とされていました。そのため、ショパンは早くからポーランド国外での活躍を視野に入れていました。1828年にはベルリン、1829年にはウィーンを短期間訪れ、それぞれの都市でその才能を示しました。

1830年11月、ピアノ協奏曲の成功を経て、ショパンはウィーンでの長期滞在を目指して出発します。ウィーンは当時、ヨーロッパにおける音楽の中心地でした。しかし、ウィーン到着からわずか1週間後、ワルシャワでロシアに対する反乱(11月蜂起)が勃発したという知らせを受けます。この反乱の失敗はショパンに深い影響を与えました。両親は、流血の惨事に巻き込まれることを恐れ、彼に帰国を思いとどまるよう説得しました。

異国の地で孤独と郷愁に苛まれたショパンは、ウィーンではほとんど成果をあげることができませんでした。その結果、彼は新たな活動拠点を求め、パリへ向かう決意を固めます。そして1831年9月、ショパンはパリに到着しました。旅の途中、ワルシャワがロシア軍に制圧されたという報を聞き、さらに心を痛めました。この悲劇に触発されて作曲されたとされるのが、「革命のエチュード」(エチュード Op.10-12)です。この曲は、ショパンの作品の中でも最も激しい情熱が込められた一曲であり、わずか3分足らずの中に彼の怒りや悲しみがほとばしるように表現されているとされています。


パリでの生活

パリはその後のショパンの人生の本拠地となりました。彼は二度とポーランドの地を踏むことはありませんでしたが、その音楽は彼の内面に深く刻まれたポーランドの伝統や愛国心を反映しています。ショパンはポロネーズを20曲以上、マズルカを50曲以上作曲しました。ポロネーズはポーランド貴族の宮廷舞踊に基づき、気高さと威厳を感じさせる楽曲です。一方、マズルカはポーランドの農民の踊りを基にしており、素朴で温かみのある民族的なリズムが特徴です。

このほかにも、ノクターンやワルツ、即興曲、練習曲など、数多くの短い作品を残しています。これらの楽曲はどれも演奏時間は数分程度ながら、尽きることのない旋律美と自由な構造に満ちています。また、色彩感覚や質感、表情豊かなニュアンスに富み、ピアノ音楽の新たな地平を切り開くものでした。

ショパンの音楽と演奏スタイルは、コンサートホールよりも貴族や富裕層が集まるサロンに適していました。彼は主に貴族の家での演奏や裕福な弟子へのレッスンで生計を立てており、これは彼の性格にも合っていました。ショパンは完璧なマナーを備えた紳士であり、社交界で認められることに一定の野心を抱いていました。その収入は十分でしたが、社交界での贅沢な生活を維持するために多くを費やしていたのも事実です。

こうした生活の中で、ショパンは多くの魅力的な女性たちと出会いました。若い頃にはいくつもの淡い恋を経験しましたが、その中の一つは婚約破棄に終わります。その後、彼の人生で最も重要な恋愛相手となったのが小説家オーロール・デュパン、通称ジョルジュ・サンドでした。1836年に出会った時、サンドは既にその大胆で自由な生き方で名声を得ており、夫と離婚し、2人の子供を連れて自由奔放に生きていました。彼女は恋人を多く持ち、ハマキを吸うなど、当時の女性の枠を超えた生き方をしていました。

ショパンとサンドの関係は1838年に真剣なものとなり、同年の冬をマジョルカ島で共に過ごします。この滞在中にショパンは体調を崩し、彼の結核は一層悪化しました。それでも、彼はこの期間に傑作「24の前奏曲 Op.28」を完成させています。二人の関係は約10年続きましたが、1847年に険悪な形で終わりを迎えました。この頃、ショパンの健康状態はさらに悪化し、金銭的にも困難な状況に陥っていました。

1848年2月、フランスで国王ルイ・フィリップが退位し、革命の波が広がると、ショパンは混乱を避けてパリを離れます。4月から11月にかけて、イングランドとスコットランドを訪れました。ロンドン、マンチェスター、エディンバラ、グラスゴーなどで演奏会を行う一方、ロンドンやスコットランドでは貴族の家で演奏する機会が多くありました。ロンドンではビクトリア女王の御前で演奏する栄誉に浴し、スコットランドでは弟子ジェーン・スターリングの親族が所有する田舎の家で演奏を続けました。

しかし、この頃にはショパンの体調は非常に悪化しており、ほとんど歩行が困難な状態でした。階段を登ることもできず、使用人に運ばれる日々でしたが、それでもピアノに向かうと魔法のような演奏を披露し、人々を魅了し続けたとも言われているようです。


最後の期間

ショパンの葬儀は、1849年10月30日にパリのマドレーヌ寺院で執り行われました。正面は黒いビロードの幕で覆われ、荘厳な雰囲気の中で儀式が進められました。この葬儀には約3000人もの参列者が集まり、ショパンの死を悼みました。彼の希望により、モーツァルトの「レクイエム」が演奏されましたが、マドレーヌ寺院では女性の声が禁止されていたため、少年合唱団が歌ったとされています。

葬儀が終わると、ショパンの遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。この墓地は多くの著名人が眠る場所で、ショパンの墓は現在も多くの人々が訪れる巡礼地となっています。

ショパンの遺言により、彼の心臓は遺体から取り出され、祖国ポーランドへ運ばれました。この心臓は彼の妹ルドヴィカによってアルコールで保存され、ワルシャワの聖十字架教会に安置されました。現在も教会の記念碑の下に置かれており、「ここにショパンの心臓が眠る」という碑文が刻まれています。この記念碑は、ショパンが祖国ポーランドへの愛を最後まで貫いたことを象徴しています。

ショパンの葬儀とその後の心臓の移送は、彼の音楽的遺産と愛国心を後世に伝える象徴的な出来事となりました。ペール・ラシェーズ墓地と聖十字架教会は、彼の精神と音楽が今も生き続けていることを実感できる場所です。


 ジェーン・スターリング

スコットランドの地主階級出身であり、ショパンの弟子でありながら、献身的な支援者として重要な役割を果たしました。スターリングはショパンに深い愛情を抱いていましたが、彼女の思いは報われませんでした。ショパンが書き残した「棺の方に近づいている」という言葉から、彼がスターリングの好意に応える余裕がなかったことがうかがえます。ショパンの葬儀費用を負担し、遺品の大部分を買い取ったことで、彼の遺産の保存と後世への伝達に大いに貢献しました。スターリングの行動は、ショパンの音楽が歴史的に残るための基盤を築いたと言えるでしょう。


ジョルジュ・サンド

ショパンの恋人、看護師、インスピレーションの源泉サンドは、ショパンの創作活動に大きな影響を与えた人物であり、彼の人生における最も情熱的な関係の一つでした。

彼女の自由な生き方と独立した精神は、ショパンの内向的な性格とは対照的でしたが、その相違が二人の関係に創造的な緊張感を与えました。

サンドの看護のおかげで、ショパンは病弱な体を抱えながらも創作活動を続けることができました。

破局とその影響1848年に関係が破局した後、ショパンは精神的にも肉体的にも衰弱し、以降の生活に深い影響を与えました。


11月蜂起とショパンの愛国心

1830年から1831年の11月蜂起。ポーランドがロシアの支配に対して行った反乱は、ショパンの人生と音楽に深く影響を与えました。反乱が失敗し、ポーランドが制圧されたことで、ショパンは祖国に戻ることができなくなりました。この喪失感と愛国心は、「革命のエチュード」(エチュード Op.10-12)をはじめとする彼の音楽に反映されています。ポロネーズやマズルカといった民族舞曲の形式を用いることで、ショパンは祖国への深い思いを音楽として表現しました。これにより、彼の作品はポーランド人だけでなく、世界中の人々に感動を与えています。


Meisterdrucke より


ChatGPTに訊きました

ショパンの作品数は非常に特定しやすい特徴があります。彼は作品番号(Opus番号)をつけて出版された作品が多いため、公式に出版された楽曲を数えると、69作品(Opus番号1〜65 + 4つの遺作付き) となります。

しかし、ショパンの遺作や番号が振られていない作品(WoO = Werk ohne Opuszahl, Opus番号なしの作品)も含めると多くの楽曲が存在します。

1.公式作品(Opus付き)は、69曲です。
ピアノ独奏曲が大半を占めるが、ピアノ協奏曲や歌曲も含まれます。
主なジャンル:ワルツ、ポロネーズ、マズルカ、ノクターン、スケルツォ、エチュードなど。

2.遺作(ポストヒューマス作品)
遺作としてまとめられた作品には、Opus番号が与えられていないものも多い。
例:ピアノ曲《華麗なるワルツ》(遺作番号71-1〜3)、歌曲集《17のポーランドの歌》など。
遺作の総数は約20〜30曲。

3.未完成や未出版の作品
一部のスケッチや演奏会用に即興的に作曲されたものが残されています。
これらはショパン自身が公開や出版を意図していなかったため、公式なリストには含まれません。

4.全体の概算
合計すると、200曲前後が彼の手による楽曲として記録されています。

特記事項
ショパンの作品はほぼすべてがピアノのために書かれており、他の楽器や編成が登場するのは例外的です(ピアノ協奏曲やチェロのためのソナタなど)。

ショパンが作品の数よりも質に重点を置き、作品を非常に慎重に仕上げたことを考慮すると、この数はむしろ彼の職人的姿勢を反映していると言えます。

ショパンの作品の中で特に有名な曲は、ピアノ音楽の魅力を凝縮した傑作が多く、世界中で愛されています。以下はその代表的な作品です。

1.ノクターン
「ノクターン第2番 変ホ長調 Op.9-2」
最も有名なノクターン。甘美でロマンチックな旋律が特徴。ショパンの詩的な側面を象徴する楽曲。

2.エチュード
「革命のエチュード」(エチュード Op.10-12)ポーランドの11月蜂起に影響を受けたとされる、激しい情熱と悲劇性を持つ作品。高い技術を要求するショパンのエチュードの中でも特に人気。
「黒鍵のエチュード」(エチュード Op.10-5)
軽快なタッチと華やかな音の流れが特徴。

3. バラード
「バラード第1番 ト短調 Op.23」
ドラマティックな展開と感情の起伏が豊かで、ピアニストにとって挑戦的な曲。ロマン主義音楽の傑作とされる。

4.ワルツ
「小犬のワルツ」(ワルツ Op.64-1)
愛犬が尻尾を追いかけている様子をイメージした軽やかな楽曲。子供から大人まで楽しめる親しみやすさ。
「華麗なる大円舞曲」(ワルツ Op.18)華やかで優雅な曲調が特徴。ショパンの社交的な側面を反映。

5.ポロネーズ
「英雄ポロネーズ」(ポロネーズ Op.53)
壮大で誇り高い旋律が特徴。祖国ポーランドへの愛と誇りを表現。ショパンの「ピアノの詩人」としての力強い一面が光る。

6.前奏曲
「雨だれの前奏曲」(前奏曲 Op.28-15)静かで内向的な雨音のような反復リズムが特徴。ショパンの詩的な感性が如実に現れた作品。

7.スケルツォ
「スケルツォ第2番 変ロ短調 Op.31」技巧的でありながら、叙情的な中間部が印象的。

8. 協奏曲
「ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.11」若き日のショパンの情熱と天才性を示す大規模な作品。

9. ソナタ
「ピアノソナタ第2番 変ロ短調 Op.35」(葬送行進曲付き)第3楽章「葬送行進曲」が特に有名で、多くの葬儀で演奏される。

結論
ショパンの作品は、技巧的でありながら感情に溢れ、幅広いリスナーに愛されています。特にノクターンやエチュードは、ショパンを象徴する作品群として多くのピアニストが演奏を続けています。


今、僕が最も聴いてみたい曲


様々な美しき演奏たち

シモン・バレレ(1896年8月20日 - 1951年4月2日)ロシア生まれのユダヤ系アメリカ人ピアニスト。

11歳にして驚異的な才能の持ち主だった彼は、オデッサ帝国音楽アカデミーに入学、その後に自力でサンクトペテルブルクに行き、音楽院で作曲家で音楽院長(1905年から1912年または1917年まで)のアレクサンドル・グラズノフと、ピアノスタッフの2人の素晴らしいメンバー、アネット・エシポフとイザベラ・ヴェンゲロワのために演奏した。全員がこの若者の才能に驚嘆した。グラズノフはバレレを保護し、正式な入学試験は免除した。

フェリックス・ブルーメンフェルト(1863-1931)が彼の教師となり、同じ趣味を持つことができた。ブルーメンフェルトは、バレレに強さ、正確さ、技巧性を保つことだけでなく、洗練された感情を怠らず、演奏において弱さを見せることも教えた。

この頃の音楽院のもう一人の生徒はウラディミール・ソフロニツキーで、バレレは彼と2台ピアノのリサイタルを共演した。

22:44 - ショパン: ワルツ 変イ長調 Op. 42
25:53 - ショパン: エチュード 嬰ハ短調 Op. 10 No. 4
27:51 - ショパン: エチュード 変ホ長調 Op. 10 No. 5
29:39 - ショパン: エチュード ヘ長調 Op. 10 No. 8


ベンノ・モイセイヴィッチ

14:08​ - 即興曲 第2番 嬰ヘ長調 : Impromptu in F sharp major Op. 36
18:44​ - 舟歌 嬰ヘ長調 : Barcarolle Op. 60
26:55​ - 「私の喜び」(ショパン=リスト編曲): "My Joys"


モーリッツ・ローゼンタールモーリツ・ローゼンタール1862年12月18日-1946年9月3日)はポーランド出身のアメリカ合衆国のピアニスト。

07:11 - ショパン:子守歌 変ニ長調 Op. 57
11:17 - ショパン:エチュード 変ホ長調 Op. 10 No. 5
12:57 - ショパン:マズルカ 変ホ長調 Op. 24 No. 3
14:33 - ショパン:マズルカ 変ホ長調 Op. 50 No. 2
17:59 - ショパン:前奏曲 ト長調 Op. 28 No. 3
18:54 - ショパン:前奏曲 変ホ長調 Op. 28 No. 19
20:18 - ショパン:ノクターン 変ニ長調 Op. 27 No. 2
25:19 - ショパン=リスト:「乙女の願い」(ロゼンタール編)
30:04 - ショパン=リスト:「私の喜び」


アルフレッド・コルトー
09:39 - ショパン:ノクターン 変シャープ長調 Op. 15 No. 2
13:03 - ショパン:バラード第1番 ロ短調 Op. 23


ヴラディーミル・ソフロニツキー

00:00 - 夜想曲 ト長調 : Nocturne in G major Op. 37 No. 2
05:37​ - バラード第3番 変イ長調 : Ballade No. 3 in A flat majot Op. 47
12:02​ - ワルツ第6番(小犬のワルツ)変ニ長調 : Waltz in D flat Op. 64 No. 1
13:44​ - 練習曲 嬰ハ短調 : Etude in C sharp minor Op. 10 No. 4
15:53​ - 練習曲 変ト長調 (黒鍵のエチュード): Etude in G flat major Op. 10 No. 5
17:38​ - 練習曲 ヘ長調 : Etude in F major Op. 25 No. 3
19:24​ - ポロネーズ第1番 嬰ハ短調 : Polonaise in C sharp minor Op. 26 No. 1



島谷美賀子 Shimatani Mikako (vl)
⑨別れの曲(ショパン)
Etude Op.10 No.3 (Chopin) 30:28​


ギオマール・ノヴァーエス(1895年2月28日 - 1979年3月7日) ブラジル出身のピアニスト。

アントニエッタ・ラッジ・ミエラーとルイージ・キファレッリに学んだ後、1909年にパリ・コンセルヴァトワールにおいてイシドール・フィリップに師事。

同年パリ音楽院の外国人枠が2名しか空きがないところに、志願者が387人も殺到した中での快挙であった。

ノヴァエスは、モーリッツ・モシュコフスキーやガブリエル・フォーレ、クロード・ドビュッシーらという錚々たる顔触れの試験官の見守る中で、リストの『パガニーニ練習曲』やショパンの『バラード第3番』、シューマンの『カルナヴァル』を演奏し、首位で合格した。

その後ドビュッシーは私信において、小さいブラジル人の少女が壇上に現れ、聴衆や審査員のことを放念し、すっかり無我夢中でこの上なく美しい演奏を行なったことについて感嘆の念を洩らしている。

最も精力的に録音したのは1950年代にヴォックスレーベルに在籍した時期である。この時期には、ショパンの『ピアノ協奏曲第1番』や『第2番ソナタ「葬送」』『第3番ソナタ』などの大作ばかりでなく、エチュードや即興曲、ノクターン、子守唄といった小曲も録音している。さらにグリーグのコンチェルトを始め、その他得意の数々のピアノ・コンチェルトも集約的に録音した。晩年の1960年代 後半には、ベートーヴェンのソナタやショパンの小品をヴァンガード・クラシックス・レーベルにStereoで録音した。

19:05 - バラード第3番 変イ長調 Ballade No. 3 in A Flat Major, Op. 47



ヨウラ・ギュラー(1895年5月14日-1980年12月31日)フランスの女性ピアニスト。

マルセイユでロシア系ルーマニア人の家系に生まれる。5歳からピアノを始める。9歳でパリ国立高等音楽・舞踊学校へ入学し、イシドール・フィリップ(お!またしてもイシドールだ!)に師事。1930年代には8年間中国に滞在して演奏活動を行った。第2次世界大戦中はユダヤ人として演奏を制限された。1971年ニューヨークデビュー。

あの、マルタ・アルゲリッチが敬愛するカリスマ・ピアニスト

はい、もう、好き。

10:30 - 練習曲 ヘ短調 Chopin: Etude in F minor Op. 25 No. 2
12:36 - マズルカ 変ロ短調 Chopin: Mazurka in B flat minor Op. 24 No. 4
17:00 - 夜想曲 変ニ長調 Chopin: Nocturne in D flat Op. 27 No. 2
22:50 - マズルカ 変ニ長調Chopin: Mazurka in D flat Op. 30 No. 3
25:45 - マズルカ 変ニ長調 Chopin: Nocturne in B Op. 32 no. 1
31:01 - マズルカ ハ長調 Chopin: Mazurka in C Op. 56 No. 2
32:41 - 夜想曲 ハ短調 Chopin: Nocturne in C minor Op. 48 No. 1
38:30 - マズルカ 嬰ハ短調 Chopin: Mazurka in C sharp minor Op. 50 No. 3


マズルカ
『Mazurka in B minor Op. 33 No. 4』
『Mazurka in A minor Op. 17 No. 4』


『2nd Piano Concerto in F minor Op.21』
クララ・ハスキル
ライヴ・パフォーマンス(1960)
指揮:ラファエル・クーベリック(指揮)
演奏:パリ音楽院管弦楽団


新曲『ワルツ』
ラン・ラン

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