執着について
好きな人がたくさんいる。そして、その好きな人たちと、時が経つにつれて少しずつ疎遠になっていくことがとても悲しい。仕方のないことだとわかっていても、切ない。
物理的に距離が離れてしまうと、自然と疎遠になっていく。かつて職場でお世話になりまくっていた、自分にとって神にも等しい人と、一年ぶりに食事をした時に強く思った。あぁ、もうこの人と私は、進む道も、見つめる未来も違うのだと。この人の役に立ちたいと今でも強く思っているけれど、おそらくそれはもうこの先、私が願った形で叶うことはないのだと。
私はこの人の、「使える」部下でありたかった。でもそれはもう叶わない。この人の役に立つために会社に残りたいと思ったけれど、私はもうあの会社にいないし、きっと戻ることもない。合わないと気が付いてしまったし、戻りたい理由を問われると、「この人の部下になりたいから」以外に回答ができない。そんな気持ちで会社に戻りたくはない。
この人に誇れるだけの「何か」になれるだろうか。自分が何になりたいかもまだよくわかっていないのに。この人が貫いただけの「何か」に、自分もなれるだろうか。「まだ若いのだから、何でもできる」と仰ってくださったけれども、私はそこまでもう若くはない。いつまでも若者の気持ちではいられない、というかいてはいけない。私は、もう、三十路に肩までつかっている。
でも本当は心の底でわかっている。私は前に進んだくせに、「過去」に執着しているのだと。自分ができなかった、「あるはずのなかった」未来に執着してるだけなのだと。叶わなかった夢に、ずっとしがみついて、すでに巣立ってしまった場所に、もう居場所なんてないと気が付いていても、しがみついているだけなのだと。本当はわかっている。
あるいは、この執着が私の良さでもあり、悪さでもあるのかもしれない。縁切りされたかつての友人に言われた、「執着心が人一倍ある」という言葉は、今でも心に刺さっている。執着心のある人間は迷惑で、みじめでしかないと思う。それでも、私は結局、捨てたり、前に進むために肥やしにしたりすることが、できないでいる。私はきっとこれからもこの人のことが心底好きで、とても尊敬してやまなくて、折に触れて連絡を取り続けてしまうだろう。自分のために、自分だけのために。
うれしくはなくとも、迷惑ではない存在であってほしい、と願う。忘れないでいてほしい、とも思う。たまには思い出してほしい。そして、いつか私が何かの役に立てたらうれしい。
自分が何のためにロシアに行くのか、ロシアに行った先に何があるのか、自分の意志を貫く何か、このソ連への執心が、いったいどこにつながるのか、私はまだわからないし、言語にもできていない。そんな状態に不安を感じながら、ただもう戻れない過去に、不格好な形でまだしがみついている。