「モヤる」言葉と社会の価値観:私たちの言語が映すもの

こんにちは。奥侑樹です。

今日は言葉に関して書きたいと思います。どんな言葉かというと、私が「モヤる」言葉です。私は言葉に対しては、かなり保守的な人間です。モヤるという言葉自体にモヤりますし、そもそも今初めて使いました。モヤるという言葉を発音したことはありません。

言葉は日々流転するものと考えています。また文法に対する態度もプレスクリプティヴ(守るべき規範がまずあるという態度)よりもディスクリティプティヴ(実際の言語使用を記述し、体系化するのが文法だという態度)であると自認しています。モヤるなどの新しい言語使用に関しても、言語教育の末席を汚す人間として興味深く観察をしています。しかし実際における自身の言語使用においては、かなり保守的です。スノッブと言ってよいかもしれません。

descriptive grammar(記述文法)とprescriptive grammar(規範文法)は、言語の文法を扱う2つの異なるアプローチです。

記述文法(Descriptive Grammar)
記述文法は、言語がどのように実際に使用されているかを客観的に観察し、分析する方法です。以下の特徴があります:実際の言語使用を観察し、記録します。言語の自然な変化や多様性を認めます。「正しい」「間違い」という判断をせず、中立的な立場を取ります。言語学者や研究者が主に使用します。

規範文法(Prescriptive Grammar)
規範文法は、言語がどのように使用されるべきかを規定する方法です。主な特徴は以下の通りです:「正しい」言語使用のルールを定めます。標準的な言語形式を重視します。言語の「正しさ」について判断を下します。教育現場や編集、標準化されたテストなどで使用されます。

Answer from Perplexity

近年、印象に残っているのは「ワンチャン」という言葉です(これも自分で使ったことはありません)。10年弱前から使われるようになり、巷間に流布し、現在では日常的な語いとして多くの人に使われているように思います。意味は下記の通りです。

「ワンチャン」は、「可能性がある」や「もしかしたら」という意味で使われる若者言葉です3。この言葉は「ワンチャンス(one chance)」の略語で、元々は麻雀用語でしたが、現在では日常会話でも広く使用されています13

「ワンチャン」は使用状況や相手によって解釈が異なる可能性があるため、使用する際は注意が必要です。

Answer from Perplexity

上記のPerplexityによる回答では麻雀用語ということですが、この言葉を巷間に流布したのは、下記の遊戯王カードではないかと個人的には考えています。

この言葉が私の印象に残っているのは、市民権を得たなと確信した瞬間を克明に覚えているからです。もう8年ほど前のことになりますが、当時勤務していた高校で、校長が「ワンチャン」と口にしたのが、その瞬間です。非常に理知的で、私も尊敬する方でした。ワンチャンに限らず、およそ若者スラングなど使いそうにない方でした。この出来事が強烈に印象に残っています。

このように、およそ口にしないような人の口の端にのぼることで、言葉は市民権を獲得するのだなと思いました。

「子どもに〇〇させる」社会から「子どもが〇〇する」社会へ

余談が長くなりましたが、今回ふれたいのはこれとは別種の「モヤる」言葉です。一つ目は「させる」という言葉です。

子どもが小学生になると、周囲に習い事をする子も増えてきました。実際に、我が子も野球を始めました。同僚や子どもの同級生の保護者など周囲の人と習い事が話題となることが多くあります。その中で、気付いた(というよりも引っかかった)のが、「子どもにXXをさせている」という言い方をする人がかなり多くいるということです(XXには野球、サッカー、テニス、ピアノなど任意の習い事が入ります)。私もたまにしていると思います。

させているのは、私(つまり親)です。おそらく最初は何も思わずに聞き流していたのですが、ある日、子どもは大人にさせられているんだということに気が付きました。下記に抽出したように、子ども権利条約においては子どもの主体性の尊重が謳われています。

子どもの権利条約では、子どもの主体性尊重に関して、特に以下の箇所で言及されています:
第12条:子どもの意見の尊重
この条項は、子どもが自分に関係のある事柄について自由に意見を表明する権利を規定しています。また、おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮することが求められています12

条約の4つの基本原則
条約全体を通じて、子どもの主体性を尊重する考え方が反映されていますが、特に4つの基本原則の中で強調されています:差別の禁止、子どもの最善の利益、生命、生存及び発達に対する権利、子どもの意見の尊重12

前文
条約の前文では、子どもを権利の主体として捉える考え方が示されています。これは、子どもを単に「弱くておとなから守られる存在」としてではなく、「ひとりの人間として人権(権利)をもっている」存在として認識する重要な転換点となっています1

第42条
この条項では、締約国が条約の原則と規定を広く知らせる義務を定めており、間接的に子どもの主体性の尊重を促進しています4

Answer from Perplexity

子どもの権利条約を日本が批准したのは1994年です。30年前です。学習指導要領において生きる力がの涵養が目指されるようになって久しいです。最近では、「こどもまんなか」になっています。しかし、子どもたちはスポーツや芸術を主体的に行うのではなく、「させられている」(少なくとも大人の認知の中では)。いつになったら子どもたちは、自分の主体性を持つことができるのでしょうか。では、他にどのような言い方ができるでしょうか。子どもを主語すれば「子どもがXXしている」となります。この表現においては、子どもが主語であり、主体であり、行為者です。「子どもにXXをさせている」に隠れていた「私(大人・親)」は存在すらしていません。英語においてもHe/She plays football.と言うはずです。I make/let him/her play football.とは決して言いません。私たちが目指すのは、どちらの社会なのでしょうか。


これは単なる表現、言い方の問題であって、言葉尻をあげつらって批判するのは無意味であるし、了見が狭いと言われるかもしれません。しかし、こうした日常的な、何気ない言語表現の中にこそ、その言語を用いる社会の持つ宿痾が立ち現れると確信します。フロイトは言い間違いにこそ本音が表れると言いました。言語は思考を既定します。その言語が用いられる社会の中で、マジョリティを占める価値観や思考、文化が言語を通して表出します。したがって、私たちが何気なく用いる言語表現は私たちに根付く価値観や思考、文化を表すものと言ってよいと思います。考えることなしに口をついて出る言葉だからこそ、言語の中にビルドインされている因習や思想を垣間見ることができると私は考えます。こうしたことを勘案すると、「子どもにXXをさせている」という言語表現には、私たちの持つ子どもは親の所有物であるという家父長制的な思想が露呈しています。日本語の言語表現として、この表現形式が「言いやすい」ということは私たちの生きる社会に家父長制が根付いているということの証左です。

この言葉を発した人間が家父長制的な人間であるということではありません(そうかもしれませんが)。家父長制的な思想をもっていないとしても、この言い方が「言いやすい」ということはありえます。他の言い方をする際に、非常に意識的にならなければならないということがあります。例えば、「嫁」や「主人」という言葉がそうです。家父長制を代弁する呼称であり、フェミニズムから批判され、他の呼称が提案されている言葉です。しかし、「妻さん」、「夫さん」といった呼称はなかなか人口に膾炙しません(私も試みようとしますが、なかなか難しい。特に口頭では)。このように、話者の思想信条を別にして、言語の要請する言語形式というものが存在します。そしてそれらの言語形式は、その言語が用いられる社会が要請するものであるともいえます。言語の要請に抗うことは時に難しくあります。少なくとも自然ではありません。つまり何気ない自然な言語表現というのは、その言語の要請に従っているということです。

繰り返しになりますが、「子どもにXXをさせている」が自然に口をついて出てくる「言いやすい」言葉であるということは、日本語を操る私たちが住む社会は、子どもが親にさせられている社会であるということです。おそらく多くの人は、「子どもにXXをさせている」社会よりも「子どもがXXしている」社会の方を肯定するのではないかと思います。一見すると、単なる言葉尻でしかありませんが、「子どもがXXしている」と言い続けることが重要です。幸い、「子どもがXXしている」と言うことは、「妻さん」、「夫さん」ほどの言語形式的な抵抗感を感じません(こちらも大切なのですが)。それほど難しくありません。「子どもがXXしている」と言う人が増え、それが当たり前になれば、子どもが目的語ではなく主語となる社会を実現できるのではないでしょうか。

「おかあさん・おとうさん」と呼ぶ違和感と言葉の暴力

もう一つ「モヤる」言葉は「おかあさん・おとうさん」という呼称です。私が問題にしているのは、自身の父や母に対する呼称のことではありません。地上波テレビ番組などで見られる、ある一定以上の年齢の方に対する呼称です。以前であれば、おじさん・おばさん(これも「おばさん・おじさん」とは言いづらい)と呼称していたと思いますが、いつ頃からか中高年の方に対して、「おかあさん・おとうさん」と呼びかけるようになっていました。おそらくおじさん・おばさん(特におばさん)という呼称が失礼にであるという配慮から生み出された(多分最初に言い出したのは出川哲朗氏)風習だと思います(すでに「風習」と化していると言ってよいとでしょう)。

私は、この風習は暴力的であるためなくなってほしい、なくしたいと強く考えています。中高年層の方に対して、一律に「おかあさん・おとうさん」と呼びかけるということは、ある一定以上の年齢に達した人間はすべからく結婚していて、出産していて、子どもがいる、つまり誰かの「おかあさん・おとうさん」であることを含意します。結婚をするかどうか、子どもがいるかどうかは個人の選択やめぐり合わせです。そして、そういう選択をしない、できない人が多くいるのが現代社会です。単身世帯が約40%を占め、未婚率は男性で約28%、女性で14%、合計特殊出生率は1.20です。こうした状況の中で、ある一定の年齢に達していそう(見た目が)という憶断で「おかあさん・おとうさん」と呼びかけるのは、暴力的であり、かつ自らの思考コストを下げるために個人を類型化してラベリングするという現代の宿痾をはしなくも露呈してしまっています。

ホモ・サピエンスはラベリングをすることで思考コストを下げます。いちいちたくさんのことを考えることは困難です。男の子は〜、女の子は〜、若者は〜、高齢者は〜、XX人は〜などラベリングは多種多様にあります。昨今よく言われる「大きい主語」です。こうしたラベリングは十分な数の母集団によるデータを平準化すれば、有用です(「おかあさん・おとうさん」はデータにすれ矛盾しますが)。しかし、眼の前に現前する個体においては平準化し、抽出された特徴よりも個体差の方が優位となります。私たちは兎角ラベリングし、思考コストを下げようとしますが、個体(個人)と対峙する場合にはそれを抑制しなければなりません。データとはつまり傾向です。集団に対しては有効ですが、個体に対しては必ずしもそうではありません。私たちはコストをかけて個体(個人)と向き合わなければなりません。

「おかあさん・おとうさん」はもはや風習であると前述しました。数年前、年若い同僚が居酒屋で女性スタッフに対して「おかあさん」と呼びかけているのに驚いたからです。テレビの中のフィクションだと思っていた現象が目の前に現れ、驚きました。マスメディアの伝播する力の強さに思い至りました。昨今、マスメディアの凋落や腐敗が叫ばれ、社会問題として前景化していますが、マスメディアの持つ力はまだまだ強いと感じます。私は地上波テレビはほとんど見ません(見るに耐えないものが多いと思っています)。しかしドラマやドキュメンタリーなどで面白いものはあると思っています。最近では「御上先生」を面白く見ています。「エルピス」や「MER」も好きでした。新聞もたまに目を通す程度ですが、重要なメディアであると思っています。

「おかあさん・おとうさん」が実際に暴力的な表現となりうるかどうかは、ケースバイケースだと思います。しかし、社会状況を鑑みれば、忌避すべき風習であると思います。また、自らの思考コストを下げるために他者に対して暴力的な憶断を振るうということは厳に慎まねばなりません。マスメディア(というかテレビ)は、自らが行っているのがこうした振る舞いであることを自覚するべきです。

マスメディアの罪は重い。


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