09:熟年離婚フラグ[A面](桜鱒の章)
弘子(ひろこ)は近頃、スマートフォンをいじることが増えた。嫁にいった娘の香奈(かな)が買ってくれたスマートフォンだ。老眼用に画面の文字が大きくなる携帯電話を勧められたが、よくテレビのCMで見る最新型のものを選んだ。まだまだ老け込みたくない。
だが最近、嫌でも老いを感じざるを得ない原因が毎日毎日家の中でゴロゴロと過ごすようになった。弘子がスマートフォンをいじる頻度はどんどん高まる。
夫が定年退職を迎えたのだ。
「母さん、愚痴りたくなったらいつでもメールちょうだい。ストレスは溜めておくと身体に毒でしょ。母さん、あんまりお友達とも出かけないし、愚痴を言う相手もいないだろうから」
娘は嫁にいっても娘だ。香奈は昔から優しい。特に姪が癌で亡くなってからというもの、家族の体調に気を遣ってくれる。
(でも、気をつけてもこればっかりは……)
と、弘子は思った。香奈の言うように「お友達とでかけない」のではなく、「出かけられない」のだ。
お芝居を観に行こう、お昼ご飯を食べましょうと誘われて、出かけようとすると「わしはどうするんだ! 何を食べればいいんだ!」と怒鳴り、「女はいつでも遊んでばっかりだ! だから日本はダメになったのだ! どんな思いで男がこの国を建て直したと思ってるんだ!」と大きな話になってしまう。
あんたがこの国を建て直したんじゃないだろう。偉そうに何言ってるんだか……。
昼食ぐらい自分で作ればいいではないか。作れなかったら買えばいい。そんなことも他人がお膳立てしないとできないくせに、よく会社では部長までいったものだ。
「社会のシステムに乗っかってさえいれば何とかなる時代だったんだよ。毎日、決まった時間に会社に行って、競争というシステムに乗って『働いてさえいれば』よかった。家庭は顧みず、女房に全部押しつけて済んでる時代なんてとっくに終わってるんだよ。親父は何も分かっちゃいないんだ」
反面教師で見事なイクメンぶりを発揮している長男は、たまに帰省すると吐き捨てるように言う。
弘子はちょっとした息抜きさえできずにいた。老けるにはまだ早いと自分でも思う。お友達はみんな、自分の青春を取り戻すが如く遊び回っているように見える。韓流スターの追っかけをしたり、歌舞伎やお芝居を観に行ったり……。「夫婦で温泉旅行に出かけるのが楽しみ」という友達は別に羨ましいとは思わなかった。自分があんな口うるさい夫と旅行するなんて、考えただけで疲れ果てる。「退職金はたいて、今まで苦労をかけた女房に恩返しで世界一周豪華客船の旅」なんて噂に聞いたがゾッとするだけだった。夫が悠々自適な生活に入った友達で一番羨ましいと思ったのは「定年退職後に夫が写真にハマり、デジタル一眼レフカメラとパソコンを持って、旅行しまくっている」という話だ。やっぱり昔も今も「夫、元気で留守がいい」と弘子は思った。
夫婦って一体何だろうとも思う。
自分は夫にとってパートナーでは絶対ないと分かっている。そんな対等な関係ではない。家政婦か家来のようにしか思ってないだろう。そんなこと、確認さえしたことがない。ちゃんとした会話もしてこなかった。会話のキャッチボールができない人だから……。
夫は会社勤めの時と同じ時間に起きる。長年の習慣を崩してはいけないらしい。朝食をはさんで、新聞の端から端まで熟読し、切り抜いてはスクラップしている。そんなもの、いつ、どんな時に役に立つというのだ。新聞の書評や本の広告を切り抜いて、すぐに買ってこいと言う。一日中、新聞を切り抜いているヒマがあるなら自分で本屋に行けばいいと思う。
夫が会社に行っていた頃はお昼は息抜き・手抜きだった。残り物を温める程度かコンビニで買ってきて済ませてもよかった。それができなくなった。夫は三食しっかりした食事が食べたいらしい。お弁当やそば、うどんの類いは飽きたのだという。
もちろん、家事を手伝うなんてことはない。手伝ってもらったところで迷惑だ。一度、何の気まぐれか洗濯してやると偉そうに言ったが、洗濯物をネットに入れるなどという考えもないので大切な衣類を傷めてしまった。今でも悔やまれることのひとつだ。洗濯機が止まっても干すまではしない。突然の雨に珍しく気を利かせて「取り込んでおいてやったぞ」と偉そうに言ったことがあった。ところがぐちゃぐちゃに積み重ねて置かれていて、この人に「畳んで仕舞うまでが洗濯」だということをどう言ったら分かってもらえるかと怒りを抑えながら片付けたこともあった。炊事? 料理? これ以上、邪魔はしないでほしいと弘子はスマートフォンをいじりながら怒りを放出していた。
何か楽しみがあるわけでも趣味に没頭しているわけでもなく、ただただ毎日、新聞を一日中眺めて、文句を言う。テレビを観て、文句を言う。弘子はもらい火のような説教をされても黙って我慢する日々だ。
弘子の唯一の息抜きは夕飯の買い物だった。夫は夕刊がやってくる時間は新しい情報に夢中だ。その間に一人でさっさと買い物に出てしまえばいい。最近、近所にできた大きなスーパーマーケットは明るくてキレイでウキウキする。何を買うでもなく、ただ店内をうろうろしてるだけでちょっと息抜きができていた。
その「海山市場ショッピングタウン」は生鮮食料品が充実している。安くて新鮮なのは全部産地直送らしく、毎日、全国各地から生産者が売りに来ているらしい。試食販売や実演販売も毎日やっている。つい先日、店頭で生まれて初めて「かんずり」をつけて刺身を食べてみた。コクのある大人の辛さだ。鍋物にも合うらしい。新潟にこんな美味しいものがあるんだ。そんな、ほんのちょっとの旅行気分を味わえた。
駅弁フェアもしょっちゅうやっている。ここにいるだけで「日本って広いな」と楽しくなってくる。夫にも誰にも邪魔されずに、身近な食の国内旅行を楽しめる唯一の時間だ。
だから、珍しく富山の押し寿司駅弁「鱒寿司」を買ってしまったのだ。くるんである笹の緑色と押し寿司にされている鱒のオレンジ・ピンク色のコントラストがキレイに見えたからかもしれない。自分で切り分けて食べるケーキのようなところにもワクワク感がある。
ところが、そのワクワク感は夕食時にイライラ感に取って代わった。
また水を差したのは夫だ。
他のおかずや豚汁が並んだ食卓でひときわ目立つ鱒寿司を見るなり怒鳴ったのだ。
「なんだ! こんなものを夕食にしようっていうのか! 手抜きをいいところだ!」
だが、怒鳴ったわりに、鱒寿司に入っていた小さな「鱒寿司〜おいしさのしおり」に食いついた。この人は活字中毒なんだろう。どんな小さな文字でも読みたくて仕方ないのだ。実際に読んで聞かせなくてもいいのに……と辟易した。
「鱒寿司は、マスの中でも一番美味といわれる桜鱒(サクラマス)を使っています。桜鱒は鱒の中の代表格。歴史的にみても鱒といえば桜鱒のことでした。……ふむ、なるほどな。そういえば、鱒はひとくくりにしがちだが当然、種類がいろいろあるだろうな」
いちいち感心していてはなかなか読み終わらないだろう。弘子は勝手に鱒寿司を切り分け、夫の取り皿に乗せ、自分も食べ始めた。本当にこの人には付き合っていられない。
「オレンジを帯びたピンク色がキレイな桜鱒の身はやわらかく風味豊かです。良質のたんぱく質と脂質に富んでおり、カリウムやリン、ビタミンB1、B2やビタミンDなどをバランス良く含んでいます……か。どんなことに働くんだ?」
だから、思ったことをいちいち口に出すのはもう止めてもらいたい、と弘子は嫌になる。
「桜鱒はカロチンが多く含まれます。ただし、野菜のカロチンとは違い、ビタミンAとしては働きませんが、強い抗酸化作用を持ち合わせており、老化や癌を予防する効果が期待できます。さらに期待される働きとして『EPA』は血栓予防。血栓の形成を抑えて、血液の流動性を高め、動脈硬化や高血圧を予防します。アレルギー症状(アトピー性皮膚炎、ぜんそくなど)を緩和・改善。ほお、これはいいな!」
何がいいんだか……この人の健康志向が高まるととんでもない買い物を始めそうで怖ろしくなった。ぽっくり逝ってくれればいいのにとも思う。
「脳神経細胞機能の維持に働く『DHA』という成分についてはご存知の方も多いでしょう。脳細胞を発達・活性化。記憶力、学習能力を向上させ、コレステロールを低下させる働きがあります。情報伝達や神経組織の機能を維持して、老人性痴呆症を改善する働きが期待されます」
この人が痴呆症になったらタチが悪そうだ。やはりたくさんDHAとやらを摂ってもらった方がやはりいいかもしれない……と二切れめの鱒寿司を食べながら強く思った。
「桜鱒のうんちく情報?……こんなことまで書いてあるぞ」
うんちくなんて毎日聞かされている。うんちくはもうたくさんだった。
「桜鱒という名前の由来は、産卵期が近づくと魚体が桜色になることからきています。その生態はご存知ですか。一〇月頃に川で産まれ、約一年半、川で過ごして、春になると海に下っていきます。それから一年ほど海を回遊して成長。生まれ故郷の川に産卵のために戻ってくる。これが「桜鱒」の生態です。ところが、産まれてから川で過ごすのは同じですが、その後も海に出ない陸封型というのがいます。この、海に下ることなく、生涯を川で過ごす陸封型は山女魚(ヤマメ)と呼ばれます。川魚として有名ですよね。その山女魚も正式名称は「サクラマス」なんです。元は同じ種類の両者ですが、何故、そんな風に生態が分かれるのか。遺伝子の関係? 成長期の環境や餌、速度によるもの? それは未だに解明されていません。成魚は基本的な大きさも違いますよね。栄養成分も微妙に異なります。不思議ですよね。もっと不思議なのは北の地域になるほど降海型のサクラマスになる割合が高く、南の地域になるほど陸封型のヤマメが多くなるそうです。それから、メスはサクラマスになる確率が高く、オスの方が川に留まるヤマメになる割合が高いといいます。どちらにしてもサクラマスです。美味しく食べてくださいね」
夫が黙っている……これは勉強になった証拠だ。いつもはいちいち難癖つけたがるクセに、初めて知って本当に感心すると黙るクセがある。そして、この「鱒寿司〜おいしさのしおり」をきれいに保管箱にしまったところを見ると、あとからスクラップブックに貼ろうと思っているんだろう。全部、お見通しなのだ。
鱒寿司を黙々と頬張る夫を見てると、自分の人生もこの人の人生もつまらないものだったなぁと思えてきた。
桜鱒は山女魚とは違い、広く大きな海に出て行く。敵も多く危険だが、自由でノビノビしていそうな気がする。身体だって大きくなる。大きくなって生まれ故郷に戻る。
何だかずるい気がした。弘子はいつの間にか山女魚に感情移入している。
本来だったらメスは海に出る桜鱒になる割合が高い。でも、自分はずっと家から出ない山女魚だ。いや、出られない山女魚なんだ。海に出て冒険もしてみたかった。社会という大海から戻ってきた夫はネチネチとうるさいだけだ。桜鱒のように身体が大きくなって戻ってくるわけじゃない。何か新しいものを生み出すわけでもない。山女魚の生活の邪魔をしに帰ってきただけのような気がしてきた。
普段から夫は食事がおいしくても何も言ってはくれない。相変わらず黙々と鱒寿司を食べている。文句を言わないから満足しているのだろうとしか読み取ることができない。その程度だ。バカバカしい。
せっかくの鱒寿司のワクワク感もおいしさも台無しの気分だ。
その時、夫が箸を止めて、一人言のようにつぶやいた。
「たまには、こういう鱒寿司もいいな……旨いな」
弘子は思わず目を見開いた。こんな肯定的な言葉は久しぶりに聞いた。夫が定年退職してからは初めてのことだ。
「桜鱒の一生はいいな。帰るところがあるんだな。山女魚がいてくれるから戻れるのかもしれんな……」
一瞬、夫が何を言っているのか分からなかった。一瞬だけ……。
そして弘子は、夫の顔をまじまじと見つめてしまった。
夫はボソボソと目を伏せて話し続ける。いつもの偉そうな話し方ではなく、テレ臭そうだった。
「山女魚も旨い……わしは……山女魚も好きだな。いや、あのな……わしはな……山女魚に……感謝してるんだ……」
鱒寿司の樽はもう空っぽだ。
かわりに、弘子のその頬は桜色になった。
(桜鱒の章 ◆ 終)
表紙イラスト:布施月子(日本画アーティスト)