『ヤンキー多発地帯・足立区のたたかう書店員』第9棚
第9棚「幸せと地獄を売る店」
「おはようございまーす」
団地の1階の長谷川さんが声をかけてくれる。長谷川さんは夜勤をしている夫、子ども2人(成人して最近、実家を出た)、それから年老いた母親とともに1階の2部屋を借りて暮らしている主婦である。この団地ができて、ちょっと経った昭和50年代から住んでいて、独立行政法人が団地のオーナーになる前からの古参組。私とは同世代ということもあるが、会えば挨拶して、ついつい立ち話になる。
「こないだはありがとね」
「いえいえ、一人だと食べきれないからもらってくれるとありがたいっす」
足立区には団地が多い。昭和40年代にベッドタウンとして開発され、令和の世には再開発された残党ばかりが乱立している。
この団地は20号棟以上あるマンモス団地だ。一つの棟には入口が4つあり、その一つ一つにはらせん状に上がる階段を挟んで計10部屋が並び重なる。つまり、「路地を挟んで並ぶ五軒長屋二棟を縦にしたようなもの」なのだ(一つの棟はそれが4つある)。
団地というと、隣近所の付き合いもない冷たくて暗いイメージを持つ人もいるが、我々の「長屋」には問題がない。2階に住むおばあさんが顔を合わせると新興宗教の勧誘をしてくるが、そんなのは無視するか拒否すればいいだけのこと。最近はこの団地にもアジア系外国人がいつの間にか引っ越してきて、日本式のルールを無視したり、事件まで起こしている。同じ棟の別入口のとある部屋で殺人事件が起きたらしく、こちらの「長屋」まで震撼した。
「タイ人どうしの揉め事で、刺されたんだって」
「うひゃー、その部屋って接点ないけど、外から見たらうちの隣の隣っすよ」
「隣のおねえさんには言わないでおいてあげよう」
「真隣だからね。夜には絶対に怖くなるだろうし」
ベランダを荒らすド鳩とたたかう以外は平和な団地暮らし。
ある日、「おすそ分けのお返し」を持って、長谷川さんがぜいぜい言いながら5階まで上がってきた。家賃が安いのは、エレベータがついてないからだ。
「わあ、ありがとうございます」
「こんなの毎日、よく登ってるね」
「慣れましたけど、70代、80代になったら……足腰がどうなるかですね」
「ふうん。それよりさ、昔から住んでるうちの部屋のタイプと間取りが違うみたいな気がするけど……」
「見ます? 見ていいっすよ」
「いい? ちょっと興味あるので……おじゃま……しまーす」
長谷川さんは恐る恐る私の部屋を隅から隅まで見て回る。
「わっ、すごい本の量! どれだけあんのよ! 床抜けないの?」
「数えたことないけど、これでもあまり買わないようにセーブしてるんですよ。買う時はなるべく文庫本にしてるし。引越し12回やって、えらい目に遭ってますからね」
「頭痛くならない? 私、字を読むの嫌いなんで、本も大嫌い……」
「マジすか? 私は本がないと生きていけないっす。仕事でも本をつくってるし。本棚に並んだ本を見てないとストレスが溜まるんですよね」
この部屋に引っ越す前の部屋は一時的な仮住まい。荷解きをせず、本はダンボール箱に入れたまま押し入れに積んでいた。すると、だんだんイライラが募る。落ち着きがなくなる。寂しくて仕方なくなる。本棚のある風景が日常だったので、無意識のうちに、心がすり減っていた。
「本屋さんでバイトも私ならヤダなぁ」
「まぁ、人それぞれっすね。私は本屋さんが大好きなんでね」
「どこにいても本があるなんてヤダわ……信じられないなぁ」
長谷川さんは腑に落ちない顔をして1階に帰って行った。
本が好きな人や本を作ってきた人からすれば、「本が嫌い」なんて言われればおもしろくないだろうが、私は長谷川さんの裏表のないところや根っこの部分の人の好さを知っているので笑って聞き流せる。
ある日、長谷川さんに「そういえば、うちの娘(20代前半)が魚住さんってなんかカッコイイって言ってたよ」と言われて驚いたことがあった。
「え、ビックリ! どういうところがカッコイイのかなー?」
「よくわかんないけど、一人で自由に生きてて、好きな仕事して、なんか作ってる感じがカッコイイみたい」
「なんか、よくわかんねー!」
団地の棟の入口で、二人でゲラゲラと大笑いしたが、私はとても嬉しかった。
——一人で自由に生きてて……。
私が他人から見て、いきいきと見えていた……なんて。
とても嬉しかった。
「一人だと」……寂しそう。不幸そう。つらそう。性格に問題ありそう……ネガティブな印象を持たれることが多い。
だが、本人は結構楽しくやっている。
「大きな地震があった日は不安」とか「寂しい日もある」程度だ。
家族で暮らしていたって「誰も理解してくれなくて寂しい」時もあるだろう。
だから、そのぐらいのものなのだ。
群れの中にいるのは苦痛だ。
自由が大好物なので、ものすごく俯瞰から見ると一人暮らしができている今は「幸せ」だと思う。雨風しのげているし、ご飯も食べられる。お風呂にも毎日入れるし、お布団もあたたかい。
——幸せってなんだろう?
そう思いながら、書店巡回をしていたらふと目に入った雑誌があった。
「あ、今日って発売日だったか」
紐でがんじがらめに縛られた結婚情報誌「ゼクシィ」(リクルート)である。
テレビCMではよく話題になるので雑誌があることは知っている。だが、私は買ったことがないし、買おうとしたこともない。ぶっちゃけ「結婚業界関連広告・チラシの総合カタログ」の印象しかないのだ。
縁はないが、書店員としてはそうも言っていられない。それは購入するお客様がいるから!
この雑誌を買う時って……そう。「結婚を考えた時」だ。
「プロポーズされたらゼクシィ」なのですな。幸せに浸りながらページをめくる雑誌なわけだ。
ところがこの雑誌、見るからにぶ厚い。まるで、昭和の電話帳か、百科事典ぐらいぶ厚い。
そして、これが見た目通りに、とてつもなく重い。
測ったところ、「ゼクシィ」1冊丸ごとの総重量はなんと4.2㎏(2011年当時)。新生児の平均体重よりもずっと重いのである。
私は棚の「ゼクシィ」を並べ直しながら、ついニヤニヤしてしまった。
——幸せは思いの外、重い……。
(く、くだらない……)
だが、その重い「幸せ」を買って帰るのはほとんどが女性だ。
書店のレジ袋では「幸せ」の重量を支えきれない。袋が伸びきって手がちぎれそうになる。それはかなり縁起が悪い。
そこで、「ゼクシィ」編集部は考えた。「ゼクシィ専用袋」なるものを用意して、購入者には無料でプレゼント。購入したばかりの「ゼクシィ」を入れて渡せば、あら不思議! みんな幸せになっちゃう!
というわけで、書店には版元から送られてくる「ゼクシィ専用袋」が用意されている。リクルートから支給されるその袋は布製で取っ手もレジ袋よりも頑丈だ。もらったら、その後も手提げ袋として使える。ほら、やっぱり、みんな幸せになっちゃう!
しかし、「ゼクシィ」のロゴ入りなので私だったら恥ずかしくて使えない。そもそも買わないからもらえないが……。
レジカウンターの下に格納されていて、普段はほとんど見ることはない、この「ゼクシィ専用袋」。
だが、書店員として接客するなら、一度でいいから、あのぶ厚い「ゼクシィ」を「ゼクシィ専用袋」に入れてみたいと思っていた。
そして、ついにその時がやって来たのである。
20代前半とおぼしき女性(ギャルっぽい)が、かなり重そうに「ゼクシィ」を抱え、「んっ!」と小さく力みながらレジカウンターに乗せたのだ。
(おおっ! 「専用袋」チャーンス!)
心の中でクラッカーを鳴らし、即座にレジカウンターの下から「ゼクシィ専用袋」を取り出す。
ツン先輩がバーコードを「ピッ」と読み取ってレジを済ませた。
私は「よっこらっしょ」と、「ゼクシィ専用袋」に「ゼクシィ」を入れたら、それを手渡しながらニッコリと微笑んだ。
「お幸せにっ!」
「…………」
その一瞬の彼女の表情が、未だに忘れられない。恥ずかしいのと、嬉しいのと、嫌なのと、微笑み返していいのか、どう思えばいいのかわからない複雑な感情が入り交じっている。
不二家のペコちゃんのような表情でごまかしてみた。やはり私はちょっとだけイジワルなのかもしれない。
幸せの混ぜっ返しだ。
ある日、その年配女性客はブックスあだち無双店にやって来た。六〇代後半ぐらいの品の良いご婦人だ。レジカウンターに静かに歩み寄り、聞きづらそうにしている。
「いらっしゃいませ」
「あの……絵本を探しているんですが……」
お、絵本はわりと得意のジャンルだ。若い男性編集者は「大手出版社に入社して絵本の部署に配属されたら俺終わったー!って思うかも」と言っていたのを思い出した。そんなことはない。絵本制作はみんなの憧れだ。マンガ家女性は最終目標を「絵本をつくること」に設定している人も多い。個人的には、五味太郎さんの絵本が大好きで何冊も持っているほどだ。これは探し甲斐があるかもしれない。
「どんな絵本をお探しですか?」
「孫にプレゼントしようと思って……」
「お孫さんへの贈り物ですね。可愛いのがいいですよね?」
「あの……マツコ・デラックスが朗読してたらしいのだけど……題名がわからなくて……」
私は、ピーンときた!
——それは『絵本 地獄』に間違いない!
『絵本 地獄』は風濤社から1980年に発行された絵本だ。千葉県安房郡三芳村延命寺に所蔵される地獄絵巻をもとにつくられた絵本は子どもへのしつけに良いと、最近ちょっとした再ブームになっていた。
こういった情報はインターネットをやっているとすぐに入ってくる。
すぐさま、ご婦人を絵本コーナーに案内し、目当ての絵本を探した。
(確か、このあたりにあったはず。巡回しながらも書籍チェックをマメにしていて良かった)
目当ての絵本を手に取り、ご婦人に手渡した。
「お客様がお探しになっているのはこちらの『絵本 地獄』だと思われます」
「そうそう。これだわ! 表紙が怖かったもの」
「絵本が発売されたのはもう30年も前なんですが、テレビで取り上げられてから最近、また話題なんですよ」
「孫にね、悪いことしたら地獄に墜ちるわよって、読み聞かせようと思って……」
「それはいいですね」
「でも、怖すぎて、私まで孫に嫌われたりしないかしら?」
そこで再び、私はピーンときた!
(これは、キャッチした情報がドンピシャでハマり、本の企画が通った時と同じ感覚だ!)
先ほど目当ての絵本を見つけた棚から、また違う一冊を取り出し、ご婦人に表紙を見せる。
「お客様! 『極楽』という絵本もございます。この絵本で『地獄』の怖ろしさをフォローすればいいと思います。こちらの『極楽』を『地獄』とセットでいかがでしょう!」
「いただくわっ!」
かくして、『絵本 地獄』と『絵本 極楽』(風濤社)は購入され、可愛いプレゼント用包装紙でラッピングされてご婦人の元へ旅立っていった。
ブックスあだち無双店に勤めて初めてのセールストーク。そして、初めてのお買い上げ成功。後にも先にもこれだけだったが、自分が持っていた情報で、お客様が喜んでくれてとても嬉しかった。
(お孫さんがちゃんと眠れているか祈るばかり、ですね)
書店は何でも売っている。
——「幸せ」も「地獄」も書店に置いています。
(第9棚「幸せと地獄を売る店」了)
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