【怪談手帖】淵子【禍話】
地方の文系大学で教鞭を取っている、Aさんという五十代の男性から伺った話。
Aさんの故郷には『◯◯投身の地』と伝わる深い淵がある。この手の身投げ伝説というのは、富山のお小夜塚を始め各地にあって、大抵因果話や悲恋話とセットになっているが、彼の故郷の淵は身投げした者のエピソードがぽっかりと抜けていた。
というとこの『◯◯』は子供の名前なのだが、その事以外のどこのどういう者なのか、なぜその淵に身を投げたのかという点が全く伝わっていなかったのだ。
Aさんは語る。
「本当に全然わからないんですよ。単純に忘れられてしまったのか、何か事情があったのか。まあそれよりもですね」
その淵にはそれに纏わる不気味な言い伝えというか、ジンクスが一つあった。
それは水底に子供が横たわっているのを見てしまうと良くない事がある———というものだった。
「身近なところでは、実は私の祖父さんも昔見たっていう事なんですがね」
少年時代のお祖父さんが家出から帰ってきた時だった。
淵の中に着物を着た子供が寝ていた、と周りに話した後で病を患い、長く床に就いたのだとか。
「それが治った後本人はその事を全然覚えていなかったみたいなんですよ」
ただ、とAさんは続けた。
姿が見えるだけならまだいいのだそうだ。
「目が合ってしまうと、だめだって言うんですよ」
淵に沈んだその子と視線を交わしてしまうと、いよいよ良くない。
下手をすれば死ぬ。
「いや、まあ、仮にそういうものが本当に沈んでるとしても、そうそう見えるもんじゃないでしょ。
よっぽど水が透き通ったところならともかく、普通の、それも深い淵ですからね」
Aさんはまるで自分自身に言い聞かせるような感じでそう付け加えた。
「だから、これは水場の危険な所まで子供を近付けない為の作り話だってぐらいに言う者も多かったですよ。
ただ実際はどうであれ、そういう話があるだけでみんな気味悪がるわけです。淵は広いし、魚も多かったけど、誰も泳いだり釣りをしないどころか、わざわざ近付く者もほとんどいませんでした」
ほとんど、という言葉に含みのあるような言い方をAさんはした。それは彼の従兄弟にあたる人がその淵をとても気に入っていたからだという。
「当時私がまだ小学生の頃…、従兄弟は十六、七ぐらいだったかな。彼は画家を志していたとかで。
実際すごく絵が達者でした。昔はそうでもなかったんですが、絵の勉強を実際するようになってから、景色やロケーションが良いって言って、度々淵へ出かけていたんです」
従兄弟の彼は淵の言い伝えも含めて、その場所の雰囲気が好きなのだと口にしていたらしい。
けれど大人は良い顔をしないし、子供達はそれを聞いて気味悪がった。
Aさんも件の場所に同じような恐怖を抱いてはいたが、従兄弟とは元々仲が良かったから、彼のそういう話の聞き役になったり、実際彼がこっそりと淵へ行くのについて行ったりしていたという。
「なんでしょうね。怖かったんだけど、なんとなく、あの淵が綺麗じゃないかって言う従兄弟の言葉にも共感出来たというか…。
淵の周りを囲む緑がすごく細やかでね…。吸い込まれそうな黒い鏡写しの水面に波紋が起こると、翡翠細工を散らしたようで。
晴れた日には、そこにまた木漏れ日が落ちてきらきら輝くんです。思わずはっとするような光景でしたよ」
今この瞬間も脳裏にその景色を描いているのだろうか、少し目を細めながらAさんは語った。
「だから、私もいつのまにかあの淵に惹かれてしまっていたのかもしれないですね」
ある夏の日の事。
Aさんは珍しく一人で問題の淵の前まで来ていた。
犬か猫かを追いかけていたはずだと言う。
「変な話なんですけどね、小さくて白かった事だけは覚えてるんです。とにかく夢中で四つ足のそいつを追って駆け回っていました」
はっと気が付いてみると淵の際。岸の所に立っていて、追い掛けていたはずの獣は既にどこにも見えない。
Aさんはあれっと思いつつも、暑い中走り続けてきた興奮と息切れで頭がぼんやりして、しばし呆然としたまま目の前の緑の草木と深い淵を眺めた。
夏の盛りにも関わらず、淵の周りは不思議にひんやりと涼しく、鬱蒼とした木々の影や、魚が立てているであろう細波が水面の黒と緑を揺らめかせている。
どれくらい見つめていたものだろうか。
ふ、とその奥に何か白いものを見たような気がした。
「いやあ、大きな鯉や鮒の腹だったかもしれません。はっきり見たわけじゃないんです。
でもその時何故か…、『誰かいる』と思ったんです」
『何か』ではない、『誰か』。
「あの感覚は忘れられませんね。自分でもなんで何かじゃなく、誰かなんだってわかるだけ余計に異様に感じたんです」
混乱したままAさんはそれを確かめる為に、ゆっくりと淵の方へ近付いたその肩を後ろから「おい、どうした」と言う声と共に掴まれた。
例の従兄弟だった。
肩からいつものように鞄を提げ、スケッチブックと画材を持っている。彼も今日は淵へと絵を描きに来ていたらしい。
淵の中に誰かが、と答えるAさんに「誰か溺れてるのか?」と驚きながら同じ方向を見た従兄弟が。
「 あ 」
そう声を上げて固まってしまった。
その瞬間の彼の顔はAさん曰く、『紙をいきなりくしゃっと潰して広げた』ようなそんな表情にギョッとして、Aさん自身いくらか正気に返ったという。
「そこで淵のジンクスを改めて思い出したんですよ。それで一気に頭が冷えて…」
Aさんは淵から目を背け、だめだ逃げようよ、と従兄弟の手を掴んで引っ張った。従兄弟は「はあ、うん」などと頷きながら、それでも少しの間淵の方を凝視していた。
やがてしつこく引っ張るAさんに根負けしてよろけるようにしながら一緒に逃げ出した。
「私は半分パニックになっていたんでしょうね。帰り着くなり、『あの淵で子供を見た、子供を見た!』と騒いだんです」
普段から気味悪がられている曰く付きの場所とはいえ、流石に家族や近隣の住民からは、暑さで幻を見たんだろうとか、単純な見間違いだろうとかそういう反応が大半であった。
しかし何よりAさん自身が酷く怯えているので祖父母世代の何人かの案で、御仏供さんをおじやにした物を食べさせられて、その晩は仏間でお祖父さんとお祖母さんと寝る事となったという。
「まあそれもあくまで私を安心させる為というか、今思えば有難いんですけどね」
静かな仏間で祖父母と並んで布団に入ると少し落ち着いて、疲れもあってかすぐに眠りに落ちた。
そして夜中にAさんは奇妙な目の覚め方をした。
「あれは…金縛りって言うんですかね…。どうも、普通のそれとは違うように思うんですがね…」
曰く、夢からの地続きのようにゆっくりと目が開いた。
頭の中に泥が蟠っているような、霞がかったような、どんよりとした感覚。それでいて開いた視界ははっきりとしている。
電気を落とした部屋の中は、障子越しの月明かりを透かしてうっすらと青く、見上げる天井の一面にゆらゆらと波打つような光が映っていた。
それを自分はただ見ている。身を起こす事もなく、首すらも動かさずに真っ直ぐに見ている。
それが何故かひどく心地よかった。
「だから金縛りじゃないんでしょうね、動けないとか縛られてるって苦しい感じじゃないんですよ。本当に、目を開けたまま眠り続けてるような…」
するとそのうちに縁側に面した障子の向こうで、何かが家の周りを歩き回っているような気配がし始めて、やがて声が聞こえてきた。
「おおい、おおい、おおい」
それは自分の事を低く呼ばわるようだった。
老若男女の声が一つに混じり合ったような、異様なものだった。
ぼんやりした視覚と感覚のままその声を聞いていると、だんだんと肌が粟立ち、震えが止まらなくなった。
外のおおい、おおいと呼びかける何かがどんどん近づいて来て、仏間の障子に手を掛けた———
そう思ったところで意識がぷっつりと途切れた。
次に目を覚ましたのは、それから二日後の昼間の事だった。
起き上がり家族に聞いたところによると、高い熱を出してずっと朦朧としていたのだという。
見舞いにはちょうど一緒に淵に行った従兄弟も来ていた。
従兄弟曰く、彼はAさんのように寝込む事もなく、何事もなかったとの事だった。
「それ聞いてねえ、変に恐ろしがって騒いだのがいけなかったのかもしれないなあなんて思ったりもしましてね」
家族が御膳を下げに来たタイミングで、従兄弟と二人きりになってそう告げると従兄弟も、きっとそうだろうと同意した。
そして。
「しかしずっと水の底にいたのに、どうして目が二つとも綺麗なままなんだろうね」
そのような事を呟いた。
え、と聞き返すAさんに従兄弟は、あんなに目が大きい人がいるもんだろうかなどと、意味不明な事を続けて尋ねてきた。
「まるで…ちょっとした事を思い出したような感じで、何度も何度もそうやってわけがわからない事を…」
怖がらせるのはやめてと訴えると、
「だから変に怖がるのがいけないんだろ。怖くなったらもうだめだ」と答えになっていない事を言いながら、立ち上がってそのまま出て行ってしまった。
その夏の終わりの事。従兄弟は、件の淵で溺死した。
「自殺なのか事故なのか、いまひとつ判然としない状況でした」
ただ、いつも持ち歩いていたスケッチブックと画材は、岸のところへ乱雑に投げ出されていたそうだ。
彼の葬儀の後、Aさんは憔悴しきった伯父さんと伯母さんから、あの子が変なものを描いていたが何か知っているかとスケッチブックを渡された。
「ただ何々って題名がしてあって…。あの淵の名前になっている子供の名前が、書いてあって…」
スケッチブックには、鮮やかな色彩で描かれた幾枚もの美しい淵の風景とともに、写実的なタッチの子供の絵が何十枚と混ざり込んでいた。
着物を着たかなり幼い子供の姿。
しかしその顔には鼻も口も耳もなく、何かを凝視するような、大きな二つの目がついているだけだった。
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長らく塩漬けにしていたこの話をまとめて、かぁなっきさんに送る前に、友人のHくんに読ませてみた。
「これは多分君も書いていて薄々気付かれたんでしょうが」などと言いながら、二点ほど話の中の嫌な部分に言及したのでここに付記として書いておく。
「まずですね、淵の水底に沈んだものが水の上からそうそう見えるわけがない、というのはもっともなんですが。
これって『それ』が見える場所まで浮き上がっていたって事ですよね。
という事はそれって、横たわった姿のまま淵の中をずっと動いているんでしょうね。
それと、これは怪異についてというより、単に僕の嫌な想像なんですがね。
伯父夫婦も淵のジンクスを知っていたはずですよね。それだけ有名なんだから。そして息子がジンクスに絡んだ死に方をした。
その葬儀の後に、言わば『生き残った』その子供にわざわざ、目だけの何者かが描かれた遺品の絵を見せてきた。
その事に僕にはどうも別の意図があったんじゃないか、としか思えませんね」
そうHくんは語った。
出典
この記事は、猟奇ユニットFEAR飯による青空怪談ツイキャス『禍話』内の (シン・禍話 第三十五夜) 余寒の怪談手帖『淵子』(37:03~)を再構成し、文章化したものです。
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(この記事のお話は、「禍話叢書・壱 余寒の怪談帖」に収録されています)
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