【怪談手帖】毛羽毛現【禍話】
Aさんは地方の商工会議所に勤める二十代の女性である。
最初の自己紹介で喘息持ちだと言った彼女へ、僕もそうだと告げると暫くその話題になった。
「後天的な喘息って、原因がはっきりしない事も多いんですってね」
「ああ!僕なんかまさにそれです、二十歳過ぎてから咳が止まらなくなって、色々検査も受けたんですけど今ひとつわからなくって!」
本題前の雑談のつもりでそんな話をしていたのだが、彼女にとっては歴とした本題への導入だったらしい。
「私の場合は小学生の頃からなんですけど。原因はっきりしてるんですよ。
嫌な思い出なんですけど、その、原因って…お化けなんです」
彼女が小学生の頃、Aさん一家はある郊外の住宅地に住んでいた。その住宅地の片隅に、長い間放置されている邸宅があったのだという。
「普通の廃屋だったんですけど、昔ながらの結構高級な造りの和風建築で。ボロボロなんだけど妙に存在感があって。
私達の間では単純に『お屋敷』って言われてましたね」
そのお屋敷は当然ながら立ち入り禁止とされ、中へ入らないように言われていたのだが、ある時彼女のクラスで「お屋敷に犬がいる」という噂がたった。
「あの家で昔飼われていた犬が今でもそこに住んでるんだ、みたいな。そんな話でした」
噂の出所は男子児童のグループで、どうやら彼らの兄だか親戚だかのちょっとヤンチャをしている中学生何人かが、夏場の盛りにその家へ侵入した時に犬を見たのだという。
「お屋敷の裏手は山になってるんですけど、それなりの大きさの庭があって、表からは隠れてるしじめじめしている感じだから入る人もいないんですけど、そこに大きな黒い犬がいて。まるでご主人を待ってるみたいだったって」
何故か彼らはそれ以上の事を教えてくれないので、詳しい事はわからないという話だったが、それに呼応するかのようにクラス内の何人かが「あの家の近くを通った時にそれらしき影を見た」「黒い犬が家へ入るのを見かけた」などと表現したので、Aさん達は暫くその話題で盛り上がった。
「まあそういう他愛のないというか曖昧な話で、別に疑ったりはしませんでしたけど、普通に考えればいたとしても野良犬ですよね。
昔住んでた人の飼っていた犬がまだそこにいるっていうのはちょっと考えにくいし、それぐらいは当時の私も考えたと思いますよ」
とはいえ、大人達から立ち入り禁止と言われている怪しげな廃屋である。
Aさん達のクラスにはそれを破るほどの奔放なタイプはおらず、単なる不思議な話としてそれ以外の事にはならなかったそうだ。
しかしAさんは違った。
「いや私もそんな跳ねっ返りじゃなかったですよ。
ただ当時の私…、その、犬が大好きで」
好きでたまらないのに、家の事情で犬を飼ってもらえなかったというAさんは、お屋敷の犬の話にひどく心打たれた。
そして晩夏のある日。彼女は友達と出かけると嘘を吐いて、一人でお屋敷へと向かっていったのである。
「今考えると単にその犬に会いたかったっていうよりは、犬を飼ってくれない両親への当てつけみたいな気持ちもあったのかな」
まだ日も高いうちに件の家の前へ着いた。
荒れた垣根からは赤い花が所々顔を出しており、表札の跡がのっぺりと四角形で残っている門柱を過ぎると、心なしか蝉の声が薄れていくような気がしたという。
「本当に静かな家でした。廃屋に静かっていうのも変なんですけど、なんていうのかな、入っていったものも自然と息を潜めたくなるようなしんとした感じというか」
そのまま犬がいるという庭へ回ろうとしたのだが、表から直接裏側へ行く道は雑多に重ねられた板や、ボロボロのガラクタなどで塞がれていた。
彼女は仕方なく、鍵が壊れて開いたままになっている玄関から中へと入った。
「外から見た時の印象ほど中は荒れてなかったですね。あちこちの窓から外の光が入って、そんなに暗くなかったし。ゴミはちらほらありましたけど埃もそんなに目立たなかったし」
とにかく庭を確かめられればいいので真っ直ぐ進んだ。
かつては額などが飾られていたんだろうという廊下を思うまま過ぎると、広い座敷である。
部屋を仕切る襖は外されており、家具などは残っていなかったが、庭の側には障子戸が綺麗に貼られたままで閉めきられている。
「早速庭を見てみようと思って戸を開ける為に進んでいったんですけど」
何故か障子に手をかける手前でAさんは急激な眠気を覚えたという。
まだ昼間だし、昨日寝ていなかったというわけでもない。それなのにひどい睡魔が襲ってきたのだ。
「だから私、そこで下ろしたリュックを枕にして横になっちゃったんです」
音もない無人の屋敷。その座敷の隅でAさんはとろとろと微睡んだ。
「はっ、てなって次に目を覚ました時には外からの陽も陰ってて」
どれくらいうたた寝していたかわからない。不安を覚えた彼女は目を擦りながら身を起こした。
すると、閉まっていたはずの障子戸が開いていた。
庭が見えている。
「山を背中にして石灯籠なんかもあって、放置されてそれなりに経ってるけど風流な感じは残っている日本の庭…、そういう感じでしたね。それで目の前の縁側から少し離れたちょうど庭の真ん中あたりに、水を湛えた石の鉢みたいなのがあって」
その向こう側にいた。やけに縦に長い、黒い毛むくじゃらが。
「ぱっと見て、あ!本当にいたんだ!と思ったんですよね。野良犬にしたって、本当にいるかは半信半疑なところがあったから」
黒い犬。きっと長毛種だとAさんは思った。それが立ち上がったような格好をしていた。
しかし頭から地面まで毛に包まれていて四つ足が見分けられない。
ちょうど頭のところに真っ黒くキラキラと光るつぶらな目があって、毛に埋もれた低い鼻面らしき形があったので、横を向いているのはわかった。
フスッ フスッ フスッ フスッ
微かに鼻息らしき音もする。
陰った薄い陽を受けて、全面的に長い毛足をふさふさと蠢かしながら、それはひどくゆっくりと石鉢の周りを回るように歩いていた。
「なんか形が変だなとか、子供ながらに思わなかったわけじゃないんですよ。でもこんな犬もいるんだ、すごいなあ、外国のかなあみたいにぼんやり考えていて」
未だ寝ぼけ眼のような状態だったが、にわかに興奮してきたAさんは急いで身を起こした。
逃げられたら困る。
焦る気持ちのまま縁側を降りて、その毛むくじゃらへと走り寄った。
「あーもう…、私そこで、…思いっきり、首元を、こう…両手で…、犬の首元を、わしゃわしゃって…やろうとして…」
Aさんはそこで綺麗な面に皺をいくつも作るような、ひどく忌まわし気な顔をして言葉を続けた。
「わしゃわしゃって…やったら、それ…それ…、崩壊、したんです…」
崩壊…?
思わず聞き返した僕にジェスチャーを交えながら、その唐突な末路を解説した。
両手で思いっきり抱き締めた瞬間。
その毛むくじゃらの上半分が、バフッ!と音を立てて弾け散ったのだという。
全身に長い毛が生えているのではなかった。
それはただの毛の塊だったのだ。
「犬なんかじゃなかったんです、全部人の髪の毛だったんです…。
床屋さんとか美容院とかで切った髪の毛が床に溜まるじゃないですか、あれを固めて集めて積み上げただけの…」
Aさんは話しているうちに思い出してきたのか、耐え難いように我が身を抱き締めながら続けた。
「しかもそれ一人の髪の毛じゃなかったんです、ほとんど黒髪だけどいくらか白髪みたいな毛も混じってて…」
それがわかったのは感触や毛の色だけが理由ではなかった。それが崩壊してバラバラに毛が飛び散っていく瞬間。それはAさんの脳裏に浮かんだ。
真正面を向いてずらりと縦横に並んだ見知らぬ老若男女の人の顔が、壁の写真に光を当てた如く浮かんだ。
「それは、多分…、お屋敷の関係者なんですよ…。それ…、あれはその人達の髪の毛だっていうのと、その…、この人達みんな何か普通じゃない事で死んでるって、直感が湧き上がってきて…」
彼女は崩壊して下半分だけが残った、確かに目鼻があって歩いていたそれの残骸の前で尻餅をついて後退った。
やがて口の中に毛が混じっているような感覚に気付くと、体を丸めて激しく咳込みながら、その場で何度も何度も嘔吐き続けた。
「私何に会いに来ちゃったんだろうって…」
そこからどうやって家に帰ったのかは覚えていないという。
ただそれを触ってしまった手には、暫くいくらお風呂で念入りに洗っても、髪の毛が絡み付いているような違和感が去らなかった。
「それから私、何かにつけて咳が止まらなくなっちゃったんですよ。
だから…私の喘息って、お化けの所為なんです」
いつの間にかこちらまで手や喉に異物感を共有してしまうような語りを、彼女はそのように締めくくった。
出典
この記事は、猟奇ユニットFEAR飯による青空怪談ツイキャス『禍話』内の (シン・禍話 第五十二夜 N号棟紹介からのQ同時視聴!) 余寒の怪談手帖『毛羽毛現』(48:05~)を再構成し、文章化したものです。
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(この記事のお話は、「禍話叢書・弐 余寒の怪談帖 二」に収録されています)
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