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波の向こうで

何が引き金になったのかは分からない。

物理的にも精神的にももう帰る場所が無い事を、心が休まる場所が無い事を考え、ふと思い出したかのように悲しくなった。

金曜日の夜、私はひとり泣いていた。

頼れるものが無い事を、こんなにもさみしいと思った事は無かったのに。


思いつく事といえば、最近上司との距離が近くなった事だろう。

それなりに偉い立場の人なのだけれど、私を気遣ってよく一緒に帰ろうと誘ってくれる。

恋愛的な意味では無く、なんだか人間として可愛がってもらっているんだろうなあと思う。

相手が上司である事を忘れて話す生意気な私の話を、いつも面白いと笑ってくれる。


上司はたまに自分の子どもの話を聞かせてくれる。

それを聞きながらいいなあと思う。

数ヶ月前に先輩に子どもが出来た事も思い出し、その度にこれも私がどれだけ頑張っても手に入らないタイプの幸せなのだと思いながらその話を聞く。

「お子さん可愛いですね」と言いながら、頭の中で思い出すのは相反する自分の幼少期だった。

もしかしたら十分に愛されなかった事は悲しい事だったのかもしれない、となんとなく10年越しに思った。

多かれ少なかれ、誰もが家族でいる事の難しさを抱えていると思う。

けれどどこからどう見ても一見幸せそうな家族の話を聞けば聞くほど、暗闇の中でこちらに手を伸ばしながら静かに落ちていく私の姿が見える。

私には手を差し伸べられる程の力がもう無い。


成仏出来なかった悲しみ程面倒なものは無いのだ。

それを飼い慣らす事が出来なければ、時間をかけてゆっくりと宿った主を食い尽くす。


少し距離が近くなってから、上司はよく私に話しかけてくれるようになったけれど、今度はその優しさをどう受け取って良いかが分からなくなってしまった。

昔から自分に向く優しさや愛情は怖い。

それにしなだれかかってしまうかもしれない事や、その愛情がいつか消えてなくなってしまう事、対価として何も払わずとも注がれる愛情がある事の全てが怖くて理解が出来ない。

優しくされる度に私が壊れていくようで、食事に誘われたけれど返信は出来なかった。

そうこうしているうちに、朝になったらそのメッセージは取り消されていた。


祈るように誰かの事を大切に思う事が得意だ。

当の本人にも気付かれないような愛し方をしてしまう。

けれど一度信じたものは決して疑わないし、あなたに纏わる事はどんな例外だって認めてあげると言わんばかりの甘やかし方をしてしまう。

だってそれが愛する事だと思っているから。

私の責任で、私の勝手で愛しているから。

何の対価もいらないし、あなたはそこにいてくれるだけでいい。

美味しいご飯を食べて、ぐっすりよく眠ってね。

無償の愛を惜しみなく注ぐ事が本当に私は得意なのだ。


だと言うのにどうして私はいつも自分事となると心のバランスが取れなくなってしまうのだろう。

ありのままの自分を好きになってくれる事の意味がよく分からない。

1+1が2になる理由が分からないのと同じ類の分からなさ。

単純に理論が理解出来ないのだ。

だからほんの少し愛情を注がれただけでぐらつき、私の心はバランスを失う。

そうして尊敬している人や愛している人に背を向けた事が何度もある、今回もきっとそうかもしれない。


私はこれからどうやって生きていくつもりなんだろう。

一生ひとりで生きていくと息巻いていた頃の私はもういない。

精神的にも追い詰められていた。


あと2ヶ月で今年が終わろうとしている。

色んな分野でニュートラルな考え方が主流になってきた。

沢山の新しい形が生まれる、そんな波が来ていると思う。

だから私ももう少しだけ、自分の寂しさを持て余しながらその波に揺られていようと思う。

飼い慣らす事が出来ずに私が食い尽くされてしまうその日まで。


その波の向こうにいるのは一体誰だろう。

私を無条件に愛してくれる運命の人なんかじゃない。

それは全ての弱さを乗り越えた、向かうところ敵なしの私であってほしい。


この文章を書きながら、そんな事を静かに祈っています。



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