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光と陰鬱と書くこと

どことなく陰鬱な日々がつづく。具体的に「何かがあった」わけではない、と思う。まったくのゼロではないけれど、原因として挙げるにはどこか心もとない、というか。

ストイックにはなれないし、常に全力投球、一生懸命でもない。というより、馬力が本当になくなった。おかしいな、昔はもっと全力でやれたはずなのに。そう思ってはみるものの、その「昔」は本当に昔のことだと気付く。

10代で精神を病んでから、わたしの「精一杯」はそれまでの「精一杯」には到底及ばなくなってしまったのだろう。一時回復したように思えた「精一杯」は、またあの頃のように目減りしてしまった。ギアが1番軽い設定になっている自転車を平地でこぐときのカスンカスンという手ごたえのなさのように、どこかで空回っている感覚が拭えない。

真正面から向き合わなければいけない。真摯に、きちんと、ちゃんと、がんばらなくてはいけない。

両の眼でしっかりと真実を見据え、歩きつづけなければいけない。

なぜだか、そういう思考が染みついている。それは同時に、「逃げはダメ」という意識でもある。

実際はどうか。まったくできていない。逃げ出したくなることはしょっちゅうあるし、逃げたこともあるし、たびたびへばっている。

その自分を「ダメだ」と断じているのはわたし自身で、けれども心身は動かない。「ダメなやつ」という言葉は、じわじわとわたしを侵食する。自分で自分をダメにしていく。

書くことは、整理だ。言葉に当てはめて、そうしてわかった気になる。わかった気になって、少しでも安心を得ようとする。いいことなのか悪いことなのかはわからない。

両目をしっかりと見開くときばかりではないけれど、前に進みつづけている人たちがたくさんいることを知った。

時には片目で、また時には薄目で。目の前にある現実を常に見据えているわけではないけれど、回れ右をしているわけではない。そんな人たち。

ただただ目的地に向かって一心に進んでいる姿を見せる人よりも、今のわたしには救いに思えた。まばゆすぎる光は、周りをかき消してしまうから。だから、弱っているときに浴びるにはつらいものがある。

キャンドルや蛍のような淡く揺らぐ光のほうが、暗闇をやさしく照らしてくれる。そんなときも、あるんだ。

書くことは、そんな光を残すことだ。見せてくれた小さな光を、どこかの誰かにも分けられるように。わたしを照らしてくれたぽわぽわした光が、別の誰かのことも照らせたらいい。

そんなことを、ひとり思っている。

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卯岡若菜
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