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書くことが好きだと思っていたけれど

「書くこと」に出会ったのは、文字を覚えた幼稚園時代のことだ。

拙い字で絵の横に描いたものを書き記し、それがいつしか絵本のようなマンガのようなものに変化した。

絵本を読むのが好きな子どもだった。2歳の頃には、絵本を与えておきさえすれば静かにしていられる子どもだったらしい。文字を読めるようになる前から、物語の世界にどっぷり身を沈めていたのだろう。

マンガのようなものだったり、日記だったり、自然の大切さを唐突に説いてみたり、家族に向けた家庭新聞を作ってみたり、小説を書いてみたり。夏休みの自由研究で、漢字も知らない頃から「こうさつ(考察)」なんてことを書いたこともある。書くものを変えながら、それでもずっと書いてきた。

「書くことが好きだから」。書くことをやめない理由は、いつだって同じだった。そんなわたしを見てきた母親は、「いい仕事に出会えてよかったね」という。わたし自身も、またそう思う。

ただ、本当に好きなのは、実は「書くこと」ではないのかもしれない。

小生意気な子どもだった。

「ああ言えばこう言う」と親に評される、口達者で早口な女児。わたしは息子ふたりの母親だけれど、わたしに似た娘を持つことにならなくてよかったのかもしれない、なんて思うくらいには可愛げのない女の子だったのではないかと思う。

「可愛げのない」は実際に言われたこともあり、呪いのひとつになりもしたのだけれど、それはまあ、ここではおいておく。

考えることが好きだ。感じたことから、考えて考えて、考え続けることが好きだ。考えた結果、「おかしい」と思えば口にしたし、口にできなければ文章にして気持ちを収めた。理不尽なことが、その言葉を知る前から好きではなかった。ふつふつと沸き立つ感情を、だからわたしはないものにはできず、いつも考え続けて形にしていた。

まるで、形にして出さなければパンクしてしまうといわんばかりに。わたしの早口は、「その速さで話さなければ脳に言葉が溢れかえるんだろうね」といわれたことがあるのだけれど、書くこともまた同じように思う。まるでその速さで書き記さなければ破裂してしまうのかといわんばかりの速さで、わたしはいつもnoteを書いている。(だから、最初の文章は勢いだけで日本語は荒れている)

書くことは、そんなわたしにフィットした。見て聴いて感じたことを咀嚼して、考えて考えて考え続けて、自分なりの言葉にする。書くことは、手段に過ぎない。たとえば、もしわたしが絵を描けたなら、きっと絵でもよかった。曲が作れたなら、音楽でもよかったのだ。

「書きたい」よりも「感じたい」「考えたい」が先にくる。感じたり考えたりする機会なしに、わたしは書きたいとは思わないのではないか。書けるけれども、その「書く」の原動力は「書きたい」ではない。書けるだけだ。

感じたり考えたりする機会が目減りすると、「書きたい」が減り、「書ける」も連鎖して減ってしまう気がする。

書けるようになるためには、書き続けろといわれる。だけど、わたしはその前に考え続けることが何よりも大切だ。

人に会い、話をし、本を読み、映画を観て、景色を眺めて風に吹かれる。感じたことから考え始め、考えることが書く意欲につながる。

我思う故に我あり。

考え続けているからこそ、書き続けられているのだなあ。

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卯岡若菜
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