あえて、書かない

書かなければならない義務なんかなかった。はじめにあったのは、ただ「書きたい」、それだけだった。


理屈っぽく、見ようによっては可愛げのなかった子ども時代のわたしは、ただひたすら思考と感情を文章にすることが好きだった。口達者のくせして肝心なときほど役立たずになってしまう口に比べ、文章であれば深く大きな呼吸ができる。自由に書ける。上手に書きたいと思ったことはなく、ただただ書いていたかった。たぶん、「書きたい」より「書いて整理したい」のほうが正しかったのだと思う。「伝えたい」は、その一歩先にいた。

10代後半、いくらでも書いたものをネットを介して公に晒せる時代になった。小説を書いてはサイトに載せ、ブログに日記じみたものを書き連ねていた。誰かに見られる場所ではあったけれど、誰かに見せるために書いていたわけではなかった。読んでもらえたら嬉しかったのは事実だけれど。ただ、読まれるために書いてはいなかったから、そのときもまだまだ自由だった。


今は、どうなのだろう。このわたしのnoteは、やっぱりあまり読まれるためには書いていない気がする。けれども、読まれるかもしれないことが前提にはなった気もしている。たぶんそれは、数字によって表されるようになったからだ。フォローや「スキ」、チェックしようとすればPV数も確認できる。途中で離脱されているかもしれないにしろ、とりあえず途中まででも読まれてはいるのかな、と思える数字たち。昔、創作サイトで小説やブログを書いていたころのわたしは、数字とは無縁だった。だからこその自由さもあったのだろうな、と今になって思う。

「読まれること」への意識が頭の片隅にでも存在したことで、「あえて、書かない」選択肢が生まれた。別に突然現れたのではなく、前々からあった選択肢だ。しかし、以前より「あえて」がくっきりと浮き上がってきたように思う。別に、我慢したり空気を読んだりした結果の「書かない」ではない。ありきたりな言葉で言ってしまうと、自分のなかの美学による判断、なのかな。


表現は自由だ。誹謗中傷はさておき、何をどのように書いたって基本的にはいいものだと思う。そして、その文章を読む方がどう受け止めるのかも自由だ。読み手として、「ほー、その考え方にはまったく共感ができないな」と思うことも少なくはない。あえて「読まないほうがいいだろう」と判断をすることだってある。ただ、これらの判断はわたし個人の自由な取捨選択だと理解もしている。そこに正解や間違いはない。

同様に、誰かに見える場所で書かないのも、わたしの主観による判断だ。世間で話題になっているだとか、多くの人が言及しているだとか、そういったことは関係ない。ただ、外に見える形で「書かない」だけだ。当たり前のことだけれど、書いていない=わたしのなかに存在しないわけではない。むしろ、いろいろ書きがちな人間として、書かないところにこそわたしの本質が宿ることだってあるのではないか、とも思う。「よく自分をさらけ出せるよね」と言われたことがあるけれど、わたしにはそんなに明け透けにさらけ出しているつもりはない。というか、わたしに限らず、その人それぞれが線引きをしているものだろう。その線引きが「あり」か「なし」かが、見る側の主観によって異なるだけで。


書いて出すことで、たぶん自分の癒しに繋げられるのだろうと思っている「書いていない」こともある。書きようによっては、おそらく読まれるかもしれないと思うものもある。それらをわかった上で、「あえて、書かない」。書いても、「出さない」。理由は自分の線引き、ただそれだけだ。そもそも、わたしにとって最初の「書く」はただの「書く」であり、「読んでもらうための書く」ではなかったのだから。どこにも出さない「書く」も、あえて「書かない」と決めることも、そしてもちろん「書いて、出す」ことも、どれもその人の自由だ。ただ、その一方で、自分のなかにある線は持ちつづけておきたいなと思う。

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卯岡若菜
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