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主語のサイズとベクトル

遊具のない公園で鬼ごっこをしている息子たちを眺めながら、子どもの主語は、いつだって自分自身だなあと思う。

主語が広がっていくのは、一体いつからなんだろう。

幼稚園児でも、「男の子は」とか「年長さんは」といったくくりの中にいる気はするけれど、それが自分の中から出てくるには、まだ少し早い気がしている。出てきて性別かなあ。自分の意思決定が、「男の子だから〜」と性別由来になっていることは、長男も次男もすでにある。

一方で、大人は主語が大きくなりがちだと思う。

まあ、確かに「大人とは」「社会人とは」など、「かくあるべし」というものはそれなりにあるだろう。現在ではだいぶ薄まったにしろ、「男とは」「女とは」の縛りだってあるし、「母とはこうあるべし」に苦しんでいる母親は、いつだって多いのではないかと思う。誰かに言われなくても、刷り込まれている価値観は根深い。

わたしは仕事柄、「フリーランスとは」「ライターとは」を主語にした文章に出会うことが多い。そもそも、フリーで仕事をしている人たちは自分の考えがしっかりしていることが多いため(そうでなければ選びにくい生き方だろうし)、なおさら、こうした「かくあるべし」みたいな言葉がたくさん出てくるのだろうと思う。

ただ、わたしは、主語が大きい「べし論」には疲れを感じてしまう。そうした文章に触れることが続くと、「もうおなかいっぱいです」という状態になる。これは、その「〜べし」への賛否は関係ない。「そうだよね。わかるわかる」と思えるものであっても、大きな主語ばかりに触れていては疲れてしまう。

それよりも、たとえ内容に賛同できなくても、「わたしは〜している・思う」と主語が個人である文章の方が好きだし、疲れも感じない。

たぶん、これはベクトルの向きが理由なのだと思う。主語が大きいとき、言葉から出る矢印は四方八方に広がっているから、場合によっては攻撃的にも感じるし、実際に痛みを感じる受け手も出る。一方、主語が個人のときは、内側に内側に潜った結果出てきた言葉だから、矢印は発している人に向いている。大きな主語が動的な言葉で、個人的な主語は静的な言葉。そのように感じている。

そもそも、わたしが「自分にとっての正解なんて、自分にしかなくない?」というタイプだから、正解を述べる文章の主語が大きいと疲れてしまうのかもしれないなあ。


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卯岡若菜
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