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完成させつづけること

文章は粘土細工や油彩画みたいだ。

付け加えて、削って、削りすぎて、また付け加える。「ここで終わり」だと決めなければ終わらない。そして、その終わりを決めるのは自分だ。

趣味で書いているものであれば、いついつまでも手元に置いておける。作品に一生涯手を入れ続けた画家がいたように、一見完成品に見えたとしても、本人が未完成としてしまえば永遠に未完成のままだ。

でも、仕事の文章はそうはいかない。締め切りはいずれやってくる。たとえ自分のなかで消化しきれていない思いがあったとしても、「完成」としなければならない。

もっと書けたのでは。
もっと書きようがあったのでは。

そう強く感じながら、己の未熟さをひしひしと実感する。悔しいな。だけど、たとえいくら時間があったとしても、微々たる程度にしか磨けないのだろう。今のわたしの実力が、今のわたしの文章だ。そうして、おそるおそる原稿を送る。

「会心の出来だ」と自信を持てることは、あまりない。「よーし、よくやった!」と思うのは書き上げたあとの束の間の時間だけ。冷静になればなるほど、持てる力は尽くしました、と言うのがせいぜいだ。読み返せば読み返すほど、手直ししたくなってしまう。「まだ足りない」「まだ磨ける」と思う。

そんなありさまだから、おそるおそる手渡した原稿に対して、編集者に「よかったです」と言われると心底ほっとする。そのうえで、磨きをかけてくれた姿をあらためて見る。自分から出てこなかった表現を見ると、「うわあ、いいな」と「あー、なぜこれが出てこなかったんだ」のふたつの感情が湧きおこる。平易な言葉なのに、なぜか思い浮かばなかった、なんてことは本当に多い。

文章を書くのが人よりちょっぴり得意で、とてつもなく好き。それだけでこの世界に足を踏み入れた。センスで片づけたくないけれど、センスがいいとしかいえない文章に出会うたび、「ああ、書けないなあ」と思う。書けない。全然書けないなあ。

いつまでも「それなりには書ける」ところに留まっているなあと思う。正しい日本語は書けます、みたいな。それじゃいけないし、それじゃ嫌だ。

今日も読んで、見て、感じて、考える。そして、書く。ああもう、もっと書けるようになりたい。

とにかく“完成”品を作りつづける。仕事も、プライベートの文章も。

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卯岡若菜
お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。