「何もない」はスタートライン

うまくいっているように見える人に対して、「あの人だからできるんだよ」と言う人がいる。わたしもそう思ったことがある。「あの人だから」は、確かにその人の持ち味で、わたしにはできないなあと思うからだ。

でも、「あの人だから」を「わたしには何もできない」とする免罪符にしてしまうのは、勿体ないなと思う。

何もない、といってしまえば、多くの人は何もないと思う。ちいさなちいさなきっかけを、そのままにしたか育ててみたか。それが、「何もない」と「何かある(と思われる)」との違いじゃないのかな。

何もない、でいえば、わたしは普通科高校を出て心理学系の大学に入ったものの、特に何らかの資格も持たず中退した人間だ。おまけに、そこからも正社員になれることなく、わたし自身では「誰でもできる」と思っていた接客業経験のみで結婚、出産した。

今では接客業も「誰でもできる」とは思わない。客側としてびっくりするスキルの高い店員さんと出会った経験があることもあり、適性ってあるなと思っている。ただ、逆にわたしもそこまで極められないなと思った出会いでもあったのだけれど。

接客業はそれなりにできていたとしても、一介の主婦であり母である身としては、「何もない」だった。資格もないし、経験もないし、おまけにいつ体調を崩すかわからない子どもがふたりいる。実家は遠い。夫は融通の効かない仕事をしている。

パートの面接ですら通らないと嘆くママ友も何人もいた。何もないどころか、マイナス。そう思っているのはわたしだけじゃなくて、母親の陥る悩みなのだと感じている、今でも。

ただ、何もないままで諦めてしまうのかそうじゃないのかは、やっぱり人それぞれだ。わたしの周りには、「それでも、今の自分でできることを」と動いている人が多い。もちろん、家計的に「四の五の言っていられない」のもあるだろう。だけど、愚痴と文句だけ吐き続けて、誰かを羨むどころか妬んで身動きが取れなくなっているよりも、動いていることはそれ自体がまず素晴らしいことだと思う。

何もない、がベースだ。何もないなかで、そこから何ならできるのか。そればかりだ。特に育児はさておき、出産はどうしたって女性がブランクを引き受けざるを得ないなか、そこに文句を垂れても男性は(現代医療では)産めないわけで。じゃあ、どうすれば少しでも納得感のある生き方ができるのかを考えて動いてみるしかないんだよなあ。

親しくしている友達には、ママ友、学生時代からの友達問わず、わたしは自分の仕事を明かしている。子どもがふたりいてよくチャレンジしたね、すごいね、フリーでできることなんてわたしは何も持ってないよ、と言われることもある。だけど、逆にいうと、わたしには「書く」しかなかった。書くをちょっと育ててみた。それだけだ。

わたしをやたらと褒めてくれる彼女らも、自分で気づいていないだけで「それは……真似できないわ……」ということが多々ある。仕事にするしないはさておき、「それ、すごいよね」を伝え合える関係ができているから、思うままにせず、積極的に言うようにしている。灯台下暗し。あなたのそれは、すごいんだよ。

何もない、わけがない。何を拾って、どう育ててみるかだけだ。周りから見ていると、そうやって動いている人は本当にまぶしく見えるし、お互いがんばろうね、と心から応援したいなと思う。

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卯岡若菜
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