【小説】裏庭の蜘蛛
ユヅキとボクがそのときハマっていたことといったら、アパートの裏庭に作られている蜘蛛の巣を枝先で壊すことだった。
慌てたように上によじ登っていく蜘蛛を見ながら、ユヅキは頬を紅潮させた。その横顔を見ながら、ボクの胸は高鳴った。
悪いことをしている自覚があるのかないのかと聞かれたら、よくわからなかった。いや、あったのかもしれない。共犯者としての連帯感が、ボクたちを裏庭に呼び寄せていたのかもしれないからだ。
そこには、ボクとユヅキしかいなかった。
ボクが小学六年生、ユヅキは五年生だった。ほかの子がゲームに夢中になっているなかで、ボクたちの遊びは随分と幼いものだっただろう。
◇
制服が届いたとママがいう。そのときの気持ちこそが、憂うつ、と呼ばれるものだったのだと思う。
中学生になんて、なりたくなかった。「そう」とだけ答えて、ボクは家を出る。
アパートの裏庭には、今日もユヅキが来ていて、今日は蜘蛛の巣がないという。やっぱりボクは「そう」とだけ答えて、ユヅキの隣にしゃがみこんだ。
「もうすぐ、卒業じゃん」
ユヅキがいった。
「そうだね」
ボクは答えた。
今日の日差しはあたたかくて、すぐそこまで春がきていることを知る。
いつまでも来ないままでいいのに。近くに落ちていた枝で、地面をひっかいた。
◇
卒業式。ボクのパンツスーツ姿を見て、ママは小さく息を吐いた。
ボクは聞こえなかったふりをして、最後の小学校へと向かう。
六年生を送るために、五年生も卒業式に参加する。それでも、やっぱり体育館にユヅキの姿は見えなかった。
それでいい。ユヅキは、そのほうがきっといい。
次々に呼ばれる同級生の名前を聞きながら、ボクはぼんやりとそう思った。
それでいい。ボクだって、それがよかった。
ボクは、学校に友達がいない。
◇
春休み。
ボクはユヅキと裏庭で過ごした。
あたたかくなり、裏庭では小さな虫の姿をよく見かけるようになった。石をひっくり返せばダンゴムシが表れ、赤いテントウムシを緑の端っこに見つけられた。
ユヅキは少し元気がなかった。聞けば、四月から学校に行かなければならないかもしれない、という。
「行かなくていいじゃん」といいたかったけれど、いえなかった。ただ黙って、「そっか」とつぶやいた。
「あずさは?」
ユヅキが聞いた。うん、と答える。
うん、としか答えられなかった。
◇
「うんうん、かわいい、かわいい」
ママがボクの制服姿を褒める。何にも嬉しくなんかなかった。それでも、ママの顔を曇らせたくなくて、ぴくぴく震える唇を少し上げて、「うん」と笑顔を作った。
ピンと張った心の糸を、ユヅキに切ってほしかった。蜘蛛の巣を枝で壊すみたいに。
糸の真ん中で、ボクの逃げ場所はどこにもなかった。
プリーツスカートの規則的な折り目が憎らしくて、すうすうする足元は、ボクのことを守ってくれるようには、とてもじゃないけれど思えなかった。
中学生になんて、なりたくなかった。
◇
四月。
中学校の入学式から帰ってきたあと、制服を脱ぎ捨ててボクは裏庭へと急いだ。そこには、ユヅキがいなかった。
ユヅキは、お父さんとお母さんから逃げ出して、家を出て行ってしまったらしい。年の離れたお姉さんの元へ行ったらしいだとか、おばあちゃんの家に逃げ込んだらしいとか、いろんな話を耳にしたけれど、本当のところはわからない。
ボクは、裏庭で蜘蛛の巣を見ていた。蜘蛛の巣に引っかかってしまい、哀れ蜘蛛に捉われそうになっている小さな蝶。
ユヅキだったら、どうしただろうか。今のボクみたいに、ただ蜘蛛の様子を見守ったろうか。それとも、やっぱり蜘蛛の巣を壊しただろうか。
ユヅキは、自分で糸をぶった切って、どこかに行ってしまった。ボクは、糸の上、身動きが今も取れないまま。浅く浅く息をして、来るのか来ないのかわからない終わりを、ただ待っているだけだ。
蜘蛛が蝶に近づいていく。蝶はもう、ほとんど動かなかった。
蜘蛛が、蝶に近づいていく。
+++
今回のお題:「制服」「蜘蛛の巣」
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