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計算尽くの言葉の味

「ほらほら、こういうのが好きなんでしょ?」という姿勢でものを言われると、たとえそのものが本当に好きだったとしても、「いや、別に」と言いたくなってしまう。

わたしが天邪鬼だからかもしれないけれど、でも気持ち良く感じない人は結構いるんじゃない?いるよね?と思う。

上から目線で「好き」を放り投げられても、うれしくないし、心にも響かない。なかには、ムッとする人だっているだろう。きっと、この「ムッ」をうまくコントロールできる人が、炎上商法がうまい人のひとつの特徴なのかな。


「Twitterでバズらせるのなんて簡単だよ」と、以前とある人が言っているのを聞いた。「こんなことみんな好きでしょ?って思うことを、あとは言葉を考えてつぶやけばいいだけだよ」と。なお、これは情報やノウハウではなく、感情面に訴える系のツイートの話だ。

わたしは「そうなんですね」と返した。その後、ふいに思い出しては「うーむ」と考えていた。

すごいとは思う。本当に狙いすませて簡単にバズらせられるのならば。でも、そうしてバズった言葉は、なんだか薄っぺらいものになってしまわないのだろうか。

とにかくバズらせたい、目立ちたい。それが目的ならば、そのスタイルでいいのだろう。けれども、「いいものを届けたい」と言っていた人が「人の心に響かせるなんて簡単だよ」と言ってしまうのは、ちょっと残念だなと感じる。

確かにそれでも誰かの心には響くのかもしれない。だけど、それは心の表面にさざ波を立てる程度の変化になってしまうような気がする。もっと奥深いところにまで届く言葉には、きっとなれないのではないかと思う。

噛み締めて栄養になるのではなく、「おいしかったな」と消費して終わる。そんな言葉にだって価値があるとは思うけれど、少なくとも、「簡単」と発言した人が目指すところはそこではないのではないかと思ったし、そんな意識では本当に届かせたいところに届くものは作れないのではないかと思った。受け手は、そんな単純で簡単な存在ではないと思うから。いや、なかにはシンプルでわかりやすいものばかりを好む人がいることも知ってはいるけれど。

「ウケ」を狙うこと自体が間違っているわけではない。けれども、ウケを狙いすぎた結果、書き手が読み手より高いところにいるような言葉になってしまったものより、書き手の心が言葉まで降りてきているものが、少なくともわたしは好きだな。笑えるものでも、痛みを伴うものでも。


読み手のことを考えて書くことと、読み手をコントロール可能なもののように感じて書くこととは、まったく違う。

前述した「誰か」はライターではないし、そもそもかなり前の話ではあるのだけれど、無事に引き続きバズらせているのかな。あなたにとって、本当に「そこ」が目的地なんでしょうか。そうだと言うなら、わたしが何か思う必要もないのだけれど。


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卯岡若菜
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