思考を言葉にする怖さ
考えや意見を書くことって、怖くないですか?
そう、ある人に訊かれた。わたしのnoteを知っている人だ。
「そこまで多くの人に読まれているわけではないし、ズレた批判をもらったこともまだないから、書けるのかなあ」
そのときはそう答えたけれど、「怖くないですか?」の言葉は、その後もわたしに残り続けている。
怖くない、わけではない。けれども、こうして今日も書き続けている。なぜなのだろう。
高尚なことを述べたいわけでもないし、賛同者を集めたいわけでもない。ただ、ぽつぽつと考えや想いを言葉にしている。
子どもの頃から、「何かを考えていたい」タイプだった。そうして、その考えは常に言語化され、外に吐き出さないとパンクするから……なのかもしれない。
なんせ、小一の頃の「あのね帳(日記のようなものだ)」に、「自然を守ることについて」を自己連載するような子どもだ。「こう思う」「こう考える」を出さざるを得ないのかもなあ、と思う。
外に言葉を出すことは、誰かを傷つけることにつながる。自分の未熟さを露呈することでもあるし、第三者から見ると「偉そうなことを書いているけれど、ブーメランじゃん、この人」と思われることだって多いにあり得る。技量が足りなかったゆえに、伝えたかったように伝わらなくて悪感情を招いてしまうことだってある。
だから、怖くないわけではない。
ただ、「こう考えている」「こう思っている」を書き続けることで、見えてくる輪郭がある。文章は他人に対しての「こういう人です」という自己紹介にもなるし、わたし自身「ああ、こういう価値観なんだなあ、自分」と再発見するツールにもなる。灯台下暗しとはいったもので、案外自分のことは自分で見えていないものだから。
何かの物事に対して沸き起こる自分の感情を言語化することは、自分の立ち位置を見つめるためにも役立つ。「どう思います?」と問われたとき、「わたしはこう思います」と言える力は、日頃から「わたしは」と考えることで鍛えられるのではないかなあ。
実際には、そんなことを考えて「考えている」わけではないのだけれどね。