痛みや苦しみは必須じゃない
苦しさを乗り越えて到達した山頂からの眺めは格別だ。達成感が美しさを際立たせるのだろう。山登りは趣味ではないけれど、あの「やった、綺麗!」という感覚は身体が覚えている。
同じようなことなのか、誰かがハードルを乗り越えた先に何かを成し遂げることに、わたしたちはいたく感動する。投げかけられる「感動しました」「勇気をもらいました」の数々。
代表的なものはスポーツの試合や大会だろう。スムーズに実績を打ち立てた(ように見える)人よりも、挫折を乗り越えた人のストーリーに惹かれる人は多い。熱狂的になることだってある。
いつだって、苦難を乗り越えることは美しい。極端な例では、「トントン拍子すぎてつまらないんだよなあ」と言っている人だっていた。本人が本当に何も乗り越えていないだなんてそんなこと、きっとないのに。
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壁を壁と認識するのかしないのかは、本人の捉え方次第だ。そして、外野の見方次第、見せ方次第でもある。「苦難と挫折」と世間で触れ回られていても、当人には全然その気がなかったなんてこともあるだろうし、逆もまた然り。本人が壁に相対していても、それを見せずに、また周りが気づかぬままでいさえすれば、壁も挫折も世間的にはなかったことになる。できあがるイメージは、順風満帆な人間だ。
また、本人が壁を壁とも思わず、また周囲も順風満帆な人間だと捉えているケースもある。この場合、本当に才能と縁と運に恵まれた順風満帆な人間である可能性もあるけれど、単に本人が壁を乗り越えることすら楽しみに変えてしまう人間だという可能性もあるだろう。
苦難を苦しいと感じなければ、つらさは存在しない。わたしは走るのが本当に本当に嫌いだからわからないけれど、ランナーズハイってそういう類のものなのではないのかな、と思う。走っている疲れやつらさを感じないのでしょ?
「つらいことを経験して一人前」だとか、「楽しいだけなんて本気でやっているならありえない」なんていう言葉は、ひとつの価値観に過ぎない。難しさや大変さはイコール苦しさやつらさではないと思うから。
むしろ、つらさや苦しさばかり感じていることは、もしかしたら不向きなものなのかもしれない。苦しさが成長痛であるならば乗り越えた方がいいけれど、四角に三角を入れ込もうとしている痛みであるならば、三角を探した方がいいよね。
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とかなんとかいっているわたし自身、苦しさがなければいけないのではないかと思いがちなタイプだ。難しさごと楽しめる場所やものを、ぬるま湯だと捉えてしまう。もっと痛くなければ、もっと苦しみが伴わなければ。そう思う自分がいる。
確認しておきたいのは、痛みを感じることは成長とイコールするわけではないことだ。負う意味があるのは伸びるための痛みであって、痛みのための痛みではない。ただ苦しめればいいわけではないし、そもそも実りのない苦しみを受け続けることは心身を病ませるだけだろう。
成長を伴う痛みではなく、痛みのための痛みや苦しみを求めるのは実りがない。中身のない苦難至上主義は、自分を無闇やたらと追いつめてダメにしてしまうだけのように思う。
どうせ苦しむなら、その後に成長や達成感がある苦しみがいい。さらにいうなら、「しんどいなあ」「苦しいなあ」よりも、やりがいや楽しさに変換できてしまう難しさであれば、なおさらいいなと思う。