自信のカケラ
子どもの自己肯定感は、親をはじめ周囲の人たちによって育まれる。
いくらがんばっていたとしても、いくら結果が出ていたとしても、誰にも褒められたり認められたりしないままでは、がんばったり結果を出したりした自分を認められる力は得られないのではないかなと思う。
自己肯定感は、そもそも「できた自分もできない自分もまるまるOKと認められること」だ。だから、殊更結果を褒めるのは逆効果だと聞いたこともある。「できた自分が正しい=失敗した自分は不良品」という意識になりかねないからだ。(そして、わたしはこの気があるのだけれど、それはまた別の話)
自己肯定感は、自分の意識だけでは育みきれない、なかなかに繊細で複雑な感情なのかな。
自己肯定感と似たようなものだと思えるものは、自信だ。
仕事をする中で自信なさげなことは、よくないといわれる。
意味はわかる。自信がなさそうな言動をしている人に、果たして相手は仕事を任そうと思えるのかと問われると、「この人で大丈夫なのかな」と不安に思うのが自然な感情だろう。「大丈夫です!」と言い切れる人に依頼したいと思うのは当然のことで、任せて欲しければ、「大丈夫です!」と言えなければと思う。
ただ、この「自信」も、自己肯定感同様、自分ひとりでは育みにくいもののように思える。
たとえば、わたしが自信を持てるのは、仕事に向き合う姿勢や、これまで積み重ねてきた仕事に対してだ。それを踏まえて「やれます」「大丈夫です」と言うけれど、その自信は、これからこなす仕事の結果に自信がある、というのとは少し異なる気がしている。
もちろん、新しい仕事にも真正面から取り組むし、ベストを尽くす。「やり切りました」というところまではやるけれど、できあがったものが相手から見て「いいもの」かどうかは、相手が判断するものだ。そこでは結果が大切であり、経過は重要ではない。仕事だものね。
「結果が出るまで“大丈夫”だったかはわからない」から、わたしは自信を持って「大丈夫です!」と言い切るのが毎回大変なのかも。
むしろ、自信はあとからもらえるものだ。「大丈夫です」「ありがとうございました」など、一通り仕事が終わったあとに、「どうやら納品したもので大丈夫だったらしい」と胸をなでおろす瞬間、小さな小さな自信のカケラがもらえる気がしている。あとは、目に見える形で、結果が出たとき。
このカケラを少しずつ集められているから、うまくいかなかったときに全否定せずにいられるのだと思う。(“うまくいかなかった”には、単に実力不足なのと、ニーズに合わなかった・不適合だった2パターンとがあるから、そもそも簡単に全否定する必要はないのだけれど)
自信たっぷりに、書いたものを「どうでしょう!?」と差し出すことはどうしてもできない。どうしたって、「いかがでしょう?」と不安になりながら納品してばかりだ。
納得いくまでやったのなら、あとは先方に判断してもらうのみ。その結果が合わないことがあるのはしかたのないことだ。……うーん、これ、仕事ではない音楽分野ではあるけれど、マンガ「ソラニン」の芽衣子を思い出すセリフだなあ。
……と、ここまで書いてみて、わたしは「誰かに認められる」ことでしか自信が育めない人間なのかも、と思った。
それは別に仕事に限らず、創作でもだ。自分の努力や作り上げたものを、自分だけで「上出来」だとは思い続けられないというか。誰かに「大丈夫」「よかったよ」と言われて、はじめて「あ、誰かから見ても“大丈夫”だったんだ」と安堵して、自信を持てる気がする。うーん。これは、自己肯定感に通ずる話になるのか……?
いえることは、どんなものでも、自信は一朝一夕で手に入れられるものではないということ。まずは、「これだけやってきたんだから」と思える自信をひとつひとつ積み重ねていくうちに、結果としての自信のカケラも集めていけるのだろうから。