山に行くのか、山を見るのか。
書いたり話したりするとき、ベクトルの向く先が「だれか」のひとと、「わたし」のひとがいると思っている。これは完璧に分かれるわけではもちろんなく、あくまでも、どちら寄りか、という話だ。
わたしは後者。自分を掘り起こして、かさぶたを引っぺがして、悶々と考え続けて、そうして書いている。
たぶん、ひとによっては「自分語り」にしか思えないだろう。確かにその一面はあるし、そもそもわたしにとって、「考える」「書く」は自分の棚卸しの役割を担ってもいるから、「わたし」中心になるのは当たり前ともいえる。
もちろん「だれか」について考えることもあるけれど、ベクトルが「だれか」に向いているひととは、ちょっぴり思考回路が異なる気がする。
「だれか」のひとは、「だれか」のことを自分に寄せない、というか。ぽーんと離れた距離を保ちながら考えられるのだろうなと思っている。遠くから山を見上げながら、「いい景色だね」「あそこの葉っぱが色づいているね」と言えるように。
ベクトルが「わたし」のひとは、「だれか」について考えるとき、まずは寄っていったり引き寄せたり、とにかく「わたし」に近づけるのではないかと思う。少なくとも、わたしは「わたし」に近づける。山を見るより、山に行ってしまう。そうして、「なるほど、ここにこんな花が咲いているのかあ」と気づき、蓄積する。
……山にたとえてしまったせいで、「わたし」のひとがまるで大局を見られないひとのようになってしまった。決してそういうわけではないけれど、でも、確かに「わたし」のひとの方が突き詰めて考えてしまい、「本当はもっと大まかでいいんだよ?」と周りに思われているのかもしれない。
基本的に「わたし」に絡めて書いているのは、わたしが「だれか」のままの立ち位置で書くのが下手だからだ。距離を保ったままだと、勝手な思い込みで書いてしまう気がしていて、それが怖い。
他人を理解しきれないのは前提だ。その上で、せめて想像を働かせてからでないと書けない。そして想像するためには、一度「わたし」に引き寄せる必要があるのだ。
「こういう人だよね」と外側から見える姿もひとつの正解だ。むしろ、自分から見えている自分だけが正解ではないとも思っている。「こう見えるのかあ」と気づけることは大切だ。だけど、わたしは決めつけられるのが嫌なのだ。
「こう見えるよ」ならいいのだけれど、「こうだよね」と言い切られると、ムッとすることが多い。だからなのか、「こういうひとは、こういうことを言いがち」であるとか、「傾向がある」だとか、出てくる考えが遠回しになる。「こうです」だなんて言い切ると、「何様なのかわたしは」と自ら思ってしまうから。
ベクトル「だれか」のひとが、みんな断定して書いたり言ったりしているわけではないし、「だれか」のスタンスで書かれているもので好きなものも多い。その人の客観的な見方が好ましいのかな。文章には、そのひとのモノ・ひとの見方が如実に表れるから。
というか、たぶんわたしは、「だれか」で魅力的に書けるひとに憧れがあるのだ。ないものねだりなのだけれど。
ちなみに余談だけれど、山登りは特別好きではない。見ていて気持ちがいい雄大な山は、見ているだけでいいな……と思っている。体力と脚力に自信がないので。