食べる・触れる・出す・書く

「ふだん、どうやってリフレッシュをしているんですか?」
と尋ねられた。

「好き勝手に書けるものを書いたり、マンガや本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたり……ですかね」

と答えると、「わあー、仕事でも書いて、リフレッシュでも書くんですね。天職じゃないですか」と笑顔を向けられた。

あらためて、自分でも天職だなと思った。そもそも、どこかに入社した経験もなく、出産育児によるブランクもあるわたしが人並み程度に働けている事実をもってしても、「ありがたい仕事に出会えた」という気持ちしかないのだ。金銭的にも、やりがい的にも。

「本当に書くのが好きなんですね」と言われることが多いのだけれど、気づいたときにはものを書いていたから、仕事になろうがなるまいが、書くことはわたしにとって自然なものだ。

確かに好きでもあるのだけれど、書きつづけているのはもはや好きだからとか楽しいからではないように思う。書き上げた瞬間は気持ちいいし、達成感も得られるけれど、好きだから書いているというよりも、書くことはわたしにとって食べることと同じものなのだ。

インプットをしたいかアウトプットをしたいかだけの違いで、出したければ書くし、入れたければ読むし観るし聴くのがわたしのリフレッシュ方法だ。読んだり観たり聴いたりしたら、どのみち書きたくなってしまう。触れられるコンテンツがありつづける以上、書くことをやめることはないのだろう。

食べたら排出するのと同じだけれど、食べたあとの排出はムダなものである、という点で異なる。インプット後に出すものは、取り込んだ栄養を自分の血肉にしたあと、叩いて組み合わせて磨いて昇華させたものだから。出来不出来は別として、一旦咀嚼して飲み込まないと、形にはならない。無理やり出したものは歪で、外には出せないなと思う。

マガジンに「宛先のない手紙」と名をつけているように、このnoteも好き勝手に書いている。独白といった方が適切で、手紙ではないかもしれない。仮にも書くことを仕事にしている人間なのだから、あまりにもお粗末なものを書いてしまうのはどうなのだろうと思いもするけれど、息を吸って吐くように書く場所も、やっぱりわたしには必要なのだ。


大したことのない「わたし」を可視化することに特別な理由はない。読まれたら嬉しいけれど、顕示欲が勝つのであれば、きっともっとほかに書けるものがあるだろう。わたしのnoteは私的で、人によって見れば自慰的かもしれない。ただ、わたし自身がどこの誰ともない人が発した言葉に触れることが好きだから、似たような誰かが読んでくれたらいいなと思う。

「好きなことを仕事にできたとしても、それはそれでつらいものがある」とわたしに言ったのは、好きなことを仕事にした父だった。ただ、わたしはうまく言葉にできない苦しさはあれど、幸いつらさは感じていない。

食べること全般につらさを感じる人は少数派で、つらく感じるのであればそれは病気だ。わたしにとって「書く」のはそれと同じことで、「咀嚼しきれない」「言葉に当てはめられない」「今は書く気分じゃない」ことはあれど、書くこと自体はつらくなく、書くことに対する特別な意識もないのだ。

仕事としての「書く」がたとえなくなる日がきたとしても、きっとわたしは物理的に書けなくなる日まで書きつづける。そんなことを、あらためて思った。

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卯岡若菜
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