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言い切るときの主語は誰ですか

曖昧な発言は、良しとされないことが多い。

自信がなさそうに捉えられてしまい、それが信頼感の欠如にも繋がるからだろう。

方向性をずばり指し示してくれる、言い方は悪いけれど「口が上手い人」は、多くの支持を得ることが多いように思う。

昔でいえば、小泉元首相だとか。政治家でも起業家でも、「言い切る」ことができる人は、周りに安心感を与えるのか、人気に火がつくことが多いように感じる。堂々とした様子に、「この人なら安心だ」と思うのだろう。

これは、昔の日本が君主制であったからだと父から聞いたことがある。確かに、村でも、国でも、常にトップに立つ「誰か」のいうことにきちんと従うことが当然とされてきた。「お殿様のいうことであれば安心だ」という思考回路は、わたしたちのなかに根強く刻まれているのかもしれない。


とはいえ、言い切ることがいつでもいいことなのかというと、そうではないとわたしは思う。

わたしたちのような一般市民にとって、言い切ることが必要とされるシーンは、「自分のこと」を表現するときだけなのではないかと思うのだ。

意思表明は、きちんと言い切ることで信頼感を得られるものだと思う。ほかの誰でもない自分のことなのに、「〜かもしれません」「たぶん〜だと思います」など、曖昧な表現ばかりをしていると、「この人、大丈夫なのかな?」と思われてしまうことはあるだろう。「わたしは〜が好きだ」「〜とは思いません」と言い切ることで、その人の芯を相手に伝えられるのだとも思う。


ただし、この主語を一般的なものにしてしまっている言葉を、たびたび見かける。

「女性は〜」「男性は〜」「夫婦とは〜」「専業主婦は〜」「若者は〜」など。わたしはライターだから、「〜するのがライターとして正しいこと」のような意味合いの言葉を目にすることも多い。

この類の言葉は、“そうではない”人たちから、たいがい反感を食う。いちいち目くじらを立てる必要もないのだろうなあとは思うけれど、そもそもなんでみんなそんなに主語を一般的なものにしてしまうのだろう、とも思う。

それを思っているのは、ほかでもない“その人”だ。“同じカテゴリーに入るみんな”ではない。代表者として代弁できるくらい、その人はそのカテゴリーの中で目立っていたり影響力があったりする立場なのだろうか。

それとも、自分の考えとして表明できないから、主語を一般的なものにすり替えてしまうのだろうか。「わたしの意見ではないですよ、一般的なものとして言っているだけです」と逃げられるように。……もし、そうだとしたら、それは形として言い切っていたとしても、実は言い切れていないのではないかな。


言い切るときは、主語を「わたし」にしていたい。主語を一般的なものにするときは、あえて言い切らないようにしたい。

正直、言い方はまた悪いけれど、「この人、こんな言い方をしているけれど、何様のつもりなんだろうなあ」と感じることがある。本人がそう考えているのなら、主語を自分にして強気な発言をすればいいだけなのになあ。

一般的な話をするときに言い切らないのは、決して逃げではない。むしろ、自分のことは言い切りながら、その他のことでは言い切らないことで、「多角的に物事を見られる、器の大きな人なのかもしれないなあ」とわたしは好感を持つのだけれど。


……と、これもまた、わたしの一意見に過ぎないのだけれどね。

いつでもどこでも、スパンと言い切ればいいわけではないと思うのだ。




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卯岡若菜
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