うぬぼれ配信映画夜話 第9回 中田秀夫の「恐ポップ」とは一体何だったのか。 ー 『事故物件 怖い間取り』(2020)と『“それ”がいる森』(2022)を中心に
2022年もJホラーが多々上映されていましたね。私も忙しい中なんとか劇場に足を運んで楽しんでいたのですが、その中で目についたのはJホラーの定型から外れた上でJホラーというジャンルを再考する作品群でした。
例えば、木村ひさし『貞子DX』(2022)では、Jホラーの恐怖演出をギャグとして相対化した上で、SFとしての側面から原典が捉えられています。シリーズで唯一映画化されなかった『ループ』を現在の社会状況を踏まえて再解釈したかのような『貞子DX』はJホラーの本質を思索しつつも、過去のシリーズとは明確に異なった演出が為されていく。
テレビドラマでよくみられる狂騒を反復していく『貞子DX』を観ながら思い出したのが、Jホラーのパイオニアであったはずの中田秀夫が近年持ち出した「恐ポップ」という概念でした。事実、今年も数々のJホラーが上映されていますが、本流と呼べるものはほとんどなかったように見受けられます。そういった時代の流れについて考えた上で、あの途方もなく馬鹿げた作品に見える『“それ”がいる森』(2022)について分析していきたいと考えております。
Jホラーの限界
よく言われていることではありますが、Jホラーはデジタル映像の黎明期に生まれ育ったジャンルでした。映像が本来持つはずの実存が揺らぎはじめた時期に、人の視覚とそこに根差した認識をも揺らがせる存在としての幽霊=ゴーストを、映像のノイズとして表出させる。その視覚を揺さぶる曖昧な影として幽霊を描く方法論こそが「小中理論」であり、それを模範とした作品群が生まれていくことになります。また、高橋洋と黒沢清による「恐怖」という概念自体への思索も加えられ、現在のJホラーというジャンルの定型は固められた、といえるでしょう。
しかし、この恐怖自体がある種のアンビバレントに引き裂かれたものでした。そもそも、心霊動画やJホラーは映像の実存を前提として成立するものです。私たちが映像を現実の表象として受け止めなければ、映像が揺らいだとしても恐怖に怯えることはありません。ビデオホラーがホームビデオや監視カメラといった身近な映像を基に作成されたのもそのためです。映画で描かれたことが現実でも起こりうる記録である、そういった認識が私たちになければ恐怖にはなりえない。現実を揺るがす影は、確固たる現実という土台なしには成立しえないのです。
Jホラーの隆盛を支えていたのは、レンタルビデオの存在でした。ビデオが象徴していたように、当時は映像と現実の結びつきがまだ保たれていた時代でした。小型のフィルムが組み込まれたビデオは、私たちに現実の写しとして恐怖を見せ、手にとる実在として嫌な感慨を残していった。『リング』(1998)が大ヒットしたのは、「ビデオ」という媒体が私たちの生活に入り込むメディアだったからだといえます。
Jホラーがフェイクモキュメンタリ―へと派生していくことはある種の必然であり、ドキュメンタリーのもっともらしさ、現実を投影する在り方をホラーは依り代としていたのです。
ですが、現在はどうかといえば、そのような映像の現実感が喪失している。そもそもビデオという媒体自体過去のものとなっており、映像はただのデータとして遍在するものになってしまった。同時に、デジタルの映像は容易に加工ができるものであり、そうである以上、映像は現実というより主観に近接していきます。以下の方が投下した一連のツイートは、そういった映像作品が持つ潮流に対する鋭い指摘の一つでしょう。
改変可能なものであることが自明となった、実在を示すことのない映像。Jホラーの演出が使い古されたものとなっていくと同時に進行したデジタル化は、Jホラーが恐怖の依り代としていた「もっともらしさ」を消失させることとなります。Jホラーはフィクションの定型として形骸化していく訳です。
2022年は、Jホラーの文法を踏襲したモキュメント・ホラーが次々に上映された年でもありました。ケヴィン・コー『呪詛』(2022)やバンジョン・ピサンタナクーン『女神の継承』(2022)がそれです。アンチクライストとしての「太母」を軸にした両作は、Jホラーの文法を踏襲しつつ、信じるべき普遍(神、或いは映像のアウラ)が喪失した世界を描いているという点で共通しています。特に『呪詛』は前半のマンションでの長回しをはじめ、強度の高いホラーシークエンスを携えた作品です。ですが、その文法が精巧であれば精巧であるだけ、虚構としての側面がむき出しとなってしまう。
『呪詛』には、ビデオカメラに映った怪異を「REPLAY」というテロップと共に反復するシークエンスが存在します。『本当にあった呪いのビデオ』シリーズの引用なのですが、それが丁寧に挿入されることで急に引き戻されたような感覚に陥ってしまう。映像を見てそれを現実と認識する知覚の在り方は、もう私たちから喪われてしまっているのです。
だからこそ、近年のJホラーは、過去やビデオカメラの実存へと回帰しようとしていきます。Jホラーの正攻法を守っていたのはむしろ配信の連作シリーズでしたが、三宅唱『呪怨 呪いの家』(2020)や寺内康太郎『フェイクドキュメンタリーQ』(2022)、そして谷口猛『心霊マスターテープEYE』(2022)といった作品群がメディアが記録としての意味をもっていた過去にフォーカスを当てるのはそのためです。また、『呪詛』や『心霊マスターテープEYE』が編集者=主観の悪意やゆがみを問題することで現在性を確保していくのも、現在のメディアの在り方が反映されているからだといえるでしょう。
そういった流れと時と同じくして、若い世代が持つメディア感覚とJホラーのズレを指摘したのが、Jホラーのパイオニアだった中田秀夫でした。
恐ポップとは何か ー 『事故物件 怖い間取り』について
※中田秀夫『事故物件 怖い間取り』(2020)と長江俊和『SHARE』(2014)のネタバレを含みます。
中田秀夫は出演女優やジャンルへの興味によって作品の出来が極端に変わる作家であり、近年の作品は褒められたものではないものも多く存在します。例えば『嘘喰い』(2022)などは、正直擁護するところがどこにもない位酷くて、観ている間に死にゆく脳細胞を意識せざるをえない作品でした。昔は昔で『インシテミル 7日間のデス・ゲーム』(2010)もありましたしね。ただ、ロマンポルノやJホラーについては「作品」を撮っているように見受けられます。
その中田秀夫が「恐ポップ」という概念を打ち出したのが『事故物件 怖い間取り』(2020)でした。本作について、中田はアメリカナイズした若い人向けのホラーを撮るという目的意識を持っていたとインタビューで語っています。同時に、Jホラーの方法論は変えなければならない、と。
実際、本作は怪異をキャラクター化している節があり、Jホラーの恐怖演出を踏襲しつつも、マイルドなものにしようとしていた節があります。特に終盤出てくる死神の造形は顕著で、そこに否定的な意見が集まりました。怖くない、何だあの黄金バッドは、といった批判をネット上でよく見たと記憶しています。
ですが、先にみたメディアの変化と主題を考えた際、このスタイルは強い意図を持ったものだったように自分には思えるのです。
主人公のタニシは、自らの人生を配信することで成り上がろうとする芸人です。その実存が曖昧な存在である以上、彼にとって恐怖は真に迫ったものとしては這い上がってこない。それと同様に、メディアに現実感を浸食された私たちにとって、恐怖は認識しえないまま浸食するものではないか。
事実、タニシは恐怖を観たとしても自覚せず、無自覚に死へと突き進んでいきます。そういった私たちの現実感のなさを表象するために、あえて怪異はあのような表象となったのではないかと思うのです。
その一方、彼を情感をもって見つめるヒロインとの距離感によって恐怖を表象していく手つきや、刹那にインサートされる不動産屋の唇のアップといったショットの強度は、本作が本気になった職人の手によるまごうことなき映画だということを示しています。
また、本作はデビッド・ロバート・ミッチェル『イット・フォローズ』(2015)をはじめとした引用に彩られた映画ですが、中田秀夫が侮れないぞと私は思ったのは、実をいえば批判の対象であった死神の造形に対してでした。あの死神は映画ファンであればイングマール・ベルイマン『第七の封印』(1957)の引用だと考えると思います。ですが、これは引用は引用でも孫引きなのです。実をいえば、Jホラーで『第七の封印』を引用している作品はもう一つ存在します。『放送禁止』シリーズを手掛けた長江俊和の最高傑作、『SHARE』(2014)です。
シェアハウスの中で暮らす人々を晒していくリアリティ番組『テラスハウス』を模した本作は、自らの生活を配信によって見世物にする内に、監視する視線を内面化し、陰謀論的な想像力を膨らませながら狂っていく人々を描いていきます。本作において精神に異常をきたした人々がラストで対峙するのが、『第七の封印』のような死神なのです。そこでは、メディアにさらされた私たちの生が不明瞭なものであり、死や幽霊に容易に近接しうる様が描かれている。『放送禁止』シリーズを手掛けた長江俊和の集大成ともいえる作品でした。
しかし、本作はその批評性故に、永遠に世に出ることがない作品でもあります。本作は、スマホ連動のアプリで視聴者が謎を解いている間にこっそり写真を撮り、ラストに「次の住人はあなた方です」と大画面で視聴者たちの写真を映していくことで、私たちが登場人物たちと同様にメディアの視線にさらされた存在であることを示唆して閉じられます。誰も見ることはできないのはこのウィリアム・キャッスル的な一発ネタがあまりにも色々な問題を抱えているからなのですが、しかし、メディアと私たちの関係を描くホラーとして最も優れた作品の一つでしょう。(注1)
私が『事故物件』に驚かされたのは、そのような秘匿された文脈さえ掘り起こす中田秀夫の、存外に強いジャンルへの意識でした。元々メロドラマの人だと思っていたのもありますが、「そんなにJホラーが好きだったのか、中田秀夫」と語りたくような意志を、配信者と死神とのリアリティのないバトルに感じていた訳です。
ここでの中田秀夫が、Jホラーのもっともらしさを捨てたことを一笑に付すことはできないと、自分は思うのです。むしろ、Jホラーの文脈に囚われていては現実を喪失した若者や、底の抜けてしまった日本の現在を描くことはできないのではないか、と考えていたとしたら?
私が『“それ”がいる森』を清水崇『牛首村』(2022)や『呪詛』より評価し擁護するのは、そこに現在の日本を表象するという意志を最も感じたからでした。
『“それ”がいる森』とは一体何だったのか。
※『“それ”がいる森』のネタバレを含みます。
『事故物件』と同じ座組で組まれた本作は、当然、Jホラーの新作として宣伝され、公開されました。しかしその実態は、Jホラーの文脈から大きく逸脱した作品のように世間では言われています。本作の怪異である「それ」とは子どもをさらい喰らう「宇宙人」であり、中盤から既存のJホラーからモンスターホラーに転換する仕掛けが組み込まれていたのです。この作品構造が本作の評価を二分することになります。否定的な評価として、Jホラーとしてのルックも演出も貧しい、それこそ中田秀夫の衰退だといった声が多く挙がります。実際、前作にあたる『嘘喰い』の凄惨たる出来と合わせて評価する人が多いのは仕方ないことでしょう。一方で、B級モンスターホラーや子供むけエンターテイメントとして楽しめる、といった肯定的意見も散見されました。賭けに勝ったとは言い難いものの、持ち込んだネタを考えれば本作はまぁまぁ見られていたように思えます。
しかし、本作はJホラーから大きく逸脱するように見えてその実、Jホラーの文脈や主題を踏襲した作品です。自分は、大きく二つの文脈を引き受けていると考えています。その一つが脚本家、ブラジリィー・アン・山田の問題意識です。
『事故物件』から引き続いての脚本担当であるブラジリィー・アン・山田は清水崇『こどもつかい』の脚本家です。本作は子どもとその周囲にまつわる社会問題を描くという主題において『こどもつかい』の後継作という色が強いのです。山田のアプローチは伊藤潤二に近く、社会風刺としてホラーを捉えている節がある。その彼の作家性が本作のスタイルに大きな影響を与えているのは確かでしょう。
そしてもう一つ、忘れてはならない文脈があります。本作はエンドロールでUFOの実録映像を流していますが、実をいえばJホラーの歴史上、同じようなエンドロールで終わる作品が存在します。本作が近年最も重要なモキュメンタリ―、小路谷秀樹『虚空門GATE』(2019)を意識した作品だということは日の目をみるより明らかでしょう。
UFOを呼ぶことが出来る男、庄司哲郎を追っていくうちに中盤で大きな事件に遭遇してしまう本作は不可解な作品です。自分は、信じたものが反転していく状況から、人が何かを信じることがどういうことなのかを、家族愛を軸にしたメロドラマとして描いた作品だと捉えています。
『虚空門GATE』で描かれるUFOを信じるか信じないかの葛藤は、虚実の蝶番が壊れた現在における「事象を真として信じること」の意味を問うドラマとなっている。同時にそれは「現実」におけるある事件を反転するための営為でもあります。こういった『虚空門GATE』の物語構成や真偽に対するスタンスは、本作のスタイルにも強い影響を与えています。
『“それ”がいる森』において、「虚実」の「実」こそがJホラーの表象がもたらすもっともらしさだったといえるでしょう。冒頭、「それ」の正体が明かされない前半部は、Jホラーの定型をなぞるよう演出が為されていきます。主人公が温室で「それ」に遭遇するシークエンスなどがそうですが、Jホラーのロングテイクと闇が反復され、その手付きは少なくとも『嘘喰い』ではついぞ見られなかった空間設計や照明を意識したものになっています。
ですが、その正体が明かされた中盤以降、そういった描写はなくなりあからさまなモンスター映画へと変貌する。その契機となる、小日向文世が宇宙人の存在を真顔で力説する中盤のシークエンスは名シーンで、あまりのことに「なんだこれは」とただただ笑うことしかできませんでした。『リング2』(1999)の意向返しともいえる描写は、(『リング』シリーズ自体、中田秀夫の映画というより高橋洋の映画ですしね)Jホラーへの明らかな挑戦状でもあったように見えるのです。ただ、そういった転調は、一方で映画をジャンル映画特有の馬鹿っぽさを帯びたものに変えてもいると言えます。ただ本作が白眉なのは、そのバカバカしさに日本の現実を重ね合わせていることでしょう。
物語の意味
宇宙人の目的は、子どもをさらい、食糧にすることだと設定されています。地方の子どもが失踪していき、彼らが危機に瀕していく設定は、少子高齢化のメタファーとして宇宙人を描いていると解釈できます。
同時に、少子高齢化に対する世代ごとの断絶を、宇宙人に対する登場人物の反応によって描写しています。子どもたちは、宇宙人を直接の危機として捉え、助けてほしいとSOSを発信していく。それは子どもにとって宇宙人=少子高齢化が切実な問題であることの表れです。一方で、社会に属する大人たちはその現実を見つめることなく、前例がないからとまともな対処をしようとしない。結果として手遅れになった段階で、警察や先生たちは宇宙人たちに屠殺されてしまう。
放置されてきた結果、今の目の前に危機が迫り、状況は崩壊に瀕している。であるにも関わらず、その現実を見ようとしないまま、対策を打ってこなかった社会と組織…。本作における国家と宇宙人の関係は、それこそ少子高齢化と子どもに対する日本のスタンスを表象したものに他なりません。現実には社会の常識に囚われない抜本的な対策をとるべきなのに、そういった施策を検討しないまま放置し、結果として底が抜けつつある日本。Jホラーから逸脱した、ルックの貧しいモンスターホラーに託されているのは、そういった私たちの現代なのです。
中田秀夫のジェンダー表象について
そういった状況に対してどうすべきか。本作は子どもと社会に挟まれたミドルエイジが奮闘する物語構造を以て、その答えを模索しています。(注2)
主人公である田中淳一は、妻の父親が経営していた会社を立て直したものの、その方法論が受け入れらず家を出ることになった中年男性です。この設定にも父権=社会通念とそれに囚われない新しい世代の対立が織り込まれている訳ですが、彼は妻と子から離れたことで父としての役割を引き受けられなかった存在として表象されます。相葉雅紀の純朴さや素人っぽさには、責任の取ることができない弱い男性性が仮託されている。
そういった彼が、息子が家に来、怪異が近づいていくにつれて、父としての行動を求められるようになっていく。彼はその過程の中で、息子の担任教師である北見絵里と知り合い、ともに怪異を追っていくようになる。絵里もまた、上司の無理解と無思慮に悩まされつつ、子どもの声を聞いて事態に対処しようとします。本作では、大人になったばかりの男女が社会常識や組織構造に疑念を抱き行動していく物語が展開されている訳です。
そういった彼らは子どもを守るために、それぞれ別々の場所で宇宙人と対峙します。この物語のクライマックスで重要なのはその宇宙人の造形です。
淳一は、息子を助けるために森に向かい、宇宙人たちと対峙します。そこで宇宙人はグレイのような肢体を割け、食虫植物のようなフォルムになって襲い掛かってくる。淳一の前で、宇宙人は女性性を模したヴァギナ・モンスターとして表象されています。対して、絵里が学校の地下で遭遇する宇宙人は、男性性を模した怪物として彼女の前に立ちはだかる。
両者はそれぞれ自らを侵食しようとする異性性の恐怖と対峙し、退けることで子どもを守る大人になることができるという訳です。そういった危機を通過した両者は、ラストの校庭は別々の立場から子どもを見守っていく。ここで物語は閉じられます。
少子高齢化を題材にした本作の帰結として、この終わり方は自分の中ですとんと腑に落ちるものでした。それぞれの性を恐怖の象徴として描きつつ、それらを撃退することを通過儀礼として描き出している。それは男女の性における加虐性を意識させつつ克服すべきものとして描いたと考えるのは穿ちすぎでしょうか。ただ、少なくとも自分には、男性性の視点をなきものとして去勢しようとする作品やどちらかの性別を切断処理してしまう映画よりも、上等なものに見えたのです。
中田秀夫は本作の前に『殺人鬼を飼う女』(2019)を撮っています。ロマンポルノらしいエロティックな表象にまみれたこのスリラーの佳品には、男女が求めあいながらもどうしても持たざるをえない断絶が表象されていました。そういった作家性、性を見つめた結果辿り着いた帰結として、この上なく正しく、美しいもののように見えたといっては言い過ぎでしょうか。
中田秀夫が「恐ポップ」を銘打って行おうとしていたのは、自身のフィルモグラフィーが抱えていた男性性を相対化しつつ、現代に根差したメロドラマへと換骨奪胎していくことでした。それこそがJホラーの演出法とそれが内包していた男性性に対する、パイオニアによる批評的な営為だったと、自分には思えてならないのです。
終わりに
如何でしたでしょうか。『ユリイカ』のJホラー特集を読んでいて川崎公平や大岩雄典の論考に恐れおののいたり安里麻里の論考にげんなりしたりしていたのですが、(私がブログや同人批評で書いていた話の何週遅れかと。ブログ更新のやる気が失せた理由第2位)その辺で触れられていないJホラーの現在について論じられたかなと思います。
さて、虚実の蝶番が外れたことに自覚的だったのは、中田秀夫だけではありません。フェイクドキュメンタリーの名手であった白石晃士『オカルトの森へようこそ THE MOVIE』(2022)や、若者の寄る辺なさを幽霊表象に託して、徹底した演出でメロドラマを撮り上げた高橋名月『左様なら今晩は』(2022)といった傑作も忘れてはならないでしょう。実際にJホラーというジャンル自体が瓦解しながら裾野を広げていったのが2022年だった訳で、それが今年どうなるかはしっかり注視していけたらと考えております。
皆様、細々と続けていきたいと思いますので、今年もよろしくお願いいたします。
(注1)実際深夜3時位からゲリラ的にスタートして終わる構成含めて、そもそも当時でもコンプライアンス的には大大アウトだった訳で、『アサギの呪い』(2000)とも違ってそれこそ完全な放送禁止というね。最後の大ネタだけモザイクかけて劇場公開とかしてほしいのですが、そもそも長江俊和は映像作家として数年新作を出てないからなぁ。
(注2)書いていて疑念に思ったのは北見絵里の年齢。劇中特に明示されていなかった気がするのですが、普通に担任を持っているので20代後半~30代前半位と考えていたのですが、もしかしたら見落としているかも。
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