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汝自身を知るために。-科学、哲学、宗教- #339

パーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designでは、その名の通り様々なDiscipline(学問領域)を超えたデザインを学んできました。このDisciplineには、必ずしも「科学的な」学問だけでなく、Lived ExeperienceやSituated Knowledgeと呼ばれるような幅広い人類の知恵を含んでいました。

こうした学びから、科学だけでなく哲学や宗教などの人類の知恵全般に興味が湧きつつも、科学と哲学と宗教をどのように関係づけると納得がいくのかと悩み続けてきました。今回はその暫定的な結論を書いてみます。

まず、私なりの科学、哲学、宗教の定義を以下に示します。

科学:理性や言語によって解明できる領域
哲学:理性や言語で解明できる領域とできない領域の境界
宗教:理性や言語によって解明できない領域

科学によって説明できる領域を円で示す(円の内側を科学とする)ならば、円周が哲学、円の外側が宗教であるというイメージです。このイメージをしてみると、科学の発展は円の内側が緻密に描けるようになることで、哲学の発展は円周が明確になることとも言えます。そして、科学と哲学が発展しても扱えない円の外側を扱うのが宗教です。ちなみに、この関係性はウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』やウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』を参考にしています。

以降で、科学、哲学、宗教のそれぞれについてより具体的に何を参考にしているのかを書いてみます。


科学

ダニエル・デネットが『ダーウィンの危険な思想』で進化論を万能酸Universal Acidと呼ぶように、進化論はあらゆる分野に影響を与えています。彼も進化論に基づいて思想を展開しており、この考え方を自然主義と表現しています。つまり、基本的にはオッカムの剃刀的に、超自然的な説明(デネットの言う「スカイフック」)なしにどこまで説明できるのかに挑むアプローチです。

なお、注意すべきなのは「自然」とみなされるものを高く評価すべきといった道徳的な判断は含まないということ。この「である」から「べき」を導く推論は自然主義的誤謬(またはヒュームの法則)と呼ばれています。自然主義は、あくまでも超自然的な存在を仮定せずに物事を説明しようとすると姿勢のことを指しています。

また、デネットと相互に影響を与え合ったリチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』の中で提唱したミーム(Meme。文化的遺伝子とも訳される)という概念は、進化論が生物学以外に広がるきっかけの一つになりました。ちなみに、私がライターとして文章に興味があるのも、文化や知恵という文化的遺伝子を運ぶ乗り物しての役割に惹かれているからです。

ドーキンスが唱えた「ミーム」というミームは影響力を持つ続け、生物的遺伝子Gene文化的遺伝子Memeはともに影響をし合って進化するとする遺伝子-文化共進化(ジョセフ・ヘンリック)という理論も生まれました。こうした自然主義や文化的遺伝子、共進化といった進化論由来の理論は万能酸のごとく染み渡り、科学的理解の前提となっています。


哲学

チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を発表して現代の進化論の礎を築いたのが1859年。その後の哲学者は進化論という最先端の科学を哲学に取り入れるようになりました。むしろ、進化論と整合性のない哲学は認められにくい時代が20世紀以降だとも言えます。

進化論の影響は宗教にも及びます。ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』で「神は死んだ」と書いたのが1885年。19世紀後半は進化論の台頭により、科学と宗教の対立が激化した時代でした。「これまで真理とされていた宗教(特にキリスト教)を信じ続けてもいいのか?」という悩みを克服することが当時の一大テーマだったようです。

この悩みに対し、「科学と宗教を同じ視点から考えられないか」という仮説から生まれたのがプラグマティズムという哲学でした。プラグマティズムは1870年代にチャールズ・サンダース・パースやウィリアム・ジェームズらによって提唱された考え方です。

プラグマティズムの定義は人それぞれなのですが、共通して挙げられる特徴に可謬主義かびゅうしゅぎがあります。可謬主義とは、宗教が真理として絶対的に正しいとする教えも一つの仮説ととらえ、その教えが科学的検証の結果として誤りと判断されれば修正するという考え方です。宗教の真理も科学の対象と考えことで、科学と宗教を同じ土俵で議論できるようにしたのです。


宗教

宗教は科学で語り得ぬものを扱うと定義しましたが、その語り得ぬものの一つに幸福論があります。どの宗教も「どのように生きることが幸福なのか」という問いに対して一定の答えを提示しますが、これまで見てきた科学や哲学とも整合性が高いものとして仏教が挙げられます。

仏教は現在のネパールにあるシャカ国の王子であったゴータマ・シッダールタが2500年以上前に唱えた教えに基づいているとされています。彼は「生きるとは苦である」「自我などない」という前提、進化論的に言えば「生命は感情や欲望に振り回されて生きている」「『自分』とは遺伝子の見せる幻想である」という前提から、「『自分』という幻想に気づいて感情や欲望に振り回されない状態」こそが真の幸せであると定義しました。そして、坐禅(瞑想やマインドフルネス等を含む)という身体的な実践法を提案しているのも仏教の特徴です。

こうした仏教の根本的な教えは変わりませんが、その伝え方は多様です。仏教では相手に合わせて語り方を変えることを対機説法と呼んだり、厳密には異なるけれど伝わりやすい表現を方便と呼んだりします。科学以前の時代では神話や呪術的な説明の方が伝わりやすかったのかもしれませんが、現代は科学や哲学的な説明の方が納得しやすいと思います。こうした時代の変遷に応じて、現代科学&哲学による仏教の語り直しは広がりを見せています。

たとえば、ロバート・ライトは『なぜ今、仏教なのか』で仏教の妥当性を進化心理学の視点から論じています。また、ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』や『21 Lessons』で、科学の発展が必ずしも幸福に寄与しないことや物語(虚構・フィクション)の与える影響を仏教的視点に基づいて論じています。

二人とも個人的経験から瞑想の効果を認めてはいますが、瞑想が広まれば世界は良くなるといった楽観的な主張はしていません。現代は退屈さをスマホによってすぐに埋められる時代。感情をかき乱すニュースや欲望を掻き立てる広告が溢れる注意経済Attention Economyの登場で、ますます坐禅が実践しづらくなっているのも気になります。

とはいえ、興味深いのは、彼らのようにキリスト教やユダヤ教などを信仰している人であっても仏教を取り入れているように、仏教は他の宗教とも相容れない教えではないということ。New York Zen Centerでも、キリスト教やユダヤ教を信仰していながらも坐禅をする人々を見かけました。

特定の宗教の影響から独立しようとする立場を世俗主義と呼びますが、仏教は世俗主義と相性が良いのでしょう。ちなみに、仏教徒ではないけれど仏教を参考にする人をナイトスタンド・ブディストとも呼ぶようです。近代西洋的な科学&哲学と古代東洋発の仏教を比較することは、時間的にも空間的にも多様な視点を確保するのに役立つはずです。


まとめ

ここまで紹介してきた私の考え方の軸(思想? 偏見?)を科学、哲学、宗教からあらためて整理します。

科学:進化論に基づく自然主義
哲学:科学と宗教を繋ぐプラグマティズム
宗教:仏教を参照する世俗主義

もちろん、新しい科学や哲学の登場、個人的な宗教的体験によって更新されていくこともあるでしょう。ただ、「汝自身を知れ」という古くからの教えがあるように、自分自身の考え方を言語化しておくことは意味があるはずです。

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