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2024年6月9日 やっぱり誰かとしゃべりたい


ここ最近、強く感じるのは、
人間というのは誰かとしゃべりたい生き物であるということです。

SNSでも現実でも、意外と皆、話す場所や話す相手を探しているような気がします。
特に最近のSNSでは、そういう欲望を歪んだ形で出している人を見かけます。
喧嘩をふっかけたり、
いきなり挨拶もなくタメ口でリプライを飛ばしたりしている人の
アカウントは大体、
リポストかつぶやき、一方的なリプライでいっぱいです。
特定の誰かと人間らしいやりとりをしている様子はありません。
例えば、挨拶とか感想とか体調を気遣うとか、そういう普通のやりとりがないのです。
誰かに言葉をぶつけていたとしても、返事が返ってきていません。
まあ、見ず知らずの人に言葉を「ぶつけて」いるので、
返ってきていないわけですね。
知り合いでもない人に、一方的で上から目線のリプライを飛ばされても会話をする気にはは、なりません。
あんなに虚しいことはないと思うのですが、何度も繰り返している形跡があります。
その行動をやめない人が多いということは、
やはり、諦められない何かがあるのでしょう。
AIに向けてではなくてSNSで、
不特定多数、もしくは有名な人に話しかける理由、それを辞められない理由…、
それはつまり、冒頭に書いたことです。

老若男女、そしてその区分けにおさまらない人だとしても、
皆、誰かとしゃべりたいのです。
直接でも、通話でも、SNSのやりとりでも、
手段はどれでも。
何をしゃべりたいのか?と言いますと、
自分のことを、
これまでに自分が体験したことを、
これからの不安を、
今、頭に浮かんだ閃きを、
昨日見てうなされた夢を、
食べたいものを、
ダイエットの苦労を、
見つけた花の美しさを、
はらわたが煮え繰り返る思いを、
本当のことを隠した嘘を、
現実になりそうもない夢を、
宇宙の果てがあるのかどうかを、
ありとあらゆる瑣末なことから遠大なことを我々は、誰かに語りたいのです。

言葉にして、誰かに投げかけると、
長々とした返事がなくとも、
それを聞く誰かの眼差しや表情、息遣いが返ってきます。
返ってくるような気がする、と書いた方がより正確でしょうか?
そして、
相手の頭の中に、自分の言葉から広がるものが生まれます。
相手がもしその頭の中のことを、言葉にしてくれれば、一番よいのです。
それらは全て、新しい反応であり、刺激です。
人間は他者のそういう反応や刺激を受け取って、はじめて、
「この世界にいるのは自分だけではない」と実感できるのです。

きっと、人間は、それをどうしたって求めるものなのです。
人間は群れの生き物から、進化した生物で、
孤立して生きるようには出来ていないのではないのでしょう。
あげた鳴き声に、仲間が反応してこそ、敵から逃れられ、食事をとれ、繁殖できた生き物の名残が我々の中にはあるような気がします。
自分が発した言葉に対する、反応を無意識に求めてしまうのです。

洞窟で数十年暮らしていた人や人里離れて山奥で暮らす人もいるにはいるようですが、希少ですし、
望んでというよりもやむにやまれず、その状況になったことの方が多いでしょう。
おそらく、言語は内省のために生み出されたものではなく、
仲間と会話をするために出来たものであり、そもそも、相手の存在あっての機能だと思うのです。
ですから、脳内でしゃべる、独り言を言うことは、
ボールを壁に向かって投げることよりももっと「ひとり」です。
壁はボールを跳ね返してくれますが、
脳内の言葉を跳ね返してくれるものは何もありません。
自らが発したことばが残るだけです。
そこには、新しい反応、刺激が生まれません。
しかし、脳は反応や刺激を求めます。
きっとそのせいでどんどんと過激な意見や言葉になっていくのでしょう。
それでも、求めている他者の反応や刺激は返ってきません。
それが日常になると、相手の反応を感じたり、見つけたりすることも出来なくなっていき、
自分と違う意見や想像していない反応があっただけで驚き、腹が立ってしまうのでしょう。
そういうことをつらつらと考えてみると、
別の個体と話を交わすことがなくなると、
種としての根本の生き方から離れ、どこかがズレていく、歪んでいくのももっともなのかもしれないと思うのです。

真に孤独を愛する人というのも世界中を探せばいるのでしょうが、
今のところ、私は出会ったことはありません。
真に孤独を愛する人というのは、かなり少ないのではないでしょうか。

人間という生き物を構成している認知の半分は、他者からのフィードバックです。
完全に誰ともしゃべらず(音声だけでなく、文字や手話や点字も禁止する)
育つことができる人間がいたとして
人間らしい考え方やふるまいに育つとは思えません。
きっとそれは二足歩行の別の生き物になるのではないかと想像します。

これほど、おしゃべりを求める生き物なのに、
人間社会でのおしゃべりの位置は大して高くありません。
むしろ他愛ない、子どもじみたもの、
誰でもできる
それほど、重要視しなくてもよいモノと考えられているような気がするのです。

それが良くないんじゃないだろうか、と思うのです。
「誰かとしゃべりたい」のは当たり前だし、
自然な欲求だし、それがないと、きついよね…という認識に
そろそろなってもいいのではないでしょうか。

しゃべりたいことを、何にも気にせず、
しゃべれる相手がいて、
実際にしゃべっている人ってどれくらいでしょう。
案外、少ないのではないかと思います。

高齢化ですし
1人暮らしの人も多いですし、
人間が本来持つ、おしゃべり欲みたいなものが
満たされていないことが多いような気がします。

もっと皆で気軽にそして安全におしゃべりができる機会や場所が
あればいいのに…と思うのです。
そしたらSNSの炎上も減ったりしないでしょうか。

おしゃべりできる人がいるって
健康にいいものですよ。

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