【書くこと、話すことに思う】
ここ数年、全国各地(という程各地ではないけれど)にお邪魔しているが、決まって同様のことを言われる。
「女性教師が講師で来るのは珍しい」
「モデルとなる女性教師がいない」
「男性の話ももちろん素晴らしいけど、女性の話が聞きたい」
「女性目線で話されることが少ないから、今日は来ました」
と。
これは女性からの声である。
私は、決して人様のモデルになるような人間ではない。
近い人はみんな知っているが、著しくおっちょこちょいで思い込みが激しくて、現実的にも思考的にもいつも道に迷っている。
クラスの子たちからも「しっかりしてください」と言われてしまう、ダメ女だ。
深く深く研究を積んできたわけでもないし、自分の理論をもっているわけでもない。
がむしゃらに仕事をしてきたおばさんである。
ただ幸いなことに北海道には力量形成をさせていただく場があるので、こんな私でも実践を積ませていただいているだけの話である。
男性教師の中には(いや、女性の中にも)、私が女性というだけで「実践家」扱いされていることを侮蔑したり、羨望したり、憤ったりする方もいるだろうと思う。
「大したことないくせに」「どこがいいんだ」と思われているだろうことくらいわかっている。
自分が女性であるというだけで取り上げていただいていることは、100も承知だ。
自分がすごいともかっこいいともできるとも賢いとも何とも思っていない。
ただただ、人様から頂いたご縁を有難く思うのと、その縁に泥を塗る(って表現はないだろうけど)ことはしてはいけないと思っている。
世の中の教育書を見ると、未だに9割は男性が書いた本だ。(いや、もっと9割5分くらいかもしれない。)
講師として登壇するのはもっともっと少ないだろう。
この状況での自分の役割はなんだろうと思う。
人様に何かを伝えるとか、お役にたてるとか、そんなことは正直おこがましくて考えられない。
人に何かできるなんて、私はそんなに立派な人間じゃない。
かといって、自分の道楽だけのために書いたり話したりしているわけでもない。
では、なぜ、私は書くのか。
なぜ話すのか。
自らの承認欲求を満たすという側面は否定できないが、それ以外に「何か」につながるものがあると私は思う。
こうした学び方や仕事の仕方や指導の仕方をしていることは、「何か」につながっていると思うのだ。
目の前の子どもかもしれないし、自分自身かもしれないし、過去かもしれないし未来かもしれないし。
私のような女性の考え方なり生き方なり学び方や指導なりに触れた人が、ご自分の内面に問い返す。
何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
しかしもし、その人の内面に何か変化が起きたとしたら、それは私がいただいたご縁への恩返しというものではないだろうか。
人だけではなく書物や実践からいただいたもの全てへの恩返しと言えるのではないだろうか。
恩返しのために書く、話すというとなんだか崇高だ。
子どもの幸せのためにって、言葉にするとこれまた崇高だ。
そいう面もあると思っているけれど、そんなシンプルできれいなものでもない。
ただ、私という女性に出会って何かが喚起されるものがあったとしたら、普通の女性教師が書いたり話したりする意味もあるだろうと思う。
色々な人がいて、色々な考え方がある。
女性だからという視点が正しいかどうかという議論はさておき、マイノリティな在り方を世に発する意味はあると思う。