称名念佛の味わい
お念佛をお称えすると、世界が光り輝く。
光り輝くというのは修辞技法でもなんでもなく、文字通り光に包まれる。
もう十年近く以前に、覚醒剤に非常にニアリーな物質をキメたことがある。「キメた」というのはもちろんレトリックで、当時のかかりつけ医の処方のもと、合法的にそれを摂取していた。
詳細はネットに書けないが、その薬は当時から乱用の危険性が叫ばれており、少し工夫して服用すると、なるほどこれは間違いなくシャブやなと分かるほど世界が眩しく輝いた。ドーパミン受容体を作動させて生じるダイレクトな多幸感に加え、瞳孔を散大させることによって、本当に網膜に多量の光が流れ込んでいるわけだ。
しかし念佛による明るさは、シャブの比ではない。なんとも罰当たりなことだが、俺はシラフで高いところに行くために宗教をやっていた。
法然上人もこんなふうに浄土三部経をスニッフし、如来の相好を観察(vipaśyanā)することで、草庵で独り〈現実〉よりもありありとリアルに感じられるヴィジョンを得ていたのだろうか。それとも三昧(samādhi)の快楽に耽り、禅定(チル)していたのだろうか。
人生何度目かの高い高いトリップから降りてきたあと、気まぐれに、無信仰者のマインドセットを作ってみた。
何も信じられず、西洋的唯物論の視座に安んじ、自分を含めたこの世界を高めていく菩提心を放棄した者。仏教国に産まれながら、ひとつの経文もその実践も知らぬ無知の徒。救いがたき末法の衆生。異様に肥大した大脳を持つ奇形のハダカザル。無為徒食の糞袋。オナ猿。歩く罪業。
しかし阿弥陀如来は、そういう者を、科学と新自由主義の支配する現代人こそを、救い取ろうとしている。称名念佛とは、深い観察(かんざつ)によって拵えたヴィジョンで〈現実〉を侵食させる技法でも、仏塔のように高く聳え立つ菩提心を屹立させるセルフプレジャーでもない。
弥陀尊の無限の修行の完成を祝し、このどうしようもなく破綻しきったわれを救い摂りたまえと一心に念(おも)い、ただ恩を知り名号を称して毎日を過ごすこと。
そもそも法然上人は、在世のころより円頓戒を相承し持戒の人として著名で、『観無量寿経』の十三観のうち水想観から勢至観までの三昧を発得し、顕教の義理に通じ南都北嶺に遊学して天台を始め三論・法相・華厳の学匠からも学識を嘱望され、一切経を二度披見して智慧第一と呼ばれた人だ。
いわば聖道門のエリートコースを突っ走っていた高僧の中の高僧が、自らを「三学非器」と位置づけ、われ戒・定・慧の器に非ずとして、浄土宗を立てたことの味わい。
理性の強い人ほど、感性による信仰の凄まじさに心が動かされるのかもしれない。
月の光はすべての人々を遍く平等に照らしている。老若男女、貧富、賢愚、道俗、人種、国籍にかかわらず、すべての人の上に平等に悟りの光は降り注いでいる。その常に分け隔てなく現象し続ける光を「ながむる人」となるかどうか。それだけでしかないのではないか?
道を完成させることができない絶望……現代人を決して自ら度すことのできない深い絶望と、しかし、だからこそ輝く称名念佛の、味わい尽くすことのできない法味よ。
南無阿彌陀佛