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ぶつかられおじさん


 仕事で評価されないのは上司が悪いし、アラフォーになっても結婚できないのは、見る目の無い女が悪い。周りが悪い。世の中が悪い。

「いたいっ……!ちょっと!」
女の声が地下鉄のホームに響いた。

 誰かにぶつかることで少しだけ日頃の心痛が発散できるので、男は毎日のように通勤途中に人混みに入っては誰かにぶつかっていた。肩や腕などを横に突き出し、わざとぶつかる。所謂「ぶつかりおじさん」である。他人がどうなろうと知った事ではない。自分が誰かのはけ口になるのと同じで、自分もまた誰かをはけ口にする。世の中はそうやって回っている。

「あァ?なんだよ」

振り返って男が凄むと、小太りの女は黙ってそそくさと立ち去った。

 男は卑劣だった。
女であれば言い返してくる奴は少ないし、
自分はそれなりに背も高いので、先ほどのように凄めば相手は大抵黙る。

それに人混みであるから、最悪「偶然ぶつかってしまった」とか「すみません、急いでるんで」とか言えば
何とでもなるだろう。

実際今まで何とでもなっていた。
つまりは、ぶつかったモン勝ちなのだ。


 その日は特にむしゃくしゃしていたので、
あと3、4人ぶつかろうかと思っていた矢先、
小柄なOLらしき女を視界に捉えた。

「よし、次はアイツにしよう」
男は向かってくる群衆の流れを魚のようにすり抜け、
あと数歩で射程圏内というところで――。

おや、と思ったのも束の間、
男はのけ反った後、俯きながらガクッっと膝を折った。
今まで感じたことの無い種類の衝撃を受けたのだ。

いま目の前に見えているのが床であるはずなので、
床に顔を打ち付けたという訳では無さそうだ、などと考えていると、どこからともなく鉄の匂いがした。

ポタ……ポタ……と閉まりの悪くなった蛇口のように鼻血が床を彩っていく。
栓をせねばと鼻に手を伸ばす。

鼻先を触ると鈍い痛みが走った。

「大丈夫ですか?」
目の前にいた小柄なOLがハンカチを差し出しながら
駆け寄ってきた。先ほどぶつかろうと狙っていた女だった。

 近くで見ると、まるで小鹿のように小さく細い。
ますます訳がわからなかった。この体格差であれほどの衝撃を受け、顔にまでぶつかったとは、到底思えない。

 であれば別の人物か。
とても強い衝撃であったので、相手側もそれなりの様相であるに違いない。しかし壊れたおもちゃのように首を振って見回しても、自分たちを避けていく群衆ばかりなので、男は首を捻った。

「ありがとう……大丈夫です」
ハンカチを受け取り、鼻を押さえた。

「きゃあ!血が出てるじゃないですか!」
彼女が慌ててスマホを取り出し、119の番号を押しかけた所で、男はその手を制止した。

「いや本当に大丈夫ですから、自分で病院へ行きます」
男は今すぐにでもその場を離れたかった。
ぶつかろうとした相手が自分に情けをかけてくるのが気に入らなかったし、なにより気味が悪かった。

ひとまず近くのクリニックをスマホで調べ、向かうことにした。


 「堺(さかい)さん、堺あきらさーん」
名前を呼ばれてとぼとぼと病室に入る。
もう鼻血はすっかり止まっていた。

「多分折れてはないと思うけど、何にぶつかったの?」
 医者は診察室に入ってきた赤っ鼻を見て「あー」とか「うん」とか言った後、すぐにそう告げた。

自分でも知りたいくらいだった。

「まぁ冷やして様子見てね、一応鎮痛薬は出しておくからサ」

と、軽く言い放ち、さっさと診察室を放り出された。子供時代によく言われた、唾を付けておけば治る。くらいのニュアンスに感じた。

 クリニックを出て、スマホの地図アプリを見ながら、見たことの無い道をゆっくりと歩く。視界を流れてゆく知らない道、知らない店、知らない明かり。

一連の流れを思い返してみたが、どうにも狐につままれた気分であった。

 ふとポケットに手を入れるとOLの差し出したハンカチがあった。しまった、そのまま持ってきてしまった。黒色の無地で手触りも良く、少し高そうだった。血だらけになってしまったので、洗っても中々落ちないだろうか。

黒一色に染められたハンカチにはあきらの血が所々ついていて、よりドス黒くなっていた。

まぁ、もう会うことも無いだろう。
そのままハンカチをポケットに突っ込んだ。

 秋風の寒さに凍え、スンッっと鼻をすする。
鉄の匂いはまだ鼻に残っていた。


 ハンカチ女と再会したのは1週間後の事だった。
その日も、例のごとく地下鉄構内で発散ルーティンでもしようかなどと、考え立ち止まっていたところであった。

「あのう」
なんとなく見覚えのある顔の女がのっそりと、恐る恐る近づいてきた。

「この前は大丈夫でしたか?」
「あぁ、あの時の」

私服であったため一瞬わからなかったが、声を聴いて気付き、近くで見るとやはり小さかった事で確信した。

「大丈夫でしたよ、骨折もなかったみたいで」
「それはよかったです」

笑顔を見せ、じゃあ、とハンカチ女は立ち去ろうとした。その笑顔にほんの、小雨の雨粒ほどであったが罪悪感を抱いたので、引き留めるように言葉を放った。

「ハンカチありがとうございました、何かお礼をさせてください」
言ってみたものの、まぁ断ってくれるだろうとの算段で続けた言葉であった。しかしすぐさま後悔する事になった。

ハンカチ女は、それじゃあ……などと言ってきたのだ。

失敗した。
この女がこんなに厚かましいとは。
コーヒー1杯でも奢ってさっさとお帰りいただく他ない。

駅ナカのカフェに入り、2人席を陣取った。
あくせく歩く人々がガラス越しに見える。あきらは投げやりに話題を振った。

「今日はスーツじゃ無いんですね」

「あぁ、あの時はお葬式の帰りで。普段は今日みたいに私服で働いているんですよ」

 という事はあれは喪服だったという事になる。
思い返してみると、確かにあの時のジャケットの下は黒色だった気がする。あきらは同時に、ハンカチが黒色だった事にも納得した。

「そうなんですね、身近な方ですか?」
口を開いた後で少し失礼だったかなと考えたが、女は明け透けに答えた。

「母です、義理なんですけどね」

「それは、お悔やみ申し上げます」
 一応、哀しそうな顔をしてみる。

「ショックは受けてます。けど、少し肩の荷が下りたというか、安心した気持ちもあるんです」

「と、いいますと?」

「片親なのも相まって、なんでも口を出したがる親だったんです。がんが悪化して言葉を出せなくなるその時まで、私のやる事なす事に口を挟んできていました」

手元のアイスカフェラテをマドラーでゆっくりかき混ぜながら、女はため息をついた。

「あのハンカチ、母の物だったんですが、処分してもらって大丈夫ですよ」

 元より返そうと思っていなかったあきらは少しギョッとした。

「私、実は母の事をあまり好きではなかったんです、逆に持って行ってもらえて良かったです」

 ミルクとコーヒーが混ざったのを見計らって、女はグラスを傾ける。

「ごふっ」

見事にむせこぼし、彼女が着ていたアイボリーのリブニットセーターにカフェラテが飛散した。

「大丈夫ですか?」
あきらはテーブルに置いてあったペーパーナプキンを差し出した。

「ありがとうございます、洗えば落ちるんで気にしないでください」
女は拭きながら答えた。

 あきらはハンカチ女に親近感を覚えた。
単に今の出来事だけでなく、境遇が似ていたからである。あきらは父子家庭で育った。男手一つで養ってくれた事に感謝はしているが、父親の事はあまり好きではなかった。

 自分が見下し、危害を加えようとした相手がまさかそんな境遇であったので、同情の気持ちが少し湧いて出たのである。

「そういえばお名前は?」
気づけばあきらの方から切り出していた。

「堤(つつみ)です。堤つぐみ、あなたは?」

「堺あきらです」

「なんだか少し似た感じの名前ね、文字数とか」
堤つぐみはニタニタ笑いながら言った。


 家に帰ると父親がまた整合性のない話をしていた。
声が聞こえるだとか、世間から犯罪者扱いをされているだとか。

 買い物袋をダイニングテーブルに置いた時、ピルケースの中身が減っていない事に気づいた。

「薬、また飲まなかっただろ」

しかしそんな事はどこ吹く風で、自分の身がいかに危険にさらされているかを、彼は熱弁する。

 こうなると現実と妄想の区別がつかなくなり、夜もなかなか眠ってくれないのである。

 もうこの人はダメなんだ。
あきらはどこか他人事のように思い始めていた。
いっそ堤つぐみの母親みたいに……。
義務と諦めを反復横とびの様に繰り返す。

 じんわりと胸の内に何かが滲むのを感じた。


 つぐみと会う日々は何度か続いた。
3度目に会う時にはもう友達といっても差し支えない仲になっていて、あきらも自分の父親の話や日々の愚痴をこぼす程、つぐみに心を許していた。しかしもちろん、ぶつかり行為を行っている事は黙っていた。

つぐみも嫌っていたとはいえ、身内が死んだという事実を受け止めきれていなかったので、あきらと話す時間は幾分心地が良かったようだ。

 つぐみと話をしていると心の中にあるシミのようなものがキレイになっていく気がした。

 それ以来、あきらの日々は秋の空のように青く、少しだけ愛着のあるものになっていた。仕事の活力に溢れ、他人には親切に、父親の看病にも文句一つ言わずに取り組んだ。人混みで誰かにわざとぶつかる事も無くなっていった。


  ある日、あきらは目的の物を買った後、帰り際いつもの地下鉄内を歩いていた。するとどうにも不審な動きをする中年の男が目に入った。スマホをいじりながら、脇目で人混みを物色するその姿は過去の自分そのものだった。

すると、その男は通りがかった女子高生の背後に回るや否やスカートの下にスマホを這わせた。

 なにも捕まえようだとか、警察へ突き出してやろうだとか、そんな心積もりはなかったが、不思議と義憤の念が湧いて出た。足早に立ち去ろうとするその男へ、いつものようにズンズンと歩みを進め、もう3、4メートルほどで目的を達成できるかと思われた時、予期していないタイミングで体に衝撃が走った。あぁ、またか。

 床を目で追うと転がっているのはしょぼくれた老人であった。これはまずい、と声をかけようとすると、どこかで見たような小太りの女に腕を捕まれた。

「今、わざとぶつかったでしょ」
冷たい口調と軽蔑の表情が見て取れた。

 ここまでの経緯を説明するも、周りのギャラリーがわらわらと集まりだし、反論の余地もなく駅員と救急車を呼ばれ、あっという間に加害者として取り囲まれてしまったのである。

結局、歩行者同士の事故という形に収まったが、相手の老人は大腿骨を骨折。今後歩けるようになる見込み無しとの事で賠償を求められた。ただでさえ父親の薬代も嵩んでいる為、とてもじゃないが払える額ではなかった。


 つぐみと会うのも5度目になった。

今度映画でも——。

そう吐き出そうとしたあきらだったが、つぐみが先に話を切り出した。

「私、実母と暮らすことになったんです」
「しばらくしたら地方に引っ越すので、もう会えないかもしれません」

その言葉を聞いた瞬間、ポツポツと黒色の雫が胸の中を染めていった。

言葉では「そう」とか「よかったね」とか言った気がする。
それからの会話はあまり覚えていない。

また、父親の病状も悪化する一方だった。毎日のように叱責される。再び心の中で反復横とびが始まった。まだらに染まっていた灰色が広がって、徐々に黒く、落とせないほどになっていった。


 それから二週間ほど経った頃、あきらは電光掲示板の急行の文字を見つめながら、ホームで立ち尽くしていた。

 もう到底反芻を止めることは出来なかった。

病気の父親がいなければ。
そもそも「ぶつかりおじさん」なんて事をやっていなければ。
つぐみにぶつかろうとしなければ。

もう人生をどこから呪えばいいのかもわからない。

 アナウンスが入ると、新品の黒いハンカチをクシャクシャに握りしめ、ゆらゆらと足を運ぶ。

床に長く伸びた黄色の線は、まるでゴールテープのようだった。

あきらは夢中でホームドアを乗り越え、宙を舞った。
落下していく刹那、

何にぶつかったの?
ふと医者の言葉を思い出したが、その思考も周りの声にかき消された。

立ち上がると不思議と恐怖も無く、叫び声さえも今は歓声に聞こえ、まるで人生における一大イベントのようだった。

両腕を広げ前を見据えると、光る目が二つ。
眼前に迫って来たそれは、とてつもなく大きく、慈愛に満ちていた――。


 その日の通勤電車のダイヤは乱れたが、ものの1時間ほどでまた動き出した。


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