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生きることにもがくことが苦しい人

むかしむかし、深い森の中に、心優しい若者が住んでいました。名を命(みこと)といいました。命は毎日を生きることに苦しみ、もがいていました。
朝起きるのも、食事をするのも、すべてが重荷に感じられました。命は、なぜ自分はこんなにも生きるのが辛いのかと、日々悩んでいました。
ある日、命は森の奥深くへと歩いていきました。そこで、年老いた賢者に出会いました。命は賢者に尋ねました。
「なぜ、生きることがこんなにも苦しいのでしょうか」
賢者は静かに答えました。「命よ、生きることは時に苦しい。それは誰もが経験することじゃ。でも、その苦しみの中にこそ、生きる意味があるのかもしれん」
命は首をかしげました。「どういう意味でしょうか」
賢者は続けました。「苦しみながらも前に進もうとする、その一歩一歩が、あなたの人生を作っていくのじゃ。そして、その歩みが他の誰かの道しるべになるかもしれん」
命はその言葉を胸に刻み、ゆっくりと家路につきました。
その日から、命は少しずつですが、自分の苦しみを受け入れるようになりました。そして、同じように苦しんでいる人々に寄り添い、励ますようになりました。
やがて、命の優しさは森中に知れ渡り、多くの人が命のもとを訪れるようになりました。命は自分の経験を語り、皆の心の支えとなったのです。
命は後に言ったそうです。「生きることは今も苦しい。でも、その苦しみを通して、私は人々とつながることができた。それが、私の生きる意味になったのかもしれない」と。
そして命の物語は、苦しみながらも生きることの意味を見出そうとする人々に、長く語り継がれたとさ。
めでたし、めでたし。
と思う2024年8月24日17時55分に書く無名人インタビュー864回目のまえがきでした!!!!!
【まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)】

今回ご参加いただいたのは えり さんです!

年齢:20代後半
性別:女性
職業:休職経験付OL


現在:ちょっと明るい見方や新しい世界が見えたなって思い始めた。ちょうどターニングポイントみたいなのが、本当ここ数ヶ月のことだなって思ってます。

qbc:
今何をしている人でしょうか?

えり:
今はただの一般人、ただのありきたりなOLみたいな感じですかね。ただ、一般的と言いつつも、結構今の世の中に生きづらさを感じているところで。実は数日前まで休職していて、今日私は復職2日目なんです。とはいえ、そんなことも含めて、何だかんだで一般的などこにでもいる20代後半のOLだと思っています。変ですかね。

qbc:
いや20代とかそのどこにでもいる、ありふれたってどこに基準を持ってってるんですか。

えり:
なんていうんですかね。私の言うありふれたとかありきたりっていうのは、普通に会社で働いて、仕事して帰ってっていうのを繰り返しをしていること。特に誰かに見られるような仕事でもないし、世に名を知られているわけでもない。その他大勢みたいな。
本当にいろんな人がいる中で、仕事に行って、悩んで、疲れて、でも楽しいことをしてっていうただのどこにでもいる一般的な人です。

qbc:
復職されてといいますか。ここ最近の気分ってどんな気分ですか?

えり:
ちょっと過去の話に入っちゃいますけど、休職を3ヶ月ぐらいしてからの復職でして。元々私は職場がどうだとか、人間関係がどうだとかっていうよりかは、もうずっとずっと自分で抱えていた言葉にしきれないような生きづらさが、あるとき爆発して、何もできなくなってお休みしていたんです。
お休みの期間で、いろんな考え方を吸収して、ポジティブにポジティブに前を向こうと頑張っていて、自分でもわかるくらい生き生きしてきた部分もあって。そんな中での復職ってなると
、やっぱり同じ場所で同じ雰囲気の場所にいるのに、いつもより体が軽いというか、もっとリラックスした状態で仕事できてるなって思いました。ただ2日間だけですけど。そんな戻ってすぐに難しい仕事やってます!みたいなことはしていないですけど。
それでも、やっぱり同じ場所なのに、苦しかった時より体が軽い自分がいて、すごくすっきりしてて生き生きしてて、気楽だなって感じましたね。

qbc:
生きづらいって何が生きづらいんですか?

えり:
うーん。なんですかね。元々というか結構長いこと精神疾患みたいなものは抱えて生きていて。一番最近で言うと抑うつ状態を数年間ずっと抱えている状態で。おそらく自分の考え方の極端さとかいろんな原因があると思うんですけど、そういう歪みきった自分を生きていると、やっぱり生きていてもしんどいだけだし、この先何のために生きているんだろうみたいな風に考えてしまいます。何か楽しいことがあっても、全部苦しい記憶にかき消されてしまうような毎日だから、このままこの先を生きていて、生きていてよかった!って思える日が来るのかなって漠然と不安をずっとずっと抱えています。それが私の中の生きづらいっていう感覚なんですかね。

qbc:
何が苦しいですか。

えり:
何が苦しい。生きている。生きることにもがくことが苦しい。生きるために働いて、生きるためにお金を得てとか、あとは人とうまく調和していかないといけないとか。本当に調子の悪いときは何もかもしんどいって思っちゃってましたね

qbc:
今はしんどくないと?

えり:
何とも言えないです。考え方の根本はなかなか変えられないとは思うんですが、それでもちょっと新しい見方を追加するだけで救われる部分とか、こんな私でもちょっと希望があるかもとか考えるようになりました。それも本当、休職期間に本を読んだり、noteを通していろんな人がいることを知ったりしながら、同じように思ってるのは私だけじゃないし、しかも私が苦しい苦しいと思ってた毎日って意外とみんなと一緒だなって気づくことになりました。
つまり、自分だけが苦しい苦しいと思っていたけれど、本当はただそれを勝手に苦しいって思い込んでいただけで、みんな同じように生きている。人よりももしかしたら苦しさを感じる感覚を強く持ち合わせているかもしれないけど、でもやっぱりいろんな人の生き方に触れたときに、今までの生き方、考え方っていうのもその当時の考え方だから苦しいと思いましたけど、その生き方って結構ありきたりというか、みんなと一緒だし、それが普通だし、そんな苦しむ必要もないのかもなって思いました。まだ気づきの段階でしかないですけど。

1人ただ自分の世界に勝手にこもっててうぅーって苦しんでいたところを、視野を広げてみると、案外、希望があるかもしれないぞっていうのに気づき始めたぐらいの感じですかね。

私の中ではまだ気づききってないですけど、まだまだもっといろんな見えてない世界とかもあると思うんです。ちょっと明るい見方や新しい世界が見えたなって思い始めた。ちょうどターニングポイントみたいなのが、本当ここ数ヶ月のことだなって思っています

qbc:
ご趣味は?

えり:
結構飽き性で、これまで固定した趣味ってなかったんですけど、まずこの数ヶ月の一番の趣味は読書になりました。本を読んでる時間はいろんな楽しい経験もあるし、いろんな登場人物の生き方から、感傷的な私だからこそいろいろ読み取ることができて、楽しいだけじゃなくていろいろ勉強になって結局それが楽しいに戻ってくるので、今の一番の趣味は、読書かなっていう感じです。あとは、元々音楽とかも好きなんですけどね。

qbc:
どんな本を読んでるんですか。

えり:
ジャンルでいうと本当にバラバラというか、いろんなものに手をつけました。元々本を読むこと自体は嫌いじゃなかったので、ミステリーとか、よくあるどんでん返しがありますよ!みたいな楽しくてみんなが読むような小説もそうですし、初めて手に取ったのは、エッセイですね。エッセイってものに触れたことはなかったんですけど、そこに初めて触れてみて。

その前まではよくある生きづらい人に向けての優しい言葉がいっぱい書かれてる本をよく読んでいました。最近は本屋さんに行ったらすごい山ほどあるんですけど。そういった本ってもう読めば読むほど結局同じこと言われちゃうというか、飽きてきちゃう部分があって、それまた聞いたよー!ってなっちゃうし、だからもう見慣れたなと思ったところでエッセイを読み始めました。エッセイって言ったら何げない一日のワンシーンだったり、本当にちょっとしたこだわりをポンって文字で書かれてたり。本当に取り留めのない言葉なのに、それに何となく魅力を感じて。当たり前に普通に過ごしてるこの瞬間って、文字にしたらこんな綺麗で、こんな幸せに満ち溢れたものなんだなと思うようになりました。

だから、今は元気が出る言葉とかより、誰かの生きた日々じゃないけど、こういうことがありましたよみたいな何気ない文章が結構好きです。それからエッセイは、私も日常を文章にしちゃえば私の生活だって同じなんじゃないかなと思うきっかけになりました。
一般的な物語とかが書かれてる小説ももちろん読みますけど、さらにプラスして最近はそういう本も読むようになったなって感じです。

qbc:
休職前の趣味の音楽とかってどんなの聞いてたんですか?

えり:
音楽っていうのが、私は大学に入ったときからアカペラをしていまして。アカペラサークルに入っていたんですよ。歌うことが好きで
アカペラをするとなると、大人数で集まって練習したりとか、ライブを企画してそういうのに出たりとかみたいな活動はしていました。それがなくてもやっぱり歌うっていうことが好きだから、もう1人でカラオケに閉じこもってずっと歌い続けるみたいなのが、一番のストレス発散だと思ってます。

qbc:
なるほど。

えり:
趣味って言ったらカラオケとかなっちゃうと思うんですけど、そこから派生してアカペラみたいな活動とかもして、友人もできて、というように、音楽は自分にとって結構大事な存在だったりはしますかね。

qbc:
本はどんな本読んでたんすか。タイトル。

えり:
一番最近読み終わった本が、『コンビニ人間』っていう有名な本なんですけど。純文学というジャンルになるのかな。なんかすごい考えさせられるお話だったんですよね。
普通ってなんだろう、普通に生きることって何だろう、みたいなことを考えさせられました。本当に短い小説だったのに、何かすごい考える要素がいっぱい詰まっていて、私はいつも普通になろうとしてるけど、そもそも普通ってなんだろうとか、みんなに合わせて生きてるな私とか、そんな感じでちょうど昨日読み終わった本がそれですね。

あとは個人的な好みっていうのであれば、伊坂幸太郎さんが書く本が好きっていうのはあります。今はまだ全然読み切れてないのですが、順番に順番に読んでいって、これ面白いこれ面白いって楽しんでいます。まだ読んでいない本もいっぱいあるので、それを何か他の本を間に挟みながら、ちょこちょこ消費するのを楽しみにしています。

読書に没入したのは本当最近なので、この作家さんが好きみたいなのってあんまりないんですけど、伊坂幸太郎さんだけは高校生のときに友達に勧められて、この人の本面白いと思った唯一の人だったので、久々に本を読もうってなったときに、もう1回読んでみようかな、あと読んでない本も読んでみようかな、みたいな感じで読むようになりました。

qbc:
読書してるときって、全般どんな気持ちで読まれることが多いですか?

えり:
なんだろう。無心ですね。

qbc:
面白いっていうのはどこで感じるんですか。

えり:
読み終わりかな。わかりやすいことに、本って長いじゃないですか。1個の作品読もうと思ったら、何時間もかかってしまうとなったときに、例えば休職期間だったらある意味ずっと読書ができるわけですよ。頑張れば1冊一気に読むことだってできるっていう中で、面白いと思ったときは、ひたすら読む手が止まらない。気づいたら最後まで読んじゃったみたいな。で、読後にもう終わっちゃったなーとか、あのキャラクター好きだったなとか、余韻にひたる時間が結構長かったりとかして。読んでる瞬間はもうそこに入り込んでいるので、本の中でも区切りとかあると思うんですが、一旦今日はここでやめようじゃなくて、もう当たり前のように次に行っちゃってるみたいな状態が、たぶん私の中では一番です。
休職するほど仕事に集中できなくなって、さらに何も集中できなくなった時期を経験しているからこそ、どこまで読み進めるのだろう自分、って思うぐらいに読み進めるときはその本が面白いんだなって思いますね

qbc:
性格は周りの人からなんて言われます。

えり:
私は周りからは、勘違いされやすいんですけど、結構普段からニコニコして明るい感じでいるから、悩みなさそうだねとか、いつもニコニコして楽しそうだねとか、いい意味ではあるのかもしれないですけど、それはよく言われますね
結構病みやすいよ、とか言っても、いやそんなことないでしょ!みたいに否定されちゃうんです。結構ちゃんと鬱とかやってるんだけどな、と思いながら勘違いされやすいんだなと思います。
自分がこれを演じてるのか、これが本性なのかもよくわからないですけど、ニコニコ明るくいようみたいなのが、人には楽しそうというか悩みなさそうに見えるみたいです

qbc:
自分自身ではどう思われますか。

えり:
自分自身では別に暗いとは思ってないですけど、でも、根本にみんなに嫌われたくないっていう思いが強すぎて、繕って自然とできたキャラクターなんじゃないかなって思う瞬間はやっぱりあって
私だってスイッチがぷちって切れて、家とかで1人でいれば、どちらかというと静かにぼーっとしてる方がいいです。インドア派で内向的で、だから家に帰ってきたら本当にスイッチが切れた瞬間みたいなのが毎回あるんですけどね。

ただ、やっぱり明るい性格は確かに人前では出していて、それもある意味自分だけど、無理はしてるなって思っています。人前では繕っちゃってる部分が無意識にあるなって

qbc:
繕うって何を繕ってるんですか?

えり:
なんなんですかね。でもとにかく、昔から嫌われたくないとか。誰かに・・・

qbc:
何を繕ってるんですか?

えり:
何を繕う?いい人を繕う?

qbc:
いい人ってどういうこと?

えり:
人から嫌われないようにしているのかもしれないです。

qbc:
なるほど。

えり:
嫌われないように嫌われないように、相手を不快にしないようにって感じですかね

qbc:
自分自身であと何か身近な人、家族恋人その親友とか距離の近いとかいわゆる性格の一面であります?

えり:
近い人から言われる。うーん、なんだろう。距離の近い人の前でも自分が本当にリラックスしてるのかどうなのか。でも家族からは、よく考えすぎだとは言われます

qbc:
ってことは、人と会ってるの嫌ですか?

えり:
嫌いじゃないけど、疲れます。

qbc:
人と会わなくていいんだったら人と会わない?

えり:
会わない。会わなくて済むなら。例えば、一日予定が空いていて、誰かと会わなきゃいけないか1人で過ごしたいかっていう2択だったら、1人で過ごすを選ぶと思います

qbc:
無人レジと有人レジ、どっち選びます?

えり:
無人レジと有人レジだったら無人レジを選びます。

過去:生きづらいって勝手に言ってますけど、他人から何かをされたとかじゃなくて自分で勝手に作り出してるんですよね。無意識にそういう環境を。

qbc:
過去の話ですね。子供の頃ってどんな子供でした。

えり:
子供の頃は元気だし、外でよく遊び回る子ではありました。小学生のときは、もう帰ったらどこかで友達と待ち合わせして公園で遊ぶとか。今と逆なんですけど、家にいることはほとんどなくて、誰かしらとずっと遊んでるみたいな結構活発なタイプだったなって思います

qbc:
その頃、どんな遊びしてました。ちっちゃい頃。

えり:
変な危ないところ、例えばブロック塀をのぼってみたりみたいな、ちょっとがきんちょみたいなことをしてみたり。
なんちゃらごっこみたいなこともよくしてましたし、公園に行ったらブランコをほぼ180度いくんじゃないかくらい漕いだりとか。自転車でもあっちこっち回ったりみたいな感じの遊び方をしていました。

qbc:
じゃあ結構外で遊び回るんすね。本当ね。

えり:
小学生のときはもうとにかくそれが普通でしたね。改めて考えると不思議なんですけど、そういう日々でしたね。

qbc:
なるほどね。小学校の人間関係とかどうだったんですか。人嫌いってところで言うと。人嫌いなんですか?人が嫌い?好きですか?どっち?

えり:
嫌いではないです。どっちかっていうと好き。っていうか好きな人としかいないから、結果、好きという答えになる。だから自分の思い浮かべる人だけ考えると、好きになるかもしれないですけど。
世間一般全体で考えると、あんまり嫌いとは言わないけど、好きとは言えないなって感じです。

qbc:
好きな人と嫌いな人っていうのはどんな人なのか教えてもらっていいですか?

えり:
嫌いな人は、結構直感なんですけど、言葉のやり取りがそもそもかみ合わないとか、ペースを崩されるとか。私が細かいところまで見ちゃう人間だからこそ、それをぶち壊してくるような人がいると、やめてってなっちゃうかな。
できるだけ近い感覚の持ち主のほうが居心地がいいですね。どっちかって言うと人の気持ちを汲み取ろうとしてる人とか、そういう空気を読んじゃう人とか、何か似た要素持ってる人が居心地よくて。やっぱり共感してくれるんで、一緒の悩みとか抱えながら共感して居心地よくて。

嫌いな人ってあんまり私普段いないんですけど、嫌いになるぐらいの人と関わりをたぶんそこまで広げようとしてないんで、必然的にクラス一緒になっちゃいましたとかそういうのがない限り、あんまり嫌いな人っていないです。
やっぱ嫌いだなって思う人ってあれですね、自分のペースを乱してくるというかその自分の要素とかけ離れすぎていると、やっぱり居心地が悪い、嫌いってなっちゃうことが多いかなと思います。

qbc:
嫌いな人はどんなところで会うんですか。

えり:
大学で。大学に入って研究室とかゼミみたいな少人数でどうしても集まらなきゃいけないってなったときに、同期4人しかいないぐらいの少人数の中の1人が苦手でした。ちょっと空気が読めないのかなみたいな子がいて。
その子に対しても私はそんなの気にしなければいいのに、いい子な雰囲気を出しちゃうから、その子も私に対して絡んでくるし、余計にうわー嫌いってなって。でも私はいい顔するっていう謎の繰り返しで。でも、嫌いな人って言ったらそこが一番思い出される人。

qbc:
今まで何か生きづらさはわかりました。それ自分のせいですよね。自分が離れないのに。

えり:
そうなんですよ。

qbc:
それは恐ろしいですね。やっとわかりました。なるほどね。無限地獄ですね。

えり:
ただ、生きづらいって勝手に言っていますけど、他人から何かをされたとかじゃなくて自分で勝手に作り出しているんですよね。無意識にそういう環境を。それこそ嫌いな人がいるのに、あからさまな嫌いな態度なんて私はできないと思って。必要以上に絡みに行くとかはないんですけど、嫌いな人にツンってすることができないというか。悪い気がして。

qbc:
それは生きづらいって。だって自分が悪いから生きづらい。だから生きづらいんですよね。

えり:
そうです。

qbc:
自分で自分の首を絞めてるリストカット状態ですよね。

えり:
そうです。

qbc:
わかりました。中学校とかどんな感じだったんすか?

えり:
中学生の頃から、ちょっとよく見られたいじゃないですけど、嫌われないようにみたいなのが芽生え始めた気がしますね。

qbc:
このやっぱりよく見られたいっていうのと、嫌われたくないってちょっと曖昧な感じなんすかね?

えり:
えーと・・・まず嫌われるのに怯えているのは間違いないです。ここはもう確実です。だから、あの人私のこと嫌いなのかなとか、この人私に冷たいけど嫌いなのかなと思った瞬間が一番つらくて、だから嫌われたくないっていうのは間違いないと思っています。

qbc:
中間がない感じがもしかしたらしますね。中間がないのはまずいかもしれないっすね。さっきも距離を置けばいいのに、好かれようとしてたじゃないですか。無視すりゃいいのに。

えり:
そうそう、そうです。

qbc:
無視できないっていうのは中間がないかもしれないっすね。なるほどね。

えり:
極端な思考。

qbc:
え、極端?極端とは別に関係ないと思うんですけど。

えり:
なんて言うんですか。

qbc:
シンプルに人間関係が下手くそなんじゃないすか。

えり:
そうそうそうそうです。

qbc:
極端な思考とかそういうんじゃなくて、技術がないんですよね。

えり:
技術はないと思います。一般的に見たらみんなと仲良くしてるなって見えてるかもしれないんですけど、自分で言ったら自分で結局苦しいと思いながら付き合ってるんだから、その人間関係ってどうなのって言われたら、よくはないですよねっていう感じにはなりますね

qbc:
高校時代とどのような感じなんですか?

えり:
高校時代は人間関係っていうので苦労しなかったかもしれないです。比較的自分に似た要素の
人間、同じような波長の合う友達っていうのが運よくいっぱいいて、その中にずっといれたっていうのがあって。それもあって結構居心地良く過ごせたかなって思います。
中学生ってどうしてもやっぱりいろんなタイプの子がいて、やんちゃな人も結構いたりとかして、もう本当にいろんな人種がいるなっていうところから、高校生になるとやっぱちょっと似通った人が増えたかなっていう環境に自分も落ち着いたので。この人とずっと一緒にいたいって思う友達が、高校ではできてきたかなって思ってますね。
だから、あんまり高校で人間関係でトラブルは思い返しても、そこまで何かぱっと出てこないです。

qbc:
高校の後進路進学はどんな感じに?

えり:
その後が大学に行って、大学院まで進むんですけど。大学で入ったら、一応さっきの趣味に戻るんですけど、アカペラサークルに入って、そこの人間関係が一番一番深い感じになりましたかね。

qbc:
何の勉強されたんですか。

えり:
私は生命工学という分野の勉強をしていました。一応工学部なんですけど、生物系にちょっと医学とか薬学とか工学とかがちょっと混ざった、融合した感じの勉強をしてました。

qbc:
い働いてから何年ぐらいたったんですか?

えり:
今働いて3年目になります。

qbc:
はいはい。ご両親からどんなふうに育てられましたか?

えり:
両親は真面目で。父は、とにかく堅くて真面目で、なにか悪いことしたらすぐ怒る、怒られると怖いみたいな。でも何もしなければ楽しい人です。ただ普段からキチキチしていて、その型にはまった中で怒られてきて。私は長女だったので、一番怒られてきた気がします。兄弟は私含めて3人いるんですけど、3人同じように生きていった中で、私が一番最初で親も初めてだから、一番いろんな怒られ方をしたり、こうしなさいとかいろいろ口をうるさく言われたり、指導が厳しすぎたような気はします

弟のときこんなに緩いのって。後から同じようなタイミングのときの対応の違いに驚きました。私が最初で親もやっぱりわからないから、ある意味愛情だったのかもしれないですけども、キチキチキチキチと育てられた感じです

qbc:
なんか人生の転換点とかってあります。

えり:
転換点。悪い転換点があるとすると、高校生のときにちょっとパニック障害みたいになっちゃって。もうそこから精神疾患との付き合いが始まります。何気なく生活していた中で突然なって、そこから自分の精神と向き合う日々が始まってしまったというのは、やっぱり自分の中ですごく大きな良くない方のターニングポイントになっちゃいました。

qbc:
高校は人間関係を良かったみたいな。

えり:
人間関係は大丈夫です。大丈夫なんですけど、そのパニックは人に対してとかじゃなくて、授業中とか公共交通機関とか、あらゆる人のいる状況でパニックになって、貧血でもう倒れそうになるみたいなのを必死に耐えていました。
それを繰り返して、本当高校2年生の冬から3年生にかけてぐらいは、友達付き合いはいつも通り楽しくやっていたけど、ちゃんとした場、例えば授業中に倒れたら目立っちゃうとか、バスの中で倒れたらバス止まっちゃうなとか、そういうここで倒れたら絶対駄目だみたいに思ってしまうような場面でとてもパニックになりました。動悸がしたり、血の気が引いてる感じがしたりしているのを必死に耐えて。
そのときは、病院に行くとかも考えてなかったので、必死にツボを調べてここを押したら良くなるというところを押したりとか、授業中に血の気引いたら消しゴム無理やり落として頭を下げるとか。

もうその場しのぎでとにかくとにかく、パニックがきそうなやつを抑えろ!みたいな生活を高校の後半になってからするようになりました。それも勝手に1人で自分で根性論で向き合ってしまって。そこでメンタル不調との付き合いができてしまってからは、そこに意識の向いた日々になってしまったかなと思ってます

qbc:
誰かに相談とかできなかったんですか。

えり:
相談。ちょっとはしてたと思うんですよ友達とか。こういう場面があったときに、こうなっちゃうとか。親にも軽くはしてたんですけど、とにかく人に頼れない性格で、元々人に言って余計に心配されるその雰囲気が好きじゃないとか、何なんですかねその当時のプライドなのか。

qbc:
今は変わってるんすか。

えり:
今はもう、休職のときもめちゃめちゃ友達に助けられて。月1回会ってもらって、こうやって元気になったよとか報告したり。親とも本当に他愛のないLINEしたり。
そういうことがかなりできるようになったんですけど、高校生のときの自分って人に頼ることが人に迷惑かける事だって思っていたので。言ったところで相手は何もできないし、みたいに何か余計なこと考えたんだと思うんですけど、結局自分の問題だから自分が何とかしなきゃと思っていました。
他の人が治れって言ったら治るわけじゃないんだから自分がどうにかするしかない、自分の体だもん、っていう感覚が一番にきちゃって、頼るっていうのが思いつきもしないっていうか、自分のことだから自分で治すしかないよねって思ってたと思います

高校生の時は急にそうなったこともあり、自分の体の問題であって、自分の頭の脳みそが変に不安感じてるわけだから、自分で対処法を考えようって思っていました。

未来:自分なりの幸せを見つけて、人生良かったぞって人生終わりたい。

qbc:
未来について行きましょう。5年10年30年最終的に自分が死ぬっていうところを想像してほしいんですけど、今どういう未来をイメージしてます?

えり:
今話してきたみたいに、私の変な性格によって人間関係に変に疲れちゃったり、鬱になったり。全てが自分のせいとは言わないですけど、ある程度自分の考え方とか足りない経験値から、将来ずっとこのままつらいんだろうなって思ってた日々を過ごしていました。半分諦めみたいな。自分がこうなんだからもう仕方ないやって諦めちゃってた部分がずっとあって。

でも、休職期間とかを経て、友達に支えてもらうっていうことが自分もできるようになったし、本とか読むようになったりして、自分の人生に呆れてもう私なんて駄目だって思ってた生活が、思ったより案外普通だし、みんなも一緒だし、なんならそれってむしろ幸せなことなんじゃないのって気づき始めたり、今良い方向に考え方がシフトチェンジしたりしているところではあります。
将来的に死ぬところまで考えたら、あれだけ苦しんだ時期もあったけど、結局良かったじゃんって思いたいんですよ。せっかく生きて人生を歩むんだったら、どんなに平凡な生活でもいいから、やっぱり後悔したくないし、今この時間を生きてきたことをプラスに思って死にたいから。
だから今後は、まだ自分のことをわかりきってないけれど、でもそういった部分も見つめながら、どうやったら前向きに、そして気持ちが明るい方向をキープしたまま日々を過ごせるのかなっていうのを常に模索しながら、徐々に徐々にでいいからとにかく、昨日より今日、今日より明日、明日より明後日みたいな感じで、少しずつ少しずつちっちゃなことに幸せを感じて生きていきたいって思っています。

そのためにできることはいろいろやりたいです。本読んで新たな考え方を取り入れるのも一つだし、今回も何となく勢いでインタビュー参加!ポチっと押しましたけど、私普段はそんな事絶対できないタイプの人間だったんです。でももう一度きりの人生だしやっちゃえ!っていう、なんか吹っ切れた感じになりました。

この休職期間で吹っ切れた自分を、いい方にキープして、自分を本当なんだろう・・・自分なりの幸せを見つけて、人生良かったぞって終わりたい。

qbc:
もしもの未来の質問をしてるんですけども、もしも、人間関係で何をしてもあなたは絶対に嫌われないに人になりました。何をしますか?

えり:
何をしても嫌われない。だからといって、やりたいこと、野望みたいなのってあんまりないんですよね。それも今わからなくて、私って結局何に興味があるんだみたいな。アカペラやったりとか本読んだりとかやってはみたけど、結局私は何をしたいんだろうなっていうのがふわふわーってしてて。
それもあって、エッセイとか読んで、なんか文字を書いてみたいってふと思ったからとりあえずnote始めてみたんです。嫌われない状態、つまり周りの人の目にとらわれない私がやりたいことはまだ探してる。わからないっていうのが本音です。

qbc:
ちなみになんで大学に行ったんですか?

えり:
これも普通。親が喜ぶからかもしれないですね。親が喜ぶし、私が元々理系の方がちょっと好きで生物系とか好きだったからそっちの方に進むことになり。やっぱりそういうところに行くと、大学院に行くよねみたいな雰囲気ができるんですよね。
就職するためには、大学院に行かないと意味ないよねとか、そういう周りに流されたって言ったらあれですけど、その中の普通になろうとして、何か就職いいところを行くんだったら、院行った方がいいかもしれないみたいな感じで院に進みました。

でも結局こんな研究の職に就きたくてとか、そんな野望があるわけでもなく、なんかやんわり、とりあえず大学院まで行けば、いい道いけるんじゃないかって、そのときは思っていたのでそのまま進みました。

qbc:
最後の質問です。遺言でもいいし、読者向けメッセージでも独り言でもいいですし、最後に残したことがあればお伺いしております。

えり:
はい。なんかもう、今日お話したことはもうめちゃくちゃどこにでもいそうな勝手に悩んでるただの人なんですけど、でもそういう人って結構世の中にいっぱいいると思っています。
自分のことをいくつになってもやっぱりわかり切れてない人はたくさんいると思うからこそ、私は今はnoteを使って、それがいい方向に行くかはわからないんですけど、本当にありのままの自分の状態を見て、こういう人もいるんだって安心してもらえたら嬉しいなと思っています。
ただ元気づける言葉じゃなくて、ただただこんな人がいます、こんな人がこんなことしてますっていうのを、いいところも悪いところも見て安心してほしい。

私もみんなと一緒だし、いや何ならみんなよりもひどいかもしれないっていう人間が頑張っている。何か希望を持って生きようとしてる姿に、ちょっとでも元気をもらってくれる人がいたらいいなと思って、今はnote活動しながら、自分とも向き合いながら、過ごしています。
いろんな悩みがあると思いますけど、こんなのもいるので。生きる希望がないとか過去は思ってしまっていましたが、それを何とか乗り越えようと頑張ろうと、変わろうとしているので、そういうのを見て元気になってくれる1人でも2人でもいたら嬉しいなと思いながら、また活動もしつつ、自分の生活も見つめ直しながらよくしつつ、平凡に平凡を目指して生きていこうと思います。

まとめになっているかわからないんですけど私は今、そういう気持ちで生きてます。

qbc:
ありがとうございます。

あとがき

休職は心の日曜日。

【インタビュー・あとがき:qbc】

【編集:さりあ】

#無名人インタビュー #インタビュー #会社員 #休職


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