知ることができることの幸せ
学校現場でも積極的にICTの活用が進んでいる。
勤務校ではGoogleを活用して授業や行事に挑んでいる。
休職していても生徒の様子が気になる。
本当は仕事から離れて、仕事のことを忘れてゆっくり休むべきなのかもしれない(医者にもそういわれている)が、私は自分よりも生徒が好きで学校が好きだから、仕事から完全に離れることは心がどこか遠くへフワフワと消えていってしまう気がしてそれができない。
しかし、同僚に積極的に学校の様子を尋ねることもできない。お互いに気を遣うだろうし、話を聞いたところで今の私にはなにもできることは無いからだ。
自宅のPCからでもGoogleのclassroomにはアクセスができる。
文化祭に向けた準備資料、生徒からの提案、懸念事項などがclassroomを通して共有されている。大好きな生徒が、大好きな学校のために何をやろうとしているのかを知ることができる。
現代の高校生とは言え、自分たちのやりたいことを実現させるために情報を収集する力はまだまだ伸びしろがある。やりたいことがあるのにそれを具現化してメンバーに共有できないジレンマもある。
そんな様子がclassroom上からも伝わってくる。
生徒には私の休職期間がいつまでなのかは知らされていない。私自身もいつになったら働けるようになるかはわからない。ただ、少なくとも文化祭には絶対に間に合わない。
だから私にとって文化祭は全くの無関係で、私が何か意見をすることは無責任で許されないことである。
それでも、私は毎日classroomを見ている。
知りたいのだ。
彼ら、彼女らが何を考えているのか。何をしたいのか。自分たちのやりたいことのためにどれだけ頑張っているのか。
直接この目で見ることはできなくても、オンラインで彼ら、彼女らのほんの数パーセントの努力を知ることができるだけで、大好きな生徒の成長を感じることができる。
知らないことがほんの少しでもなくなるだけで、私は復帰に向けて頑張ろうと思うことができる。
本当は私は何もしてはいけない立場にある。
でも、見ていると少しでも力になりたいと思ってしまう。
だから、まだ活用できていないGoogleのシステムを調べたりいじったりして理解しては、同僚にこっそり連絡して教えたり、思いついたアイディアをまとめて、同僚が考えたことにして生徒に伝えてもらったりして、間接的に生徒のための文化祭の後押しをしている(と私は勝手に思っている)。
Googleを活用していなかったら、知ることができなかった。
知らなかったら何も行動しなかった。
知らなかったら彼ら、彼女らのことを忘れてしまっていたかもしれなかった。
知らなかったら彼ら、彼女らから心が離れてしまっていたかもしれなかった。
知らなかったら生徒が、学校が大好きだという気持ちを失ってしまっていたかも知れなかった。
地理の授業では時間距離の短縮について教えることがある。
歩きから進化して船や飛行機ができて移動時間がどんどん短くなっていって、情報化社会になった今世界中の誰とでもすぐに会うことができるようになった。言い換えれば地球はどんどん小さくなっていっている。
私がいる場所から勤務校までは直線距離で3kmも離れていない。それでも、情報化社会になっていなかったら私が生徒のことを知るためには何カ月もかかっていただろう。
学校に近づくのは怖い。理由はわからないが学校に近づくだけで不安でいっぱいになる。多分今の私は教室に入ることなど絶対にできない。怖い。自分自身の心の弱さは、その壁を乗り越えられる準備ができていない。
物理的には会うことも、近づくこともできない場所に、自宅のPCでは簡単にアクセスできる。
地球が小さくなっていることがこんなにもうれしい。
もちろん、classroomを見て知れることは彼ら、彼女らの学校生活の1%にも満たない。
そしてclassroomに掲載された情報だけで、彼ら、彼女らの本当の気持ちを分かったと思ってはいけないし、そこに書かれている情報が真実であると盲信してはいけない。
それでも、今の私にとっては些細なことでも知ることができて、自分の心と大好きな生徒、大好きな学校をつなぎとめてくれているのは、classroomがあるからだと思う。