空想に浸る4歳児が、自分の言葉で自分を救えるようになるまで。
物心ついた時から、私には2つ以上の世界があった。
1つはお父さんとお母さんとお姉ちゃんがいて幼稚園にはお友達がいる世界。ごはんが美味しくて、ときどき美味しくなくて、褒められて怒られて喧嘩して泣いて泣かして、私の一挙手一投足をいつも誰かが見ている。園庭に大きな穴を掘って先生に怒られたのもこの世界。
それ以外の世界はとっても自由だった。
ある時は大きなお城に住むお姫様で、王子様が迎えに来るのをずっと待っていたし、ある時は海賊船に囚われた可哀そうな女の子で、悪い船長のいいなりになっていたし、またある時は熱を出している私がお母さんにかまってもらう水曜日の昼間だった。
なりたいものになれる世界だった。
目を開けていると何も見えないのに、目をつむると世界がはっきり見えて、私以外の声が聞こえてきて、目を開けても絶対に忘れることのない世界だった。
ごはんがおいしい世界は、良いことがあって、でも同じくらい嫌なことがあって、それは怒られたり、大事にしていた匂い付きの消しゴムを勝手に使われたり、おやつのケーキがお姉ちゃんの方が大きかったり、とにかく私が望まない出来事がそれなりの確率で起こっていた。この世界も決して悪いとは思わないけど、でも私もっと良い世界を知っていて、だからちょっと好きにはなれなかった。
ごはんがおいしい世界の私は小学生になって、中学生になって、高校生になって、もうごはんが美味しいだけでは感動できないようになった。ケーキが小さくて怒ることはなくなったけど、その代わりにもっと些細なことで周りと自分を比べては落ち込んだり、誰かのことを嫌いになった。
たかが1点の差が許せなくて、勉強しない自分も、勉強できない自分も、勉強ができるあの子も嫌いだった。新発売の色付きリップを塗って先生に怒られているあの子を見てざまあみろって思うのに、ちょっとうらやましくて悲しくなった。
悔しいことや悲しいことが増えると、私は他の世界へとすぐに旅立つようになった。もう目を開けていても見えるようになった。わからない授業よりも、つまらない雑談よりも、私は他の世界で自由に生きていることの方が楽しかった。他の世界が見つからない時もあったけど、たいていはすぐに簡単に見つかる。それは例えば雲の形が少しおかしかったり、踏みつぶされた花を見たり、さび付いた自転車がずっと放置されていることに気付いた時でもよかった。小さな入り口を見つければ、いつでも他の世界に入ることが出来た。
ごはんが美味しい世界で起きた嫌なことが、他の世界の入り口になってくれた。
だから私はもっともっと、他の世界へと入り込んでいった。
他の世界が私の前から消えたことはない。消えてほしいと思っても、絶対に消えてはくれないし、私が油断しているすきに勝手に入り口に放り込まれることもある。
抜け出すことはできなくて、それが時々困るけど、でも他の世界はいつだって心地が良いから困ることはほとんどなかった。
大学生の時、素敵な人に出会った。それはもちろんごはんが美味しい世界で。
その人は大学教授で、人気者で、たぶん考え方も人生の歩み方も私とは正反対だと思った。特に人に対する考え方が私とは全く違っていて、だから私はとても苦手だった。その人が茶目っ気たっぷりに「これは悪口ですが~」と言って始める世論への意見を周りは声をあげて笑ったが、私はどうしても笑えなかった。人は否定しないのに考え方や行動を否定する様を、理由のない嫌悪感が背筋を這っていった。
でもその人は私の他の世界を面白がってくれると思った。その人は良くも悪くも他人と自分の間に線があって、その線に踏み込まない限りは相手のことを100%の好意で受け取る人だった。姿の見えない政治家の考え方を否定するのに、姿が見える学生のすべてを受け入れる不思議な人だった。
その人の授業で、私は初めて他の世界を言語化して公開した。
他の世界はごはんが美味しい世界と微妙にリンクしていて、でも圧倒的に自分が悪者にならない世界で、自分のことが大好きな世界で、自分にとってしか都合がよくない世界だった。
そんな世界は嫌われると思った。
それでもその人は、その人とその人の周りにいる人は、それらすべてを受け入れて笑ってくれた。笑って、おもしろがって、自分の解釈を付け足して、他の世界に奥行きを付け足した。
それがたまらなく嬉しくて、もっともっと奥行きを付け足してほしくて、私の世界をたくさん言語化していった。
それから大学を卒業して社会に出た。
忙しくなると他の世界に行く暇が無くなって、でも間違いなく他の世界は私のことを呼んでいて、だから時々他の世界に閉じ込められて抜け出せなくなった。
ごはんが美味しい世界の楽しくない日常で考えなければならないことを考えているうちに、私は他の世界へと旅立っていくようになった。
そんなときは決まって、他の世界で見聞きしたものを文章に残して記録した。いつかあの大学教授に再会したときに見せたいと思って、一言一句忘れないように書き残した。
他の世界の誰かがくれるアドバイスも増えた。考え方のヒントや物事の捉え方のヒントもたくさんもらえるようになって、他の世界を記した記録は、ごはんが美味しい世界の私を支えてくれるようになった。
「明日仕事に行きたくないな。」
そんなつぶやきを漏らすと、他の世界から誰かがやってきて、
「仕事に行きたくないと言うくせに、いざ休むと落ち着かなくて休んだことを後悔するんだから」
そう言って私の背中を押していく。
「こんなに食べたら絶対に太る。」
そう思って本当は食べたくもない野菜サラダを注文しようとすると、
「太っているとか痩せているとか、そんなことで判断するような人の評価に一喜一憂して悔しくならないの?太っていても痩せていても食べたいものを食べて幸せになっていることよりも素敵なことってあるの?」
と言って、ビックマックセットにポテナゲ特大を注文させる。
「死にたい。」
そう思う夜でも、彼らは私を放っておかない。
「死にたいなら死ねばいい。こんな世界も人生も嫌ならやめればいい。不確定な未来が不安ならゼロからやり直せばいい。でも、今よりいい人生に次の人生で巡り合える確証はなくて、今より最悪な人生になっても誰にも文句は言えないよ。それでも死にたいなら死ねばいい。」
だから私は、生きているしかなくなった。
ごはんが美味しい世界では、私以外の全ての人の感情がわからない。
その笑顔の下に何を隠しているのかを知ることが出来ない。わからない。多分知りたくない。
だから、誰かの声を無条件にすべて受け入れることはできないし、誰かの声で救われる瞬間は限りなくゼロに近いだろう。
他の世界では、私以外の全ての人の感情がなぜかちょっとだけ理解できる。
表情が見えない時でもその心情が痛いほど理解できて、だからかなりの割合でしんどくなる。わからないなりに勝手に解釈をしていたとしても、いつも誰かの心がよくわかる。
だから、私は信じてしまう。名前もわからない誰かの声に耳を傾けて、迷ったときにはその声を思い出して、その声に救いを求めてしまう。
私は私なのかもしれないし、私ではないのかもしれない。
その境界線が他の世界ではいつも曖昧で、だから他の世界は楽しくて心地が良い。
私は2つ以上の世界を行き来して、どうにもならない世界を生き抜くために、自分自身に救いを求めて救っている。
4歳の時の気まぐれなお姫様はもういない。
でも、4歳の時に出会った気まぐれなお姫様と出会ったことのある大勢の誰かが、今日も私を救っている。