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Mac

Macintosh(Apple Computer)を買ったのは、たぶん1996年あたりだと思う。友人に薦められて、秋葉原で中古の「Power Mac 8100」を買った。それまでパソコンなどそんなに興味を持ったことなどなかったが、確かにその後、最大の遊び道具となっていった。

遊び道具とは言えども、現代の一般人的な感覚とはほど遠いかもしれないですが、私は当時、インターネットというものは、それほど興味がなかったので、確か20世紀の間はネットには繋いだことがなかったと思う。現在の日本人からはきっと想像もつかないかもしれないが、私はそれでもパソコンで遊んでいたのだ。

そんな内容を話したのなら、大半の人にはきっと、ある意味退屈に思われてしまうかも痴れないが、私の遊びはどのようなものだったのかというと、日記や詩やなにかしらの物語や、当時やっていた自身のバンドやとあるプロジェクトに提供していた歌詞など、最初は文章ばかり書いていて、何十万円も出して、ある意味で電子ノートと電子ペンのちょっとイカしたワープロのような使い道で、自分でももったいなかった高い買い物で、なんだか場所もとるデカくて白い箱だな…と思っていた。


ブログやSNSなどに公開するわけでもなく、多くの文章を書いてはデータとして保存するだけ。現在の方々からは理解されないかもしれないが、本当に私はそれで大満足だった。本音を言うと現在でも、別に文章なんて公開する必要を感じてはいない。誰かに見てもらうとか、誰かと繋がるとか、そんなことよりもなによりも私には、ただただ書き表すということが重要だった。

そんな頃、やったこともないのにMacで初めての依頼を承けてしまった。触ったこともないPhotoshopやIllustratorで、ライブフライヤー制作の依頼だった。当時は、音楽関係の中にいたので、かねてからわけもわからず言いふらしていたビジュアル面、デザインや映像をやってみたい!という私に、いま思えば無謀な依頼だったと思う。


——— しかし、そこからだ。Macが楽しくなったのは。

それから本当にわけもわからずに、すべて独学でデザインや映像もMacで制作していく自分になっていき、これまたわけもわからず依頼も増え、いつのまにか職業にもなっていた。

そんな初期の頃、毎夜毎夜、なにかしらグラフィックを描くことが、楽しくてたまらなかった。そんな時代に作ったものも幾つかサイトなどにあげてもみましたが、今みると、もう恥ずかしくて到底見せられないものが多いですね。

しかし、そんなことをやっているうちに、いつのまにか仕事になってしまって、最初からフリーであるからこそ、無駄に忙しさや責任感も覚え、そうこうしているうちに、遊びなんてやらなくなってしまった。

インターネットは繋がなかったので何かを描いたり書いたりするだけで、今とは全く違うパソコンというものがそこにあった。しかし今ではネットは当たり前で、時に前世紀のテレビのように、時間を喰い潰す装置のように感じる時もある。まぁ、それも今ではスマホに代わったが。

いや、いま書いていてわかったが、結局はパソコンやスマホが邪魔をしているのではなくて、要はその向こうの人間が邪魔をしているってことなんだ。そして自分自身がそれを受け入れている。


ネットに繋いでなかった頃のMacの方がいまよりもクリエイティブだったように思える。やってることは遊びと変わらないが、没頭できた。それを言ったらキリが無いが、本当はパソコンなんか無かった頃の方がもっと没頭できていた。ある意味で、いまよりももっと孤独で、だからこそ孤独感なんて感じたこともなかった。

なんていうか、もちろんとても冷静で、それはある意味とても孤独で、しかし毎夜、表現はおかしいかもしれないが、簡単にトリップできていたあの頃。——— それはそれでとても神聖だったと感じる。

いまでは、様々なノイズや管理の中で、技術も品質も向上はしたが、あの頃の神聖さは無い。おかしな話だが、あの頃、Macも共に喜んでいたと感じている。

私の感覚ですが、モノは生きていますからね。これまたある意味ってやつだけれど。あの頃はいい友達で、いまはいい仕事仲間で、今後はまたもっと喜ばせてあげようと思っています。

そういうところがMacなんですよね。

しかし、創始者のいた頃のお話ですけどね。

20150522 6:36




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